富山鹿島町教会

礼拝説教

「サタンよ、引き下がれ」
詩編 103編1~22節
マルコによる福音書 8章31節~9章1節

小堀 康彦牧師

1.出発点としての信仰告白
 先週私共は、ペトロがイエス様に対して「あなたは、メシアです。」と告白したという御言葉を受けました。このペトロの信仰告白がキリストの教会の最初の信仰告白であり、その後のキリストの教会はこの信仰告白の上に立ち続けて来たのですし、私共もこの「イエスはメシア、キリストです。」という告白と共に歩んでいるわけです。しかし、この時のペトロの信仰告白は、言葉としてはその通りなのですけれども、ペトロがその言葉の意味を十分に理解していたかと申しますと、この段階においてはまだ、はなはだ不十分な理解だったと言って良いでありましょう。それはいつでも誰でもそうなのであって、イエス様がキリストである、救い主である、私の主であり世界の主であると告白したからといっても、その時にその告白の意味するところをきちんと正しく受け止めているとは限らないのです。それは、私共自身の信仰の歩みを振り返ってみれば明らかでありましょう。イエス様はどういうお方であるのか、この方をキリストと告白するということはどういうことなのか。それはその後の信仰の歩みにおいて少しずつ少しずつ分かってくる、そういうものなのでしょう。しかし、だからといって、イエス様がキリストであると告白することがたいした意味はないということではありません。このイエス様に対しての信仰告白は、聖霊なる神様によって与えられるもので、本当に尊い、大切なものなのです。神様は、全く分かっていない私共を、具体的な信仰の歩みの中で、こういうことなのかと一つずつ分からせてくださる。そのために訓練してくださる。そういうことなのでしょう。その意味では、ペトロの信仰告白は、信仰のゴールではなくてスタート、出発点と言っても良いのでありましょう。

2.受難・復活の予告
 イエス様をメシア、キリストと告白したペトロですが、彼がその告白した言葉の意味、内容を分かっていなかったということが、今朝与えられている御言葉において明らかにされています。
 31~32節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」とあります。「それから」というのは、その直前の、ペトロがイエス様はメシア、キリストですと告白した時からということです。イエス様は、それまで様々な教えを語り、様々な奇跡を為してこられましたけれど、御自身が十字架に架けられて死に、三日目に復活するということを、この時まであからさまに、はっきりとお語りになることはありませんでした。しかし、ペトロが遂にイエス様はメシア、キリストですと告白しましたので、そのメシア、キリストとはどういうものなのか、そのことをきちんと教えておかなければならない、そうお考えになったのでしょう。
 先週も申し上げましたけれど、このメシアという言葉は、ヘブル語で「油注がれた者」という意味です。この「油注がれた者」という意味のギリシャ語が、キリストです。ヘブル語のメシアをギリシャ語に翻訳したのがキリストなのです。ですから、メシアもキリストも同じ意味です。そして、旧約において、油を注がれて神様の御業のために立てられた職責が三つありました。預言者、祭司、王です。この預言者、祭司、王の職務を、神様の御心に従って完全に遂行するために遣わされる者、それがメシアなのです。完全な預言者として、神様の御心を完全に伝えることが出来る方。完全な祭司として、すべての人間の一切の罪を赦すための執り成しをすることが出来る方。そして、完全な王として、神様の全能の御力をもって、神様の御支配を現される方。それがメシア、キリストです。
 しかし、イエス様が来られた時、人々は確かに救い主、キリストの到来を待ち望んでおりましたけれど、それは目の前にある、自分を苦しめている困難から救ってくださる方としての救い主、キリストでありました。そのイメージは、圧倒的な力をもって、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放する方というものでした。当時世界一強かったローマの軍隊を、その神の力で圧倒し、蹴散らし、栄光のイスラエルを建てる方。病気で苦しむ者をその神の力で癒やし、飢える者にはその神の力で食物を与える方です。それは、軍事的、政治的にイスラエルを救ってくれる方としてのメシア、キリストのイメージであったと言って良いでしょう。
 ペトロが、イエス様はメシア、キリストですと告白した時、そのイメージしていたものも、それとたいした変わりはなかったのでしょう。しかし、イエス様はそういうお方ではありませんでした。確かに、イエス様はメシア、キリストでありました。しかし、それはその当時の人々がイメージするようなキリストではなかった。ですから、イエス様はそのことを弟子であるペトロたちにはっきりと告げられたのです。イエス様はこの受難予告を三回行ったと、マルコによる福音書は記します。一回目はこの箇所、二回目が9章30節以下、三回目が10章32節以下です。この受難予告が本当に三回だったかどうかは推察するしかありません。もっと何回も予告されたのかもしれません。しかし、一回だけではなかったということは確かなことでしょう。そのことは、イエス様にとってこの受難予告は、どうしても弟子たちに伝えておかなければならないこと、決して外すことの出来ないことであったということなのでありましょう。
 ここでイエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け」と語りますが、この「人の子」というのは、文字通り人間の子という意味と、旧約のダニエル書7章13~14節に「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」とあり、救い主、メシア、キリストを指す言葉という意味とがありました。イエス様はこの両方の意味で、御自身を指す言葉として、この「人の子」を用いられたのでしょう。

3.ペトロがイエス様を諫め、イエス様がペトロを叱る
 このイエス様の受難予告を受けて、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」のです。ここで「いさめる」と訳されている言葉は、33節でイエス様が「ペトロを叱って言われた。」とありますが、この「叱る」と訳されているのと同じ言葉です。なんと、ペトロがイエス様を叱ったのです。これはあり得ない、全く正反対のことです。そんなことがどうして起きたのでしょう。理由ははっきりしています。イエス様が受難予告をされたからです。マタイによる福音書でこれと同じ記事を記しております16章には、ペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と告げたと記されています。ペトロはこの時、「イエス様、そんなことがあってはなりませんし、そんなことを言ってはなりません。あなたはメシア、キリストではありませんか。エルサレムに向かうのは、イスラエルの王となるため、ローマと戦うため、人々を集め指導するためではありませんか。苦しみを受けるとか、排斥されるとか、殺されるとか、そんなことを言ってはなりません。」そのようなことを言ったのでしょう。もちろん、それは善意で言ったことでありましょう。しかし、そのペトロに対して、イエス様は「サタン、引き下がれ。」と叱りつけたのです。何もそこまで言わなくても良いではないか。そう思われる方もおられるかもしれません。しかし、イエス様は、このペトロの思いをそのまま放っておいて曖昧にすることは出来なかったのです。何故なら、この時のペトロの言葉は、神様の御心の完全な拒否だったからです。
 十字架と復活の予告をされた中で、イエス様は「復活することになっている」と言われたのです。この「することになっている」と訳されている言葉は、「デイ」という小さな言葉ですが、これは神様の意思、予定を語る時に使われる言葉です。つまり、イエス様は、御自身が十字架に架かり、死んで三日目に復活することが神様の御意志であり、それこそがメシア、キリストの歩むべき道なのだと告げられたのです。それに対して、ペトロはそんなことがあってはなりませんと言ったということなのです。ペトロは、イエス様を十字架に架けないようにする、神様の救いの御計画を頓挫させるというサタンの思惑に利用されてしまったのです。サタンの一番の目的。それは、イエス様を十字架に架けないことです。神様の救いの御業を邪魔することです。イエス様は、このペトロの言葉と行動に、サタンが働いていることを見抜かれたのです。だから、イエス様はペトロに対して「サタン、引き下がれ。」と言われたのです。ペトロは、このイエス様の言葉を聞いて驚いたことでしょう。「せっかく心配して言っているのに、なんでサタン呼ばわりされなければならないのか」と思ったかもしれません。しかし、これは確かにサタンの業でありました。
 サタンは、本人が良いことだと思うことを言ったり、したりするようなあり方においても近づいてくるのです。イエス様はサタンの業を見抜いて、こう告げられました。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」実にサタンは、私共に神様の御心など考えさせず、私の思い、私の計画、私の目論見、私の見通しこそ正しいと思わせるのです。そして、その自分の思いこそが神様の御心だと思い込むし、人にも思わせる。だから、たとえ善意から出たものであったとしても、それはサタンの誘惑に乗ってしまうことなのです。
 イエス様は、ここでペトロに対して「サタン、引き下がれ。」と言われましたけれど、それはペトロに対して「もうお前などいらない。出て行け。二度と戻るな。」そのように言われたわけではないのです。この「引き下がれ」というのは、直訳すれば「わたしの後ろに行け」となります。イエス様は十字架に架けられるためにエルサレムに向かって行かれる。その行く手を阻むな。わたしの前に立ちはだかるな。わたしの後ろに行け。わたしの後からついて来いということなのです。これは、この後に続く34節「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」というイエス様の言葉につながっていくものです。このことについては、次の週に見たいと思っています。

4.サタンの誘惑から逃れるために
 それにしても、私共はどうすればこのサタンの誘惑から逃れることが出来るのでしょうか。イエス様ならば、私共が思い願うことが神様の方を向いているか、サタンの誘惑に乗せられているだけなのか、すぐに見分けることがお出来になるでしょう。しかし、私共はどうでしょうか。自分が言っていること、為していることが神様に向いているのかどうか、正しく判断出来るでしょうか。ペトロでさえ、イエス様はメシア、キリストですと告白した途端に、サタンにやられてしまったのです。私共はどうすれば神様の御心に、イエス様に従って歩んでいくことが出来るのでしょうか。これはなかなか難しい、しかし重大な問題です。
 その一つのカギは、自分の願い、自分の思いを絶対視しないということではないかと、私には思われます。私共は、自分の状態や状況が、こうなれば良いのにと思います。家族のことを含めて、そのような思い、願いを持たない人はいないでしょう。そして、私共はそのことを神様に祈ります。この時、それが御心に適うかどうか、それは私共には分かりません。その上で、神様に何とかしてくださいと願い求め、祈るわけです。それはそれで良いのです。イエス様も、私共に祈ることを勧めておられます。祈る時にいちいち、これは神様の御心にかなうかどうかと吟味する必要はありません。しかし、その自分の願いが、見通しが、神様の御心と一つになっていると思い違いをしてはいけないということなのではないか、そう思うのです。神様は、私共の思いや願い通りに事を運んでくださるわけではありません。神様は私共を愛してくださり、私共にとって一番良いようにしてくださいます。しかし、その神様が一番良いと思われることが、私共の思いや願いと一致するとは限らないのです。神様は私共を愛しておられますが、全く自由なお方です。すべてを御存知であり、すべてを知った上で私共に一番良いことをしてくださいます。しかし、私共は本当に何も分かっておりません。自分のことも、家族のことも、本当に一番良いのはどういうことか、少しも分かっておりません。分かっていないのにもかかわらず、こうなるのが一番良いと勝手に思い込んでしまう。そういうところがあります。しかし、そうではないのです。神様が思われ、為されること、それが一番良いことなのです。そして、神様はその御心に適うことを、どんなことがあっても実現してくださるのです。そのことを信じて良いのです。イエス様は、私共の人生の主であられるからです。

5.K牧師の話
 一昨日、富山地区の婦人修養会がありました。東京のO教会のK牧師が、御自身の生い立ちから今まで歩んでこられた道を、祈りという観点からお話しくださいました。とても心が揺さぶられる話でした。参加された方、皆さんそうだったと思います。今、その濃厚な講演をかいつまんで話すことは出来ません。その講演はT牧師の好意でCDにしていただきましたので、お聞きになりたい方は申し出てください。私は、その講演で受けた感動の中に、まだ心が揺れているところがあります。
 K先生は、母方から数えて牧師三代目、父方から数えて牧師二代目です。親戚は牧師だらけという環境で育ち、御自身も二十歳で神学校に入学されました。私の二級下のクラスでした。小学生の時に牧師であるお父さんが亡くなり、そこからお母さんが牧師になります。そして、四歳上のお兄さんも牧師になりました。私の一学年上のクラスでした。そのお兄さんは、たくさんの伝説が残っているような大変将来を嘱望されていた方で、神学校を卒業されるとすぐに留学されました。しかし、半年後に留学先で説教の原稿を書いている姿勢のままで突然亡くなりました。彼女は神学校を卒業し、お母さんと一緒にO伝道所を守ります。そして、そのお母さんが認知症になるのです。十年に及ぶ在宅介護をしながら教会を守ります。そういう中で、牧師館が近所から出火した火事で焼けてしまいます。このように話しますと、何と不幸な人という印象を受けるかもしれません。確かに一つ一つの出来事は大変重く、この方の心をふさがせるのに十分なものでした。また、そのような時期もありました。しかし今、そのすべてを神様の為された事として受け止め、牧会・伝道に励んでおられるのです。その折々に与えられた聖書の言葉が、どれほど自分を励ましてきたか、そうも言われました。講演の後で称名滝へお連れしました。その道々、「神様の御心なら事は成るし、成らないのは御心でないのだから、それはそれで良いのだ。」と言われたことが心に残りました。
 「イエス様はメシア、キリストです。」と告白するということは、私の人生に起きる様々な出来事を、一番良き事を為してくださる主イエス・キリストの為されたこととして受け止めていくということなのでしょう。何故なら、イエス・キリストは私共の人生の主であられるからです。この主と共に歩む人生において、私共は「イエス様、どうか私共をあなた様の御心を為していくために用いてください。」と祈ります。そしてこの祈りが、私共をサタンの誘惑から守っていくのではないかと思うのです。この祈りと共に、この一週間も主と共に、御国に向かって歩んでまいりましょう。

[2014年10月12日]

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