富山鹿島町教会

礼拝説教

「悪霊と聖霊を見分ける」
イザヤ書 61章1節
マルコによる福音書 3章20~30節
コリントの信徒への手紙 一 12章1~3節

小堀 康彦牧師

1.Mさんの葬式
 昨日、2月14日に病床洗礼を受けられましたM・Mさんの葬式がここで行われました。Mさんが主の日の礼拝に出席されたのは3月2日の礼拝だけです。ですから、生前のMさんにお会いすることがなかった方がほとんどだと思いますが、前夜式・葬式とたくさんの教会員の方々が出席してくださり、本当に嬉しく、ありがたく思いました。今回のMさんの場合、御家族の中に私共の教会員、あるいはキリスト者が誰もおられないという、とても稀なケースでした。そういう方が教会で葬式をして欲しいと申し出られた場合、教会はどうするのか。原則的にはお受けするという以外ないと思います。ただ、亡くなってから申し出られましても、教会は葬儀屋ではありませんので、それは難しいと思います。教会が葬式をお受けするということは、死を前にしている方と、また御家族と、死への歩みを共にするということであります。聖書を読み、共に祈りを合わせながら、主イエス・キリストによって与えられている救いの恵み、死を超えた命の祝福、罪の赦しを受け取りつつ歩むということです。主イエス・キリストが、死という、私共に覆い被さってくる虚無の力に対抗し、これと戦い、これを破り、共に歩んでくださっていることを信じ、その主イエスと共に歩んでいくことです。
 私は、今回Mさんから葬式の申し出を受けて、もう20年も前になるでしょうか、前任地で同じような申し出を受けて葬式をしたことを思い出しました。まだ牧師に成り立てで、教団や教区の仕事もなくて比較的時間があり、小さな町ですから病院まで自転車で10分と近くだったこともあり、ほとんど毎日病室に見舞いに行き、枕元で聖書を読み、讃美歌を歌い、祈りました。その頃の自分を思い出したのです。そして、「今の自分は、何だ。」と思いました。忙しいことを言い訳にしていないか。神様から、「小堀、お前はどうしたのだ。そんな牧師ではなかったはずだ。立て!」そう叱られたように思いました。そして、この申し出を聖霊なる神様の導きとして受け止め、全力で葬式までの歩みをいたしました。毎日は行けませんでしたが、二日に一回は何とか行くことが出来ました。神様が生きて働き、導いてくださることを改めて教えられる、とても良い出会いでした。

2.食事をする暇もない主イエス
 今朝与えられております御言葉は、20節「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」と始まっています。「イエスが家に帰られると」とあります。この「家」というのは、イエス様の実家ということではありません。多分、この頃イエス様の活動の拠点となっていた、弟子のシモン・ペトロとアンデレの家だろうと思います。そして、イエス様がここに戻って来ると、群衆がすぐに集まって来ました。イエス様に病気を癒してもらいたい、悪霊を追い出してもらいたいと願ったからです。それは、イエス様と弟子たちが「食事をする暇もないほどであった」と聖書は記します。私は、この何気ない言葉に心を打たれるのです。イエス様はどういうお方なのか。そのことがはっきり示されていると思うからです。
 イエス様は、自分のもとに救いを求めてやって来る病気の者、悪霊に憑かれた者、困窮した者を退けることなく、御自身は食事をする暇もないほどになっても、救いの御業を為されたのです。これが私共の主イエス・キリストというお方なのです。これが主イエス・キリストの愛の姿なのです。今は忙しいとか、今日の仕事はこれでお終い、そんな風には対応されないのです。これが愛なのです。我が身を捨てて、なのです。この愛の究極に十字架があります。ですから私共は、安心して、イエス様にお願いしたら良いのです。イエス様は自分のことなど顧みてはくれないのではないか、私の悩みなど、苦しみなど聞いてくれないのではないか、そんな風に考える必要は全くないのです。誰でも、いつでも、どこでも、何でも、主イエスにお願いしたら良いのです。

3.主イエスの御業に巻き込まれて
 ただ、ここで一つ確認しておかなければならないのは、私共はイエス様ではないということです。食事をする暇もないほどに働き続けたら体を壊します。決して長続きしません。私共は弱いのです。キリスト者はイエス様のように休みなく愛の業に働けというのは、ブラック企業ならぬ、ブラック教会でしょう。しかし、ここで食事をする暇がなかったのはイエス様だけではなくて、「一同は」とありますから、イエス様の弟子たちもそうだったということです。私共も、先立つイエス様の御業に巻き込まれて、食事をする暇がないという時もあるのです。クリスマスの時などは、そうかもしれません。それでも食事はとりますけれど。ここで大切なことは、主イエスの御業に巻き込まれているのか、イエス様が先立ってくださっているかどうかということなのです。私共が事を為すときに、聖霊なる神様の促しの中でそれを為すのかどうかということなのです。これは、自分でこうするのが良いと思って行うというのと似ているようですが、実は決定的に違うのです。この違いを説明することは難しいのですけれど、全く違うのです。聖霊なる神様の促しは、神様にお仕えする、献身するという思いを私共に明確に与えるのです。このことが明確であるならば、私共はその業の結果や人からの評価に心を動かされることはありません。しかし、こうしなければならない、こうすることが良いことなのだ、というところで事に当たりますと、私共はいつでもその結果や人からの評価ばかりが気になります。そして、思うような結果が出ませんと、やる気が無くなるということになりかねないのです。私共は、この違いを良く弁えなければなりません。私共はただ聖霊なる神様の導きの中で、先立ち給う主イエス・キリストにお仕えして行くのです。

4.主イエスに反対する者
 そのように忙しく神様の救いの御業に励むイエス様に対して、反対する二つのグループの人々が現れます。第一のグループは、「身内の人たち」です。これについては、来週、31節以下の所を見る時に詳しくお話しいたしますけれど、要するに、イエス様が癒やしをなさったり、神の国の到来を告げたりする様子を見て、「あの男は気が変になっている。」と言う人がおり、身内の者として放っておくことが出来ずに取り押さえに来たというのです。身内の者の気持ちも分からないではありません。私共も身内からイエス様のような者が出たら、「お前、どうかしちゃったんじゃないか。」と言って家に連れ戻し、家から出ないようにさせるかもしれません。イエス様というお方は神の御子でありますから、いわゆる常識の中では捉えることが出来ない方なのです。この身内の者の間違いは、身内であるが故に、イエス様を自分たちと同じ所で理解してしまったことにあるのでしょう。
 この間違いは、私共が信仰を与えられる前に犯していたものです。イエス様が語られたことを、「ここはなかなか良いことを言っている。」などと評価するのです。「なかなか良いこと」の基準は、私の常識であり、私の考えでしかありません。しかし、そのようなあり方で、イエス様を知ることは決して出来ないのです。イエス様は神の御子だからです。
 第二のグループは、エルサレムから下って来た律法学者たちです。22節に「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」とあります。この「エルサレムから下って来た律法学者たち」というのは、当時のエルサレムを中心とするユダヤ教の指導者たちと考えて良いでしょう。ガリラヤで活動されていたイエス様のことが、エルサレムにまで聞こえ、そしてイエス様を査察に来たということなのでしょう。この人たちのイエス様に対する理解、評価は、「あの男はベルゼブルに取りつかれている。悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。」というものでした。このベルゼブルというのは、単純に悪霊の頭と考えていただいて良いのですが、ある人は「ハエの王」という説明をしています。「ベルゼブル」と10回言っていますと、何となくハエが飛んでいる時の羽音のように聞こえてきます。いずれにせよ、イエス様が悪霊を追い出したり、病気を癒したりするのは、悪霊によるのだ。イエス様こそ悪霊の頭だと言うのです。

5.悪霊と聖霊の違い
 この論理も分からなくもありません。日本にはカルトと呼ばれる反社会的な宗教がたくさんあります。時々マスコミを賑わせておりますが、オウム真理教とか、統一原理などというのは、その代表格でしょう。この手のカルトの一つの特徴は、何か不思議な奇跡をして見せるのです。その多くは子どもだましの手品のようなものなのですが、このような力のある教祖様を信じなさいというわけです。私などは、このようなカルトはまさに悪霊によると思っているのですが、そうすると、悪霊と聖霊はどう違うのかということが問題になるでしょう。皆さんはどう思うでしょうか。
 一つの簡単な見分け方は、悪霊はお金を求めますが、聖霊は求めません。これが一番簡単な見分け方です。二つ目は、カルトは私の個人的な幸、私だけの、広がっても自分の家族だけの、目に見える幸を約束します。天を見上げさせるようでいて、実は地上の幸い、富、地位、名誉、力、健康といったことに心も思いも虜にさせるのです。そして、実際にはそのすべてを奪っていくのです。

6.愛に生きる方の力ある言葉
 イエス様はここで、一つのたとえを話されて、論じます。23節b~26節「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」悪霊、サタン、ベルゼブルも、それなりに秩序があるだろう。内輪もめをしていてはその家は成り立たない。ここで家をたとえに出しているのは、ベルゼブルというのが「ハエの王」と先程申しましたが、「家の王」という意味もあるからだと思います。あなたがたはわたしをベルゼブル、家の主人と言うが、その主人が悪霊を追い出したら、内輪もめではないか。そう言われるのです。そして、27節「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われます。ここでイエス様は、悪霊の家の主人であるベルゼブルを縛り上げて、ベルゼブルの手下である悪霊を追い出しているのだと言われるのです。
 私はここに、頭でっかちで、すぐにこれは聖書にこう書いてあるから正しい、正しくないという風にしか物事を考えることが出来なかった律法学者と、実際に悪霊と戦い、悪霊の支配の中で苦しんでいる人を救い出すために食事をする暇もないほどに働いておられる主イエス・キリストとの、決定的な違いがあると思うのです。教会が語ることは正しくなければなりません。聖書に根拠を持たなければなりません。しかし同時に、神様は今も生きて働いておられるのですから、この神様のお働きに従っていくということでなければならないのです。正しいだけではダメなのです。力がなければなりません。その力とは、愛の力です。律法学者がここで言っていることは理屈です。しかも、今までの自分の宗教的な理解、立場を守るための理屈です。これでは力にならないのです。私共が信仰の学びをするというのは、このような理屈をたくさん仕入れることではないのです。悪しき力、神様から離れ自分のことしか考えることが出来ない罪から人々を解放するために、主イエスと共に働くための学びなのです。

7.すべて赦される。しかし、
 最後にイエス様はこう言われました。28~29節「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」これは少し難解な言葉のように思われるかもしれません。ここで「人の子」と言われているのは、私共人間のことです。私共が犯す罪、どんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。これは聖書が一貫して告げている罪の赦しのことでありますので、ありがたいと納得出来ます。しかし、29節の「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」とは、どういうことなのか。すべてが赦されると言ってすぐに、永遠に赦されないと言われる。赦される罪と赦されない罪があるのか。赦されない罪とは一体何なのか。そのように考えてしまうかもしれません。しかし、主イエスがここで言われているのは、そんなに複雑なことではないのです。
 先程、コリントの信徒への手紙一12章1~3節をお読みしました。3節には「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」とありました。実に、主イエス・キリストを信じる、主イエス・キリストを我が主人として受け入れ、告白するということは、聖霊なる神様によるのです。信仰が与えられるものであるとは、そういうことです。聖霊によってしかイエス様を信じることは出来ませんから、聖霊を冒瀆する、つまりこれは、聖霊なる神様の御業を受け入れない、イエス様への信仰を受け入れないということです。そうであれば、どうして救われることがあるかということなのです。私共の救い、私共の罪の赦しは、私共がどんな良いことをしたか、どんな良い人かということによるのではありません。私共の一切の罪を帳消しにするほどの良い業など誰にも出来ませんし、罪の裁きを受けないほどに良い人などどこにもいないのです。ですから私共は、主イエス・キリストの十字架による身代わりの犠牲によって、イエス様が私のために、私に代わって一切の裁きを既に引き受けてくださったことを信じ、この信仰によって救いへと至らせられるわけです。つまり、この主イエスの言葉は、主イエスを信じるならば一切の罪は赦され、救われる。しかし、主イエスを信じず、受け入れないのであれば、その罪は残る。罪が残ってしまえば、罪の責めを負わなければならないことになってしまうでしょう。
 イエス様は、赦される罪と赦されない罪の二つがあると言われているのではないのです。すべては赦されるのです。それは主イエス・キリストの十字架によってです。主イエスを信じる信仰によってです。そして、その信仰を与えるのが、聖霊なる神様なのです。ですから、聖霊を冒瀆する者は救われないと主イエスは言われたのです。こう言っても良いでしょう。聖霊なる神様は私共に信仰と共に愛を注いでくださいます。この愛が無ければ、神様に仕えることも、隣り人に仕えることも出来ません。この愛が、悪霊と聖霊を見分けることにもなるのです。聖霊の御業を冒瀆する者は、愛が分からないということにもなるのでしょう。
 私共は聖霊なる神様によって信仰を与えられ、罪を赦され、救われました。ありがたいことです。しかしそれは、愛を注がれて、いよいよ神様の御業に仕え、隣り人に仕えるためなのです。自分は罪を赦された、良かった良かった、では済まないのです。先立ち給う主イエスの愛の業にお仕えする者として歩み出していくのです。そのような者として、私共は召し出されているのです。

[2014年3月9日]

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