富山鹿島町教会

ペンテコステ礼拝説教

「聖霊を受ける」
イザヤ書 32章15~18節
使徒言行録 2章37~42節

小堀 康彦牧師

1.ペンテコステ
 今日、私共はペンテコステの記念礼拝を守っております。主イエス・キリストは十字架に架かり、死んで葬られ、三日目に復活されました。そして、40日にわたって弟子たちにその姿を現し、教えを与え、天に昇られました。その時、主イエスは聖霊が降ることを約束され、弟子たちに待つようにと命じられました。だから弟子たちは、心を合わせて祈りつつ、聖霊が降るのを待ちました。その間、ユダによって欠けた使徒を補充しました。マティアです。それらのことが使徒言行録の第1章に記されています。そして10日経って、弟子たちに聖霊が降ったのです。それがペンテコステの出来事です。この日は五旬祭の日でした。五旬祭というのは、50日の祭りということです。ペンテコステという言葉は、この50日祭、五旬祭の50という意味のギリシャ語です。ペンテコステの祭りは、旧約では七週の祭りとも呼ばれ、小麦の刈り入れを祝う収穫の祭りでもありました。後には律法授与の日としても祝われるようになった、とても盛大な祭りです。過越の祭りの時にイエス様は十字架に架けられ、復活されました。そして、五旬祭の時に聖霊が降ったのです。ここで、旧約の祭りと、新約における主イエスによって為された救いの御業の日が重なっていることに気付かされます。このことは、旧約における神様の救いの御業が、主イエス・キリストの救いの御業へとつながっていることを示しているのであり、旧約における出来事と新約における主イエス・キリストの救いの御業が、一連の、一繋がりの神様の御業であるということを示しているのでありましょう。
 このペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降り、キリスト教会の伝道が開始された。そして、そのことによってキリストの教会が誕生しました。キリストの教会はこの日以来、主イエス・キリストをまことの救い主、神の子として公に語り、告げ知らせる群れとして立ってきました。キリスト教が伝道宗教であるということは、この出発の時からずっとそうなのです。キリストの教会は、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることを抜きにして、自分たちの救いだけを求め、保持するような存在としては建てられていないのです。私共を救い、教会を建てられた聖霊なる神様が、それを許さないのです。聖霊なる神様が降る時、キリストの復活の証人として弟子たちは立てられ、遣わされるのです。

2.わたしたちはどうしたらよいのですか
 さて、今朝与えられております御言葉は、このペトロの説教を聞いた人々が「大いに心を打たれ」、「『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」ことから始まっています。この日エルサレムに集まっていた人々の中には、50日前にイエス様が十字架につけられたのをその目で見た人も多かったと思います。そして、イエス様を十字架に架けることをピラトが決めた時、ピラトは何とかイエス様を十字架につけないで済むように計らったのですが、そこに詰めかけていた群衆が一斉に「十字架につけよ」「十字架につけよ」と叫んだので、イエス様は十字架につけられることになってしまったのです。あの時に「十字架につけよ」と叫んだ人もまた、この時のペトロの説教を聞いた中にいたに違いありません。50日前に十字架に架けて殺したイエスが本当に復活したのなら、自分はどうすれば良いのか。自分は神様に真っ向から逆らったことになる。「わたしたちはどうしたらよいのですか。どうしたら救われるのですか。」だから、そう問わざるを得なかったのです。
 聖霊が降った時、この「わたしはどうすればよいのか」という深い嘆きと共に、救い主を求める思いが起こされたのです。ペトロの説教が人々の心に届いたのです。ここに聖霊の御業が現れています。先週、二人の方が洗礼を受けられました。このお二人の心の中にも、「わたしはどうすればよいのか」という思いが与えられた。そして、主の日に教会に集うようになり、洗礼を受けることになったのです。
 私共は、人生の様々な局面において、「わたしはどうすればよいのか」と途方に暮れることがあります。しかし、その多くの場合、何かうまい手はないか、どうすればこの困難な状況を抜け出せるか、そのようなレベルでしか考えないのではないかと思います。どうすれば仕事が見つかるか、どうすれば病気が治るのか、どうすればこの痛みが和らぐのか、どうすればこの人間関係が上手くいくようになるのか、等々です。それらはどれも深刻な重大な問題です。それに心を奪われれば、何も手に付かなくなるほど大きなことです。しかし、それらのことが解決したとしても、また次の問題が起きてきます。人生とはそういうものです。
 この時ペトロたちに「わたしはどうすればよいのか。」そう問うた人々の言葉は、深い宗教的次元における問いであり、私共が途方に暮れて口にする「わたしはどうすればよいのか。」とは次元が違う。いいえ、私はそうは思わないのです。実は、私共が途方に暮れて「わたしはどうすればよいのか」と口にする時、私共は神様の救いにとても近いところにいるのです。ただ問題は、これを誰に向けて問うのかということです。この時人々は、ペトロたちに問いました。そして、主イエスの救いへと導かれました。残念ながら、世の人々の多くは、教会の牧師のところには「わたしはどうすればよいのか。」と言ってきません。牧師のそれに対しての答えは、この時のペトロの答え以来、ずっと同じです。

3.悔い改めなさい
 ペトロがこの時告げたのは、この世の常識を全く越えた新しい答えでした。そして、この答えこそ、キリストの教会が世の人々に向かって二千年の間語り続け、今も告げていることなのです。38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」これが教会が告げて来たことであり、今朝私共に与えられている神の言葉です。一つずつ見てまいりましょう。
 まず、「悔い改めなさい」です。これはいつも言っていることですが、「反省しなさい」ということとは全く違います。人は何度も反省するのです。そして、また同じ過ちを何度も繰り返すのです。もちろん、反省は大切です。自分がやった具体的な罪をちゃんと認めなければなりません。しかし、それだけではダメなのです。反省だけでは人は変われないのです。「悔い改め」とは神様に立ち帰ることです。これがあれば良い、あれがあれば良い、そんな風に生きていた自分。神様の御心など考えたこともなく、自分の力と思いだけで生きていると思っていた自分。そんな自分が生きる方向を変えて、自分を造り、生かし、守り、支えてくださっている神様に感謝し、神様の御心を求め、神様に従って生きていこうというように変わることです。神様に反逆し、敵対していた自分の罪を認め、神様の御前に悔いるのです。そして、改めるのです。
 悔い改めというのは、ただ気持ちの話ではないのです。具体的な生活を含めた問題なのです。悔い改めても生活が何一つ変わらないとすれば、それは悔い改めたことにはならないのです。例えば、主の日に礼拝に集い、神様を拝み、御言葉を受ける者となる。日々の歩みの中で祈ることを大切にするようになる。そういう具体的なところで変わるのです。もちろん、この悔い改めもまた、聖霊なる神様によって与えられるものであります。しかし、神様に向かおうとする、神様を心の中心に、生活の中心に据える、祈る、それは私共が自覚的に行うことでしょう。聖霊なる神様は、私共にそうするように促します。その促しを受け流さないで、きちんと受け止め、それに答えることです。

4.洗礼を受けて、罪を赦していただく
 次に、「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただく」ということです。悔い改めたなら、罪の赦しに与るというのではないのです。悔い改めたのなら、洗礼を受けるのです。洗礼というのはイエス・キリストと一つにされる出来事でありますから、この洗礼によって主イエス・キリストの十字架の犠牲による罪の赦しに与ることが出来るのです。洗礼は単なる儀式ではないか、それにどれほどの意味があるのか、と問われる方もおられるかもしれません。この問いは、理性というものだけが真理を把握することが出来ると錯覚している現代人の考えることです。しかし、残念ながら、そのような思いは聖なる神様への畏れを知らない人のものでありましょう。自らの罪に気付いていない、聖なる神様に撃たれていない人の言葉でしょう。この洗礼の出来事を、新しい人の誕生の時としてくださるのは、聖霊なる神様の御業です。そして、この聖霊なる神様のお働きがなければ、私共の罪が赦されることなどあり得ないのです。立派な人になって、良い行いを積み上げて、罪が赦されるというのではないのです。悔い改めという、私の良き業によって罪が赦されるのではないのです。洗礼を通して聖霊なる神様が働いてくださり、神の子としての新しい私の誕生という出来事が起き、罪赦され、新しくされるのです。

5.賜物として聖霊を受ける
 そして、「賜物として聖霊を受ける」のです。「わたしはどうすればよいのか」と思い、悔い改めて洗礼を受けるというのは、すべて聖霊なる神様の導きの中で起きるのです。しかし、ここで改めて「賜物としての聖霊を受ける」と言われています。この「賜物としての聖霊を受ける」ということは、聖霊なる神様が私共の中に宿ってくださり、信仰を与え続け、信仰者としての歩みを守り、支え、導き続けてくださる。私共の唇に賛美と祈りを備え続けてくださるということであります。神様が与えてくださる平安、希望、喜び、祝福、感謝、そして愛を与え続けてくださるということであります。実に、聖霊を受けての歩み、つまり聖霊なる神様と共に歩む日々が与えられるということなのです。聖霊なる神様を受けるとどうなるのかというのは、人それぞれ置かれている状況の中で、全く違った現れ方をします。そこに、一人一人の信仰の証しの生活が展開されるわけです。私共キリスト者は一人一人全く違った信仰の歩みをしますが、その全く違う歩みを導いてくださっているのは、同じ聖霊なる神様なのです。
私共は「信仰の証し」というものを聞く機会があります。そこでは、その人だけの体験が語られます。誰も同じ体験などしたことはありません。ところが、それを聞く私共は「ああ、私と同じだ。」と思うのです。それは、同じ体験をしたということではありません。そうではなくて、「私と同じ神様の導き、御業に与っている。同じ聖霊なる神様が為されたことだ。」と思うのです。
 私共の信仰の歩みは、この聖霊なる神様のお働きと導きとがなければ、何も成立しないのです。私共は、聖霊なる神様の実におびただしい御業に囲まれて、信仰者としての歩みを一日一日為しているのです。

6.全ての人に与えられている約束
 そして、ペトロは続けてこう告げました。39節「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」この「悔い改め、洗礼を受けて罪を赦していただき、聖霊を受ける」という約束は、このペンテコステの日にペトロの説教を聞いて悔い改めた人々、その場に居合わせた人々だけではなくて、場所を超え、時を超えて、主が招いてくださるすべての人に与えられているものなのです。この時から二千年も経った、エルサレムから遠く離れた私共にもまた、この約束は与えられており、この約束によって私共もまた救われたのです。
 この約束の普遍性によってキリスト者は生まれ、キリストの教会は建っています。もちろん、私共は日本人であり、この教会は富山にある教会です。私共は日本人であることをやめたのではないですし、この教会も富山にあるという地域性を持っていないわけでもありません。この時代のこの地に生きるキリスト者であり、教会です。しかし、そうであるにもかかわらず、私共を生かし、この教会を生かしているのは、そのような時代や地域を超えた、普遍的な、天と地のすべてを造り、永遠から永遠に生き給うお方の約束、救いの御業なのです。この神様の普遍的な約束の前には、人種も性別も国境も政治的立場も社会的立場も富も、一切のものは意味を持ちません。この約束はすべての人に開かれており、それ故教会は様々な人の集う所となるのです。

7.邪悪なこの時代から救われなさい
 そして、更にペトロはこう告げました。「邪悪なこの時代から救われなさい。」この「邪悪な時代」というのは、ペトロがいた時代が邪悪な時代だったということではないと思います。あるいは、最近の日本の状況が昔に比べて邪悪な時代だというのでもありません。神様の目から見れば、天国と比べるならば、どの国のいつの時代も邪悪な時代なのです。何故なら、どの国のいつの時代でも、人は自分のことを第一とし、神様のことなど関係ないと思って生きているからです。神無き世界、罪の支配する世界だからです。ですから、いつの時代でも、国と国とが争う戦争が起きているし、貧しい者は苦しんでいるし、弱肉強食の経済戦争は展開しています。弱い者、小さい者は虐げられているのです。そして、それに何の疑問も持たず、当然のこととして誰もが生きている。それを邪悪な時代と言っているのです。そこから目を覚まし、神様のもとに立ち帰れ、そして救われよ。そうペトロは告げたのです。
 どの国のいつの時代も、人間中心の考え方や習慣というものに満ちております。私共はその中で生活しているわけですから、これと無縁に生きることは出来ません。知らず知らずのうちに、その時代の風潮というものに影響を受け、流されてしまうものなのです。これが当たり前、常識ということになってしまうのです。残念ながら、私共は時代を超えるということは出来ません。ですから、私共の考え方がいつも正しいなどとはとても言えません。単に自分が育った何十年か前の時代の考え方で、今の時代を批判しているに過ぎないことだって少なくないのですから。しかし、キリストの教会は、普遍的な神様の救いの恵みに基づいた、聖書に基づいた、価値観というものを持っているものなのです。何が本当に大切なのか。失ってはならないものは何なのか。普遍的な約束、神の言葉に基づいた価値観というものを持っているものなのです。これをはっきりしておかないと、すべてが時代の流れの中で流されていってしまうでしょう。そうなってしまえば、キリストの教会は時代を、世を、造り変えていく力を失ってしまいます。世の光、地の塩としての存在意義を失ってしまうことになるのです。
 今、このことについて具体的に話す時間はありません。しかし、一つだけ。私は、この歳になっていよいよ、本当に大切なのは「愛」だということを思わされています。そして、いよいよ自分の中には愛が無いということを思い知らされています。ですから、「聖霊よ、我に降り、我に愛を与え給え。」そう、毎日祈らざるを得ないのです。そして、この教会にも、キリストの愛が満ちあふれるようにと祈るのです。
 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐を通して、私共が主イエス・キリストと一つにされ、罪の赦しに与り、永遠の命への希望を新たにされ、そして、私共の中にキリストの香り高き愛の交わりが形作られていくことを祈り願うのであります。

[2014年6月8日]

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