富山鹿島町教会

礼拝説教

「誰が一番偉いのか」
創世記 2章21~24節
マルコによる福音書 10章1~12節

小堀 康彦牧師

1.新年を迎えて
 2015年最初の主の日を迎えております。元旦礼拝において、「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」(ペトロの手紙一2章5節)との御言葉を与えられた私共です。私共は、それぞれ遣わされております所においていろいろな人と出会っていくわけであります。その一人一人のために心を遣い、祈りを捧げ、愛の業に励んでいく。祭司としてそれらの人たちのために神様に執りなしていく。自分の救いのことだけ、自分の平安だけを求めるのではないのです。それでは祭司の務めは果たせません。それが私共の為すべきことであることを示されました。そして、そのためには、私共自身が何より御言葉による養いを受けていかなければならないことを示されました。
 そのような私共に今年最初に与えられた御言葉が、今朝与えられたマルコによる福音書10章1節からの御言葉です。この御言葉を受けて、その通りだと素直に聞くことが出来た方もおられるでしょうが、何か腑に落ちないと言いますか、心の中でウ~ンと唸ってしまった方もおられるのではないかと思います。それは、ここでイエス様がお語りになったことが、「離婚は絶対にしてはダメだ。」と聞こえたからではないかと思います。私共の近しい人の中に、離婚を経験された方が何人もいるわけです。そうすると、イエス様のこの言葉がその人たちを逃げ道がないあり方で責めている、そのように聞き取ると、何とも釈然としない思いを持ってしまうのでしょう。しかし、イエス様はここで本当にそう言っておられるのでしょうか。私共は、きちんと聞き取らなければなりません。イエス様がここで本当に語ろうとされたことをちゃんと聞き取らなければ、イエス様の言葉を受け入れ、それに従うことは出来ないでしょう。イエス様はここで、離婚は絶対にダメだ、そう単純にお語りになっているのではないし、そのことを語ろうとされたのでもないと私は思います。
 丁寧に見ていきましょう。

2.ファリサイ派の人々の問い
 まず、ファリサイ派の人々が、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」とイエス様に尋ねた。ここからこの話は始まっています。このファリサイ派の人々の問いは、自分が離婚の問題で悩んでイエス様に答えを求めたというものではありません。彼らはイエス様を試そうとしたのです。それは、イエス様がちゃんと律法を知っているかどうか調べるというようなことではなくて、イエス様を罠にはめようとしたのです。離婚することが律法に適っていると答えても、律法に適っていないと答えても、どちらの答えをしてもイエス様を窮地に陥れることが出来る、そういう問いとしてこれを考え出して、イエス様に答えさせようとしたのです。  旧約聖書の律法の専門家であったファリサイ派の人々にしてみれば、論ずるまでもない、これはもう明らかなことでした。4節に「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました。」とありますが、これは申命記24章1節の言葉を根拠にしています。そこには、こうあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」離縁の仕方がこのように記されているのですから、離婚することは何ら律法に反することではない。それが、ファリサイ派の人々の見解であり、当時のユダヤ人たちの常識でした。そんなことは大人のユダヤ人なら誰でも知っていることでした。では、どうしてこんなことをファリサイ派の人々はわざわざイエス様に問うたのでしょうか。
 それは、もしイエス様が「離婚するのは律法に反している。」と答えるならば、だったら申命記24章に記されていることはどうなのだ。申命記というモーセの律法において「良い」と言っているのに、どうしてダメだと言うのか。そのように言って、イエス様の言葉を信じイエス様に従おうとする人々を、離れさせることが出来る。更には、離婚はダメだとイエス様にはっきり言わせることによって、マルコによる福音書6章に記されている洗礼者ヨハネと同じように、ヘロデ王によってイエス様を殺させるようにするという思惑もあったでしょう。ヘロデは、自分の兄弟フィリポを妻ヘロディアと離婚させ、そのヘロディアと結婚しておりました。そしてそのことを批判した故に、洗礼者ヨハネは首をはねられてしまっていたのです。イエス様を洗礼者ヨハネと同じ目に遭わせることが出来るという思惑です。
 また、「離婚するのは律法に反していない。」とイエス様が答えるならば、マタイによる福音書5章32節等にありますように、離縁するのは姦通の罪を犯させることになるとイエス様いつも言っていたわけで、それと矛盾するではないかと非難出来ます。また、ヘロデ王が怖くて、洗礼者ヨハネのようにはっきりと言うことが出来ないのか、それでも人に神様の教えを語ることが出来るのか、と批判するつもりだったのでしょう。
 このように説明しているだけでも嫌になってしまうような、ファリサイ派の人々の、どす黒い策略です。何度も申しますが、彼らは、本当に離婚という問題に直面し、思い悩んでイエス様に問うているのではないのです。単にイエス様を罠にはめようとしているだけです。彼らにしてみれば、離婚は何の問題もないのです。律法に書いてあるとおりに、離婚するに際して離縁状さえ出すならばそれで良い。それだけのことだったのです。
 ちなみに、当時の離婚の状況、離婚についての考え方というものを調べてみますと、こういうことであったようです。離縁は夫の方からすることが出来るけれど、妻の方からはすることが出来ない。問題は、その離縁の理由ですが、先程申命記24章1節を読みましたが、そこに「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」とありました。これが具体的に何を指すのか、これは律法学者の間でも見解が分かれていたようです。厳しく取る見解では、これは妻が不貞を働いた場合以外には適用出来ないと言います。一方緩く取る見解は、夫が何か気に入らないことがあればそれで十分というものでした。料理がダメだとか、掃除が苦手とか、何でもいいわけです。男の勝手と言いますか、ご都合主義です。厳しい見解と緩い見解があれば、緩い方に流れるのが人の世というものでしょう。ですから、夫が離縁状さえ妻に渡せば良い、それが実態だったようです。そしてファリサイ派の人々は、それが当然だと思っていたわけです。律法に従っているのだから、何ら罪ではない。何も悪くない。全く正しい。そう思っていたわけです。

3.心が頑固なので
 イエス様はここで、単に離縁することが律法に適っているかどうかということではなくて、離婚以前に、この問いを出しているファリサイ派の人々の結婚についての根本的な理解の仕方、聖書から神様の御心を聞く、そのあり方自体を問い質したのです。
 まずイエス様は、こう答えました。5節「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」確かにモーセは、申命記24章において、離縁する場合についての仕方を記している。しかしそれは、離縁せざるを得ない、人間の心の頑なさの故なのだと言われるのです。ファリサイ派の人々は、律法に記された手続きさえ踏めば、離縁することは何の問題もないと考えていました。しかしイエス様は、「人間の心が頑なだから離縁しなければならないことがあるだろう。そうでない、互いにもっと深く傷つけ合い、互いに憎しみ合い、とても生きていけないような状態になってしまうことがあろう。その場合にはこのようにして離縁しなさいとモーセは告げたのであって、離縁は何の問題もないということではないのだ。そこには、神様の御心を悲しませる罪が、私共の心の頑なさという罪が露わに現れているではないか。だから、離婚しなければならない状況にあるということ自体、私たちは悔い改めなければならないことなのだ。」そうイエス様は告げたのです。律法に適わない、御心に適わない、してはいけない。そう言った所で、それをしてしまう。そうしなければ生きていけない。それが罪人である人間の姿なのではないか。しかしそれは、だから仕方がない、問題ない、ということではない。そうではなくて、神様の御前に悔い改めなければならないことでしょう。そうイエス様は言われたのだと思います。
 イエス様はここで、律法に示されている神様の御心を少しも考えないで、ただ字面だけ律法に違反していなければ問題ない、罪を犯していないというファリサイ派の人々の聖書の読み方そのものを問題にされたのです。

4.神様が結ばれた結婚
 そしてイエス様は、そもそも結婚とは何なのかということを教えて、6~9節で「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と告げられました。これがイエス様が教えてくださった、結婚についての最も基本的な理解です。これは創世記1章、2章に記されていることの要約です。神様は、七日間の天地創造の御業において人間を造られました。神様に似た者として造られました。(創世記1章26~27節)その神様に似た者として造られた人間は、男と女に造られたのです。もちろん、男性の神、女性の神がいて、それに似た者として、男と女を造ったということではありません。神様に似た者として造られたということが、聖書が語る人間論の最も基本にあるものです。
 この神様に似た者として造られた人間についての議論は、キリスト教の歴史において長く論じられてきており、「イマゴ・デイ論」と言われます。ここで、人間のどこが神様に似ているかということについて、いろいろな議論が出来ます。しかし、今日は結論だけ申し上げます。この人間が神様に似た者として造られたということは、何よりも「愛である神様」に似た者として造られた、愛の交わりを形作るものとして男と女に造られたということなのです。この愛の交わりは、男と女の二人が「一体となる」交わりなのです。このようなものとして造られた人間が、神様によって選ばれ、一体とされる。それが夫婦というものなのです。もちろん、好きだから夫婦になるのでしょう。しかし、それがすべてではないのです。ファリサイ派の人々が、男の都合で離縁しても離縁状さえ渡せば問題ないと考えるのは、この夫婦というものを、神が結び合わせてくださったものとして受け取らず、自分たちで結びついたと考えているからでしょう。だから、自分の都合で離縁出来る、しても問題ないと考えるのでしょう。しかしイエス様は、結婚というものは、夫婦というものは、そんなものではない。神様によって合わせられたものなのだ。このことを真剣に、真面目に受け取らなくてはならない。それは、神様の御手の中にあるものとして、自分の人生を受け取るということでもあるのです。そのことを横に置いて、離縁状さえ渡せば問題なし。そんなことでは全くないのだ。あなたがたは結婚が全く分かっていないから、そんな風に考え、言えるのだ。そうイエス様は言われたのです。
 これは何も夫婦だけではありません。夫婦のもとには子供も与えられるでしょう。これもまた、私共が造ったわけじゃない。神様が与えてくださるものです。夫婦、親子、兄弟。この家族というものは、神様が与えてくださった愛の交わりなのです。愛の交わりを形作るために神様が与えてくださったものなのです。それを壊して良いはずがないのです。

5.互いに仕え合う結婚
 この夫婦の関係について、その愛について、聖書は更に、エフェソの信徒への手紙5章21節以下においてこう告げています。ここは必ず、結婚の準備会において学ぶ所でもありますが、21~25節「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」とあります。ここで、夫婦の関係が、教会とキリストの関係になぞらえられています。キリストと教会の関係は、見えざる霊的な一致を与えられています。教会はキリストの体と言われるように、教会とキリストを分けることは出来ません。それほど深い、霊的な、神秘的な一致を与えられているものです。
 キリストと教会は、まさに愛の交わりにおいて一つとされていますが、夫婦もまたそうだと言うのです。実に驚くべき指摘です。結婚には、夫婦という関係には、この驚くべき霊的な次元があるというのです。キリストは、私共に代わって十字架にお架かりになって、私共の一切の罪を担ってくださいました。そのように、夫は妻のために我が身を捨てて愛しなさいと言うのです。そしてまた、教会が何事においてもキリストに従うように、妻は夫に仕えなさいと言うのです。妻に対してだけ仕えよと言っていると読み誤って、これは女性差別だなどと言う人がいますが、間違いです。21節で、「互いに仕え合いなさい。」と言っているのです。夫はイエス様が教会のために十字架にお架かりになったように、自分の命を捨てて妻を愛せと言われているのです。どちらか一方ではないのです。妻も夫も互いに仕えるのです。夫婦に上下の関係はありません。互いに仕え合い、支え合うパートナーなのです。この夫婦の関係は、実に神秘なのです。神様に与えられた愛の交わりを形作る、大いなる神秘なのです。このように、結婚とは私共の手によって作り出せるような関係ではないのです。ただ神様によって与えられるものなのです。このことをまずきちんと受け止めなければならないのです。

6.愛の破れのただ中に立たれるイエス様
 しかし、このように見て参りますと、離婚しようとしまいと、私共の結婚というものが、神様が望み給う愛の交わりを全うしているかと問われれば、そうとは言えないと答えざるを得ないのではないでしょうか。それが私共の現実でありましょう。だったら、どうするのか。悔い改めるしかないのです。この悔い改めるということを抜きに、イエス様はここで絶対離婚してはいけないと言っていると読めば、それはイエス様もまたファリサイ派と同じように、いやそれ以上に厳しい律法を私共に課したということになるだけでありましょう。イエス様は、ここでそんなことを言われたのではないのです。もし私共がそのように読むとすれば、それは私共自身がイエス様の心が分からず、離婚は良いのか悪いのかというレベルで、このイエス様の言葉を受け取っているからでしょう。離婚が良いか、悪いか。それは、悪いに決まっているではないですか。イエス様はここで、そんなことを言われたのではないのです。イエス様がここでお語りになったのは、神様が私共に何を求めておられるのか、また神様によって結びあわされた結婚というものがどれほど祝福に満ちたものであるかということだったのです。そして、この神様の祝福に満ちた結婚生活に生きよ、そう招かれたのです。私共もまた、この祝福の中に生きるよう召されているのです。しかし、それは悔い改めるということを抜きにはあり得ないのです。
 何故なら、私共の愛は破れるからです。破れているからです。大きく破れる時もあれば、小さな破れもあるでしょう。いずれにせよ、破れのない愛の交わりを形作ることには失敗している。それが私共の現実です。しかし、その破れにイエス様は立ってくださり、執りなしてくださり、繕ってくださっている。だから、私共は破れつつも、それでも神様によって与えられた祝福に生きようと、愛の交わりを全うすることが出来るようにと、なおも一歩をそこから踏み出していくのです。何度でも、何度でもです。
 私共は今から聖餐に与ります。愛の完成者であられるイエス様が私共と一つになってくださり、愛の交わりを形作る者へと私共をここから押し出してくださるのです。

[2015年1月4日]

メッセージ へもどる。