富山鹿島町教会

礼拝説教

「主の熱き思いによって」
イザヤ書 8章23節b~9章6節
ルカによる福音書 1章26~38節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 アドベント第二の主の日を迎えております。神の民が救い主・メシアの到来を待ち望み続けたことを思い起こすと共に、私共自身、再び来たり給う主イエス・キリストを待ち望む信仰を確かにする。それが、アドベントを私共が守る意味です。「もう幾つ寝るとクリスマス」というのとは少し違うのです。
 今日と来週は、イザヤ書の中にあるメシア預言、救い主の到来を預言している御言葉を受けたいと思っております。今朝与えられておりますイザヤ書9章の初めの所は、毎年クリスマスの時期になりますと必ず読まれる箇所の一つです。しかし、この時期はどうしても福音書に記されておりますイエス様の誕生につながる出来事から御言葉を受けますので、改めてこのイザヤ書の御言葉を丁寧に読んだことのある人はあまり多くないのではないかと思います。この箇所がクリスマスの時期に読まれますのは、5節に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」とありまして、これが主イエス・キリストの誕生を指していると理解されてきたからでありましょう。典型的メシア預言となっているわけです。それはその通りなのですが、今朝は、イザヤがこの預言を語った背景、状況、その辺のことも少し見ておきたいと思います。

2.歴史的背景と将来の希望
 4節には「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」とあります。多分、イザヤの目の前には、兵士の靴、血にまみれた軍服、更に言えば傷ついた兵士たちの群れがあったのではないかと思われます。紀元前8世紀、メソポタミアではアッシリア帝国が近隣の国々を飲み込みながら激しい勢いで台頭してきておりました。北イスラエル王国とシリアは反アッシリア同盟を結び、南のユダ王国にも同調することを求めます。しかし、南ユダ王国が同調しなかったので、シリアと北イスラエル王国は南ユダ王国に攻め入りました。これが「シリア・エフライム戦争」です。同じ神の民であったイスラエルとユダが戦火を交えることになったのです。そして、劣勢を強いられた南ユダ王国は、事もあろうにアッシリアに援軍を求めました。アッシリアはパレスチナに進軍する格好の口実を得、喜んで大軍を差し向けました。程なくシリアはアッシリアに滅ぼされ、北イスラエル王国も滅ぼされました。しかし、アッシリアの勢いはそれで止まるはずもなく、南ユダ王国にも迫ってきました。イザヤが預言者として召され働いたのは、そういう時代でした。神の民同士が戦争をする。しかも、共に巨大帝国の前に風前の灯火。いつ滅ぼされてもおかしくない。いや、それは誰の目から見ても時間の問題でした。そういう時代の中で、イザヤは「ただ神様に依り頼め。」そう告げ続けたのです。「人に頼るな。神様を頼め。」そう神の民に語り続けたのです。しかし、南ユダ王国の王を始め、神の民は誰もイザヤの言葉に聞き従おうとはしませんでした。
 預言者イザヤがそういう中で神様に語らせられた言葉は、将来への希望でした。どう見ても希望が持てない、そういう状況の中で、イザヤは神様の御手の中にある将来を語ったのです。自分たちが頑張って切り開いていく将来ではなく、神様の御手の中にある、神様によって備えられている将来です。神様によって与えられる救い主の到来です。
 8章の最後に、「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、」とありますが、このゼブルンの地、ナフタリの地とは、北イスラエル王国の一番北にあります。つまり、アッシリアによって真っ先に滅ぼされた地域です。そこに住む人々はまさに、9章1節にある「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」でありました。戦いに敗れ、外国の支配を受け、おもだった者たちは移住させられ、多くの外国人が入って来る。それは、「異邦人のガリラヤ」と言われるほどでありました。
 しかし、そのガリラヤが栄光を受ける、大いなる光を見る、その上に光が輝く、とイザヤは告げたのです。もう、良い事なんて何もない。神の民と言った所で神様は何もしてくれない。そんな投げ遣りな神の民に向かって、そうではない。「深い喜び」「大きな楽しみ」が神様によって与えられる。刈り入れの時を祝うような喜びが備えられている。そう告げたのです。
 更に3節で「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように折ってくださった。」と告げます。この「ミディアンの日」というのは、士師記の7章にあります、ギデオンの戦士三百人が何万もの軍勢を破った出来事を指しています。神様が共にいてくださるから、自分たちの力ではどうにもならないように見えても、必ず神様が出来事を起こし、導いてくださる。そうイザヤは告げるのです。
 しかし、イザヤが告げる神様の御手の中にある希望の将来、喜びの明日は、単に巨大なアッシリア帝国を弱小国であるイスラエルが、ユダが、滅ぼすというようなことではありませんでした。

3.神の御国、神の平和
 4節をもう一度見てみましょう。「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」ここで、兵士の靴も軍服も焼き尽くされてしまうのです。つまり、もう戦う必要のない世界、まことの平和を、神様は備えてくださっていると告げたのです。それは、イザヤ書にある別の言葉で言えば、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。」(2章4節)ということでしょう。そのようなまことの平和が与えられるというのです。しかも、その平和は一時のものではないのです。永久の平和です。6節に、「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。」と言われている通りです。ここで、ニカイア信条において、再臨の主イエスによる支配、主イエスの御国について、「その御国は終わることがありません。」と告白されていることを思い起こします。
 そして、5節です。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」この神の平和を実現するために、一人の男の子が誕生するというのです。そして、その男の子には権威があり、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられるというのです。もちろん、このみどりごこそ主イエス・キリストです。このイザヤ書の言葉は、今週の金曜日の夜に行われる富山市民クリスマスの「メサイア」の中でも歌われます。一人の幼子によってもたらされる平和、主イエス・キリストによってもたらされる平和、神の国の到来をイザヤは告げたのです。
 アッシリア帝国の支配は、バビロンによって終わりました。そして、バビロンの支配はペルシャによって終わり、ペルシャの支配はアレクサンダー大王によって終わり、そのギリシャの支配はローマによって終わりました。イザヤの後、アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマと、この地域を支配する国は変わりました。イザヤがこの預言を告げてから700年の間、このイザヤが告げるような神の平和が与えられることはありませんでした。しかし、神の民は待ち続けました。何と長い間待ったことでしょう。そして、遂に来たのです。神の独り子、イエス・キリストがお生まれになったのです。

4.夜の出来事としてのクリスマス
 イエス様が福音を宣べ伝え始められたのはどこでだったでしょう。ガリラヤの地でした。異邦人の地ガリラヤにおいて、イエス様は神の国の到来を語り始められた。そして、イエス様の誕生を知らされたのは誰だったでしょう。羊飼いでした。彼らは決して陽の当たる所を歩んでいた人たちではありませんでした。イエス様と食事をし、イエス様に従ったのはどういう人たちだったでしょう。それは徴税人であり、罪人であり、漁師でありました。当時のユダヤ人からは、救われないと言われていた人たちです。闇の中を歩む者たちでした。しかし、彼らは大いなる光を見たのです。まことの神の御子、イエス・キリストという光です。
 クリスマスの出来事は夜の出来事です。羊飼いに天使が現れたのは夜。東方の博士たちがイエス様を拝みに来たのも星に導かれてですから夜です。主イエスの父ヨセフが「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを受け入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(マタイによる福音書1章20節)と天使に告げられたのは夢の中ででしたから、これも夜だったでしょう。ヨハネによる福音書は、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」(1章4~5節)と告げます。人間の罪が支配する暗闇の現実の中に、神の国を建てるためにやって来られた、まことの光である主イエス・キリスト。この方の中に闇はありません。この方と共に歩むなら、この方を自分の主人として迎え入れるなら、私共はもはや闇の中を歩むことはありません。この方の中に、知恵も、力も、平和も、希望も、喜びも、すべてがあるからです。
 この方によって建てられる王国は、目に見えるこの世の国ではありません。先程、アッシリアの後、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった大帝国が興っては倒れていったことを申しました。地上の王国が永遠に続くということはないのです。6節「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。」とあります。これは、この王国こそ主イエス・キリストの国、神の国であるということです。そして、私共はこの神の平和による神の国の住人とされたのです。私共の国籍は天にあるのです。この神の国へと私共を招くために、私共の一切の罪をぬぐうために、イエス様は十字架にお架かりになりました。私共はこの出来事によって神様との永遠の和解を与えられ、神の子、神の僕として生きる者とされたのです。神の国の住人とされたのです。もちろん、神の国はまだ完成されておりません。それが完成され、全き平和に世界が包まれるためには、私共はまだ待たなければなりません。復活された主イエス・キリストが再び来られる時を待たなければなりません。神の民がイザヤの言葉によって700年待ったように、私共も待つのです。

5.主を待ち望む
 来るか来ないか分からないものを待つのは辛いことです。来るか来ないか分からないのなら、人は遅かれ早かれ、待つのを止めることになるでしょう。しかし、神の民は待ち続けましたし、今も待っています。どうしてそんなに長く待つことが出来るのでしょうか。それは、主が必ず来られることを信じているからです。イザヤの預言の後、700年もしてからイエス様はおいでになったのです。そのイエス様が「また来る」と言われたのですから、「それまで待ちなさい」と言われたのですから、私共は待つのです。このイエス様への信頼、愛の交わりがなければ、待ち続けることは出来ないでしょう。イエス様は確かに来られた。だから、また必ず来られる。そのことを心に刻むために、私共はアドベントという時を守るようになったのでしょう。
 先程、おとめマリアに天使ガブリエルが現れて、神の御子を生むことになることを告げた、いわゆる受胎告知の場面を読みました。マリアは、何が何だか分からないうちに神の御子をお腹に宿し、出産することになってしまいました。この出来事は、マリアにとっても、いいなずけであるヨセフにとっても、大変なことでありました。ヨセフは離縁しようとしました。もっともなことでしょう。しかし、夢に現れた天使の言葉で、マリアを妻として迎えることにしたのです。この二人にとって、出産までの日々はどんなものだったのでしょうか。不安も恐れもあったことでしょう。しかし、はっきり言えることは、一日過ぎれば一日近くなる出産の日を待ち望んだということです。
 私共がイエス様の再び来たり給うを待つというのは、このマリアとヨセフがイエス様の誕生を待つのに似ているのではないかと思います。イエス様は必ず来られる。いつかは分からないけれど、必ず来られる。ということは、昨日よりも今日は、一日分その日に近づいているということですし、去年のアドベントよりも今年のアドベントは、一年分その日に近づいているということです。この確かに近づいて来ているイエス様の再臨、終末の時に向かって私共は歩んでいるのです。

6.主の熱心によって
 確かにイエス様の再臨という出来事は、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と言いたくなるようなことかもしれません。しかし、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と言ったマリアのお腹に、イエス様は宿られました。「神にできないことは何一つない」からです。大切なことは、私共がこの言葉に説得されるかどうかなのです。
 そして、イエス様が再び来られるという出来事が起こされる本当の理由は、今日のイザヤ書の言葉で言えば、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」から、ということなのです。神様は私共を愛し、私共を救うために、神様は熱情をもってこれをなさってくださるのです。「神にできないことは何一つない。」それは本当のことです。マリアが「ありえない」と言うから、「ありえないことはない。神様は天地を作られた方なのだから、出来ないことなど何一つあるはずがないではないか。」と、ガブリエルは応えた。しかし、マリアがイエス様をお腹に宿した本当の理由は、主の熱意、主の熱心、主の熱情の故なのです。罪に堕ちたアダムとエバの子孫、自分に似せて作った人間を、何としても救いたい、何としても神の国に導きたい、何としても永遠の交わりに生かしたい、そのように神様が願われたからです。この熱意を、熱心を、熱情を、愛と言います。この神の愛によって生かされているのが私共なのです。この神様の愛によって、今までと全く異なる希望に生きるようにされたのが私共なのです。
 イザヤは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(9章1節)と告げました。イザヤが告げた救い主によってもたらされる光は、救いは、希望は、闇の中を歩む者に確かに与えられるのです。このイエス様の光が届かない闇などどこにも存在しません。様々な不安、恐れ、争い、困難のただ中にある人にも、神様は必ず、イエス様が共にいてくださる希望、平和、喜びを与えてくださいます。死さえも、このイエス様の復活の光に照らされるならば、後ろに退かなければならないのです。
 私共は今から聖餐に与ります。この聖餐に、イエス様が与えてくださる希望、喜び、平安、祝福が備えられています。イエス様御自身が私共の中に入って、私共と一つになってくださるからです。この聖餐の恵みをしっかり受け止め、共々に主が再び来たり給うを待ち望みつつ、アドベントの日々を主の御前に歩んで参りましょう。

[2014年12月7日]

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