富山鹿島町教会

礼拝説教

「主に遣わされた者として」
イザヤ書 52章7~10節
マルコによる福音書 6章6節b~13節

小堀 康彦牧師

1.主に遣わされた弟子たち
 イエス様の弟子たちは、いつもイエス様と一緒におりました。イエス様が村から村へと神の国の福音を宣べ伝えて旅をすれば、弟子たちも一緒に旅をしました。イエス様が奇跡をすれば、弟子たちはそれをいつも近くで見ておりましたし、イエス様がお語りなる言葉もお側でいつも聞いておりました。しかし、今朝与えられた御言葉において、イエス様は12人の弟子たちを遣わされました。弟子たちは、初めてイエス様を離れて、自分たちだけで神の国の福音を伝えるために出かけたのです。ずっとではありません。この時だけです。これが終われば、また弟子たちはイエス様と旅を続けたのです。ですから、後に復活されたイエス様は、弟子たちを全世界に福音を宣べ伝えさせるために遣わされますが、これはその時に向けての予行演習のようなものではなかったかと思います。イエス様が十字架にお架かりになり、三日目に復活されて、弟子たちを全世界に遣わされる。その本番に向けて、遣わすに当たっての具体的な指示を与え、その通りおこなったら上手くいったという成功体験を弟子たちにさせておくためではなかったかと思います。その意味では、ここに記されておりますことは、現在に至るまで、イエス様に遣わされた者として生きる伝道者、イエス様に遣わされた者として生きる教会、キリスト者のあり様を示している、そう言って良いと思います。私共は、イエス様に遣わされた者なのです。

2.二人ずつ組にして
 まずここで目にとまりますことは、弟子たちが二人ずつ組にして遣わされたということです。一人ではなかったのです。これは何を意味しているでしょうか。すぐに考えつくのは、困ったり行き詰まったりした時でも、二人ならば、励まし合って、支え合って、事に当たることが出来るということでしょう。一人というのは大変弱いのです。誘惑にも負けやすいですし、独りよがりにもなりやすいのです。ここでは二人ずつとなっていますが、一人じゃないということが大切なのだと思います。
 伝道者にとって最悪の状況は、孤独であるということです。私は、神学校を卒業すると同時に結婚し、最初の教会に赴任しました。その最初の一年間は本当に辛く、厳しいものがありました。毎週土曜日になると胃が痛くなる。日曜日の午後になると何ともないのですけれど、それが毎週です。金曜日の夜あたりから、我が家は緊迫した空気に包まれまして、咳をするのも憚られるような感じでした。私の、説教が出来ない追い詰められた気分がそうさせたのでしょう。それはある程度仕方がないことなのですけれど、何より辛かったのは、信頼出来る牧師たちとの交わりがなかったということです。もちろん、結婚して二人で遣わされたということは、一人であるよりずっと良かったと思います。それでも妻は伝道者ではありませんので、伝道者として遣わされて右も左も分からない中で、相談する人がいない。これは本当に辛いものでした。自分が考えてやっていることが正しいのかどうかも分からない。それを判断する仕方も力もない。一年経って、西部連合長老会のK.O教会のW牧師に月一回勉強会をして欲しいとお願いしました。W先生が京都の何人かの牧師に声をかけてくださいまして、月一回の勉強会が始まりました。当時高速道路はありませんでしたから、舞鶴から車で二時間半。少しも遠いとは思いませんでした。神学書を読み、具体的な牧会上の事柄を相談しました。経験豊かな牧師たちが、自分の体験などから親身なアドバイスをしてくださいました。本当に楽しい会でした。メンバーは替わりましたが、10年以上続きました。あの会がなかったら、私は数年でつぶれていただろうと思います。それは、皆さんの教会でのご奉仕でも同じだと思います。一人でやり続けるというのには無理があります。私共は、自分を理解し、支えてくれる、同労者が必要なのです。
 また、この二人ということには、こういう意味もあったと思います。伝道者が伝えるのは神様の愛ですから、自分自身がその愛の交わりに身を置いていなければ、語る言葉に力もリアリティーもなくなってしまうということです。その意味で、伝道者の交わり、同労者の交わりというものはとても大切で、また麗しいものだと思っています。神様の愛が現れ出る交わりだからです。
 しかし、このように申しますと、伝道者があるいは教会の奉仕者が立ち続けることが出来るのは、そのような交わりによって支えられることよりも、神様の召命に対する確信によるのではないかと思われる方もおられるかもしれません。確かに、この召命という事実が何よりも大切なのです。ここでイエス様は「十二人を呼び寄せ」、そして遣わされたのです。イエス様に召し出された者として遣わされる。この事実が何より大切です。しかし、その召命に立ち続けるためには、同労者との交わりが必要なのです。イエス様は、召して遣わすだけではなくて、その召しに立ち続けることが出来るように、二人ずつ組にされたということなのでしょう。
 教会は、このイエス様の愛と知恵に満ちた配慮を、大切なこととして受け止めてきました。復活された主イエスによって全世界に遣わされた弟子たちの様子が、使徒言行録に記されております。そこで私共は大伝道者パウロの伝道の歩みを見ることが出来ます。彼は何度も伝道旅行をしておりますが、あの大伝道者パウロは、いつも一人では伝道に行っていないのです。彼はバルナバ、シラス、テモテといった同労者といつも一緒だったのです。ここには、イエス様が二人ずつ組にして使徒たちを遣わされたということが生かされているのだと思います。

3.何も持たず
 8~9節には具体的な御命令が記されています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」ここには常識では考えられないことが記されております。パンも袋も金も持っていくなと言うのです。これと同じ記事がマタイによる福音書10章とルカによる福音書9章に記されておりますが、そこでは、杖も下着も二枚は持っていくなと言われています。ここでは、杖は持っていって良い、履物も良いと言われています。ここで、何は持っていって良い、何は悪いと、中学校の修学旅行の持ち物リストではないのですから、そんなことを詮索してもあまり意味はないだろうと思います。
 そうは申しましても、気になる方のために若干の説明をするならば、杖というのは旅の途中で熊や狼に襲われた時に必要です。舗装された道を歩いて行くわけではないのです。獣と遭遇することは、普通にあったことでした。また、履物は村から村へと伝道していくのに必要です。自分で身を守り、伝道に必要なものは持っていって良いとされたということでしょう。しかし、「下着を二枚着るな」というのは、変な言い方ですね。普通は下着は一枚しか履かないでしょう。しかし、ここまで徹底して何も持って行くなと言われると、下着は着ているので、持っていってる訳ではありません。そう言う人が出る。これは、言われていないと言って狡をする、それを禁じたということではないでしょうか。
 大切なことは、イエス様がここで言われていることは、通常の旅においては持っていくのが当たり前、それが無ければ旅など出来ないと思うようなものを「持っていくな」と言われたということです。その理由ははっきりしています。弟子たちは神様の愛を伝えに行くのです。神の国はイエス様と共にもう来ている。神様は今、ここで生きて働いてくださっている。だから悔い改めよ。そう宣べ伝えに行くのです。その宣べ伝える事柄を、身を以て証ししなくてどうするかということなのです。神様を信頼しなさいと言っておいて、自分はお金を頼り、二、三日の食糧を確保しておこうというのでは、言っていることとしていることが違うでしょう。神様がすべてを守ってくださるのだから、そのことを信じ、神様にすべてを委ねて行きなさい。その神様への信頼がなくて、どうして神の国の福音を宣べ伝えることが出来ますか。「神の国は来ているのです。神様の御支配を信じなさい。それを身を以て示しなさい。」そうイエス様は、この何も持っていくなということによって、告げられたのでありましょう。この生ける神様への信頼、これこそキリスト者になくてはならないものなのです。世の人々がキリスト者に、キリストの教会に目を見張るのは、この生ける神様への信頼と、その信頼に応えてくださる神様の御業なのです。これが無ければ、キリストの教会は語るべき言葉がありません。キリストの教会というものは、これだけ努力しました、その結果こうなりました、そういう世界に生きているのではありません。ただ神様の憐れみ、生ける神様の御業、神様の奇跡を証しする者として立っているのです。

4.一つの家に留まれ
 10節を見ますと、「また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。』」とあります。これは、弟子たちがその村で福音を告げる時、世話をしてくれる家を転々とするなということです。その意味は、伝道者が良い待遇を求めてうろうろするなということでしょう。そんなことをすれば、生活のために伝道しているということになってしまうからです。伝道者は生活のために伝道するのではないのです。なぜ、教会は牧師に対して「謝儀を呈する」と言って、「給料を支払う」とは言わないのか。牧師は、教会に雇われているのではないからです。牧師は神様から遣わされているものなのです。ですから、牧師がいただくのは感謝のしるしとしてのものであって、給料ではないのです。ですから、牧師は自分の待遇について語ることはしませんし、その教会からの招聘を受け入れるときの条件に謝儀の金額はありません。しかし、教会は出せるだけ、精一杯の謝儀を出すのです。牧師はプロフェッショナルです。素人ではありません。しかし、食べるために牧師をしているのではありません。神様に召され、遣わされた者として、神様の福音伝道の御業に生涯を捧げる者なのです。ここが崩れれば、生活のための牧師ということになれば、それはもう、神様に召されて遣わされているという根本が崩れることになります。それでは牧師として立つことは最早出来ないでしょう。

5.足の裏の埃を払い落とせ
 そして、11節です。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」何とも冷たい言葉のように受け取られかねない言葉です。しかし、これも実にイエス様の愛と配慮に満ちた言葉なのです。「足の裏の埃を払い落とす」という行為は、私はもう知らん、あなたとは関係ない、そういうことを示す行為ですから、何ともイエス様らしくないと感じても仕方がないのですけれど、これは遣わされる弟子たちに対しての、イエス様の慰めの言葉なのです。こういうことです。イエス様の福音を携えて弟子たちは村々町々に行くわけです。しかし、そのすべての所で歓迎されるとは限らないのです。この直前のところで、イエス様が故郷のナザレでは歓迎されなかったということが記されています。イエス様でさえそうなのです。まして、弟子たちが、行った村全てにおいて歓迎されたと考える方が不自然でしょう。弟子たちも、村人に受け入れてもらえず、冷たくあしらわれるということがあるだろう。そのような場合、弟子たちはどう思うか。自分に力がなかったからだ。自分は伝道者としてふさわしくないのではないか。自分にはあれが出来ない、これが出来ない。そのように自分を責めるということが起きるのです。そのような思いを抱いたことが一度もないという伝道者はいません。この時イエス様に遣わされた弟子たちもそうだったと思います。イエス様はそのことをあらかじめ知っておられ、この言葉を告げられたのでしょう。つまり、「あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら」、それはそこに住む人々の問題であって、あなたがたの責任ではないのだ。それはそこに住む人々が自分で決めたことであって、その人たちの責任なのだ。そのように、前もって上手くいかなかった場合に備えてお語りになったということなのでありましょう。
 もちろん、このイエス様の言葉を逆手に取って、私の言うことを受け入れないのはあなたがたの責任だ、私の責任ではない、そんな風に伝道者が開き直るのは問題でありましょう。自らの欠けをきちんと認めた上で、それでも、その人が福音に耳を心を開くかどうかは神様がお決めになることであり、聞いた本人が決めることなのです。それは神様の領域であって、私共の範囲を超えていることなのです。問題は、イエス様に遣わされた者として忠実にその業に仕えているかどうか、その一点に尽きるのです。

6.汚れた悪霊に対しての権能を授けられ
 さて、イエス様は弟子たちを遣わすに当たって、7節bで「汚れた霊に対する権能を授け」られました。イエス様は何も与えないで、ただ何も持っていくなと言われたのではないのです。汚れた霊、悪霊と戦い、これを追い出す権能をお与えになったのです。権能という言葉は、耳慣れないかもしれませんが、教会ではとても大切な言葉です。意味は、文字通り権威・権限と力ということです。教会はキリストの権能を行使するために建てられています。キリストの権能は、教会以外のどこにも与えられていないのです。
 このキリストの権能は、キリストの教会にずっと与えられているものです。これが与えられているから、教会は教会であり続けているのです。説教、祈祷、洗礼、聖餐、あるいは戒規といったものは、この権能を行使する場面です。この礼拝の場が、汚れた霊を追い出す場なのです。私共は、様々な心の傷を持っていますし、様々な具体的な課題を持っています。何の問題も持っていない人など一人もいません。しかし、私共はこの礼拝に集っています。そして、この礼拝に集うたびに、神様が私を愛してくださっていることを、必ず私を救いの完成へと導いてくださることを、心に刻むのです。そのことによって、私共は一切の悪しき霊の誘惑から守られているのです。悪霊は私共の心にささやきます。「神様なんて本当にいるのか。いるとしても、あなたには関係ないだろう。全能の神があなたを愛しているなら、どうしてこんな大変な目に次から次に遭うのだ。もっと楽しくやろう。信仰よりも、今日の食事、明日の生活の方が大切だろう。」悪霊・汚れた霊の働きは明らかです。私共から生きる力・喜び・勇気・希望・信仰・愛を奪っていくのです。しかし、この礼拝において神様は働いてくださり、再び私共に信仰を与え、悪しき霊の誘惑から助け出し、御国への歩みを新しく歩み出させてくださるのです。生きることの意味を教え、生きる力と勇気と希望を与えてくださるのです。このキリストの権能が最も明らかな形で行使されるのが、洗礼という出来事なのです。
 悪霊を追い出す権能は、もちろんこの教会にも授けられています。このことを私共はしっかり受け止めなければなりません。世には汚れた霊どもが跋扈しています。そして、汚れた霊の囚われ人になっている人が、おびただしくいるのです。この人々を汚れた霊どもから解放し、神様のもとに取り戻すため、キリストのものとするために、この教会は立っているのですし、私共は遣わされて行くのです。生きる力と勇気を失いかけている人々に、主イエス・キリストによる救いの希望を与える者として遣わされていくのです。聖霊なる神様の御業の道具として、それぞれ遣わされている場において、存分に用いられていくために、共に祈りを合わせましょう。

[2014年6月29日]

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