富山鹿島町教会

礼拝説教

「選ばれた十二使徒」
創世記 35章22節b~26節
マルコによる福音書 3章13~19節

小堀 康彦牧師

1.主イエスに選ばれた者
 今朝与えられております御言葉には、主イエスが、使徒と呼ばれる12人の弟子を選ばれたことが記されております。この12人の使徒たちが、後に全世界に広がりますキリストの教会の一番初めの人たちです。この12人が選ばれた出来事の中に、キリスト者とはどのような者なのか、キリストの教会とはどういうものかが表れております。
 第一に教えられますことは、キリスト者、イエス様の弟子というものは、イエス様に選ばれた者であるということです。私共がキリスト者となるには、ここで決定的な逆転が起きるのだということです。
 私共がキリストの教会に通うようになったきっかけは様々でありましょう。それこそお母さんのお腹の中にいた時から教会に来ていたという人もいるでしょうし、青年時代に教会の門をくぐったという人もいるでしょう。あるいは、やや高齢になってから、友人や家族に連れられて来たという方もおられるでしょう。教会に来るようになった年齢もきっかけも様々です。しかし、教会に通い出した頃の私共には共通している所があります。それは、私が選んで、私の意思で教会に来ているという思いです。私共は誰でも、教会に通い始めた頃は、私が自分の意思で自分で選んでここに来ているという思いを持つものであります。当たり前と言えば当たり前のことです。せっかくの休みの日、このようにここに来るのですから、「教会に行くぞ!」という思いが無ければ、続くはずもありません。ところが、教会に通い続けてやがて信仰が与えられますと、このようには考えないようになるのです。神様が私を選んで、教会へと導いてくださった。そう思うようになるのです。不思議なことですが、必ずそうなるのです。この逆転が、実に決定的に重要なのです。主語が変わると言っても良いでしょう。私が、私が、という主語から、神様が、イエス様がという主語に変わるのです。それは、私共の信仰というものは、神様に与えられるものであるということを意味しています。また、信仰が与えられることによって、私の命、私の人生が、神様に与えられたものであり、神様の導きの中にあるということに気付かされるということでもあります。
 今は受験のシーズンで、若者たちはこれで自分の人生が決まってしまうかのような、必死の思いでこれに取り組んでいるのだと思います。私もそうでした。しかし、どこの学校に行こうと、そこにはそこでの神様の御手の中にある歩みがあるのであって、つまり失敗も成功も無いのですけれど、若い人にはなかなかそれは分からないことなのでしょう。

2.多様な弟子たち
 さて、13節に「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。」とあります。直前の所ではイエス様は湖のほとりにおられたのですが、ここでは山に登られています。この山というのは、立山のような高い山を考えることはありません。小高い丘のようなものをイメージしてくださって良いのではないかと思います。ただ、福音書の中でイエス様が山に登るというのは、ある意味があるのです。それは、神様との交わりの時を持つ、祈りの時を持つという意味です。イエス様はこの時、父なる神様との交わりを持つために、祈るために山に登られたのです。そして、その父なる神様との交わりの中で、12人の使徒を選ばれたのです。
 この時、12人を選ばれた理由は何だったのでしょうか。聖書はそれについて何も記しておりません。ただ「これと思う人々を呼び寄せられると」と告げるだけです。私共は、「選ばれた」という言葉を聞きますとすぐに、どういう理由で、どういう基準で選ばれたのかと考える所があります。しかし、それは私共には分からないのです。神様は分かっています。イエス様は知っています。イエス様が父なる神様と祈りの交わりの中で「これと思う人」を選んだのです。何度も申しますが、神様、イエス様がこの時12人の使徒たちの何を見て「これ」と思われたのか、それは分かりません。私共には隠されていることです。しかし、確かに神様は、イエス様は、この12人に対して「これ」と思われたのです。神様の中には、私共には分からない理由があったのです。
 16節以下に、選ばれた12人のリストがあります。ここには実に多様な特徴を持った人々の名が記されています。
 使徒になる前の職業や経歴で言いますと、シモン・ペトロ、ヤコブとヨハネ、それにアンデレはガリラヤ湖の漁師です。ここで、ヤコブとヨハネの兄弟は、イエス様からボアネルゲス、”雷の子ら”というあだ名を付けられています。このヤコブは、最初に殉教した人です。そしてヨハネは、ヨハネによる福音書やヨハネの手紙一、二、三を記した人と考えられてきました。このヨハネは、「互いに愛し合いなさい。」と手紙の中で何度も語っており、愛の使徒などとも呼ばれます。しかし、使徒として選ばれた時は”雷の子”でした。この”雷の子”というのをどう受け取るかですが、ルカによる福音書9章51~55節にはこんなエピソードが記されています。イエス様一行がサマリア人の村に入った時、人々がイエス様を歓迎しなかったので、このヤコブとヨハネが「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言ったというのです。もちろん、イエス様は彼らを戒められました。何とも激しい二人です。すぐにカッとなって、大声を上げて怒り出す。それで”雷の子ら”と呼ばれたのかもしれません。
 フィリポ、バルトロマイについては、あまり良く分かりません。
 マタイは徴税人です。徴税人というのは、当時のユダヤにおいては、決して救われることが無いと考えられていた、罪人の代表のような人です。ユダヤを支配しているローマの手先となって税金を取り立てるなど、とんでもない。ユダヤ人の風上にも置けない奴だ、国賊だと思われていたのです。一方、熱心党のシモンという人がいます。この熱心党というのは、ローマからの独立を果たすためには武力闘争も辞さないという人々です。民族主義者、過激派、テロ集団と言っても良いかもしれません。徴税人と熱心党の人が同じ所にいるというだけでも不思議です。
 最後には、イスカリオテのユダの名前が記されています。わざわざ「このユダがイエスを裏切ったのである。」と記されています。どうして主イエスを裏切るような人が選ばれたのか。イエス様の目は節穴だったのか。そうではないでしょう。神様もイエス様も、ユダが裏切ることを承知の上で選ばれたのです。ユダだけではないのです。筆頭に挙げられているシモン・ペトロにしても、イエス様が捕らえられた時、イエス様のことを知らないと三度も否認したのです。主イエスを裏切ったのです。また、トマスも、主イエスが復活されたということを聞いても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言った人です。疑い深いトマスなどと言われたりします。
 このように見てきますと、ますますどうしてこの12人が選ばれたのかが分からなくなります。高い教育を受けた者でもない。すぐにカッとなるような短気な者もいる。人々から嫌われ軽蔑されるような者もいる。武力闘争するような危ない人もいる。そして、主イエスを裏切る者までいる。何か、単なる寄せ集め集団のようにさえ見えてきます。もう少しましな人たちを選べば良かったのにと思われるかもしれません。しかし、これが神様の選びなのです。私共もそうなのです。何で選ばれたのか、その理由はさっぱり分からない。もっと優しくて、賢くて、行動力がある人はいくらでもいるのに、私共が選ばれた。理由がさっぱり分からない。分からなくて良いのです。私共の側に理由なんて無いからです。逆に、私は○○だから選ばれたのだなどと考える人がいたら、それこそとんでもないことでしょう。私共の中には何も無いのです。ただ神様が憐れんでくださり、愛してくださり、選んでくださった。それしかないのです。しかし、選ばれたのは神様ですから、この選びに間違いはないのです。私共が選んだのなら、間違うことがあるでしょう。というより、間違いだらけだと思います。しかし、神様の選びには間違いはないのです。これが、私共の「救いの確かさ」の根拠なのです。何故、私共は自分が救われると確信出来るのか。それは、私共の中に根拠はありませんし、私がイエス様を選んだからでもありません。イエス様が私を選んで、信仰を与えてくださった。この選びに間違いはない。だから、私共は救われることになっているのです。神様の選びに間違いはないからです。

3.十二人
 ところで、どうして選ばれた使徒は12人だったのでしょうか。イエス様が選ばれたのだから分かるわけがない。それはそうかもしれませんが、イエス様は闇雲に12人を選ばれたのではないのです。そこには旧約以来の神様の救いの御計画、神様の救いの筋道とでも言うべきものがあるのです。
 それは先程お読みしました創世記にありますように、神の民はヤコブ、神様によってイスラエルという名を与えられた人ですが、このヤコブの12人の息子からイスラエルの12部族が生まれたのです。イエス様はここで12人を選ぶことによって、ここから新しい神の民、新しいイスラエルを造ろうとされたということなのです。
 ここで「十二人を任命し」とある言葉は、直訳すると「十二人を造り」という言葉なのです。イエス様は12人の使徒を、ここで新しいイスラエル、新しい神の民として創造されたということなのです。今まで見てきましたように、この12人はまことに欠けの多い、雑多な人たちです。しかし、イエス様によって神の民として新しく造られた者たちなのです。私共もそうです。どういう性格であるとか、どういう能力があるとか、どんな経歴であったとか、そんなことは全くどうでも良いことなのです。それより何より大切なことは、イエス様の選びの中で新しく造り変えられた者であるということです。それは、イエス様によって新しい使命、新しい生きる目的を与えられた者として造り変えられたということなのです。

4.主イエスの選びの目的
 この選ばれた12人ですが、イエス様にはここで選んだ目的がありました。これが大切です。イエス様は何の目的もなしに選ばれたのではないのです。この目的は、すべてのキリスト者が選ばれた目的であり、キリストの教会が建っている意味であり、目的を示しているのです。
 14~15節に「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」とあります。これは、イエス様の救いの御業に仕え、その御業を受け継ぎ、継続するために使徒が選ばれ、キリストの教会が建てられたということを示しています。このイエス様の救いの御業に仕えるとは、神の国の福音を伝えること、神の国の到来を告げることです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と告げていくことです。その際に何より大切なことは、伝えるべきこと、告げていくべきことが何であるかということを良く分かっていることです。伝えることが分かっていなければ、伝えようがありません。そこでイエス様は、12人の使徒たちを「自分のそばに置く」ために選ばれたのです。イエス様のそばに居ることによって、イエス様が語られること、為されること、それをつぶさに見て、聞いて、受け止めていく。そのことをイエス様は使徒たちに求めたのです。実にありがたいことに、このことがありましたから、私共の手元にこのように福音書があるのです。この福音書の元になっているのは、この使徒たちの記憶なのです。
 しかし、どうしてイエス様は使徒たちを自分のそばに置かれたのでしょうか。それは、イエス様の救いの御業とイエス様御自身というものは分けることが出来ないものだったからなのです。キリスト教の教え、あるいはキリスト教が告げる救いというものは、私共のために十字架にお架かりになってくださったイエス・キリストというお方を抜きに、哲学的に、論理的に、把握したり、理解したり、伝えたり出来るものではないのです。キリスト教の教理を頭で理解して、それによって救いに与るということは出来る話ではないのです。もちろん、様々なキリスト教についての本を読むことが無駄であるということではありません。それは、それで意味があります。キリストを信じるための準備、助走のようなものとしてです。しかし、準備は準備に過ぎませんから、いくら長く準備しても、いくら長く助走をしても、飛び出さなければ意味がありません。キリストに向かって飛び出すのです。主イエス・キリストの救いに与るということは、イエス様を愛することであり、イエス様との交わりに生きることであり、イエス様を我が主、我が神と信じ、従っていくことなのです。その意味では、キリスト教を伝えるということは、主イエス・キリストを伝えるということなのです。そのために、弟子たちは主イエスのそばに居るように選ばれたのです。
 しかし、この「イエス様のそばに居る」ということは、主イエスを理解するためという理由だけではありません。実に、この「イエス様のそばに居る」ということ自体が、救われる上で何より大切なことだからなのです。イエス様の救いに与るということは、イエス様と共に生きるということなのです。私共は、まずイエス様のそばに居る、そういう者として選ばれたのです。いつでも、何処ででも、イエス様のそばに居ることによって、私共はイエス様の御言葉に触れ、イエス様の御業を見て、いよいよイエス様の救いの御業にお仕えする者として変えられ、整えられていくのです。それは、使徒ヨハネのように、”雷の子”と呼ばれた人が”愛の使徒”と呼ばれるように変えられていくということなのです。いよいよ深く、いよいよ豊かに、イエス・キリストというお方との交わりの中に生きる者とされていくのです。このことが無ければ、私共が語る救いも、空虚なもの、口だけのもの、言葉だけのものとなってしまうでしょう。口先の言葉だけでは主イエス・キリストを、イエス様の救いを伝えることは出来ません。そこには、主イエス・キリストとの確かな交わりがなければならないのです。

 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐は、主イエス・キリストの体、主イエス・キリストの血潮に与ることです。このことによって、私共は確かに主イエス・キリストのそばに生きているということを知らされるのです。主イエス・キリストは、私共以上に私共のことを御存知であり、私共自身よりも私共の近くに居てくださるお方です。このお方と共に、このお方を愛し、このお方の声を聞きつつ、このお方に従ってまいりましょう。そのために私共は選ばれたのですから。

[2014年3月2日]

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