富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしを憐れんでください」
詩編 31編10~17節
マルコによる福音書 10章46~52節

小堀 康彦牧師

1.イエス様を囲む群衆
 今週の水曜日から受難週(レント)に入ります。主の御苦難を心に刻み、悔い改めと感謝をもって歩む時です。
 今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書10章の最後の所です。11章からは受難週の出来事に入っていきます。その舞台はエルサレムです。エルサレムにおける受難週の出来事に入る直前の出来事が、今朝与えられた御言葉が記していることです。イエス様と弟子たち、更に多くの群衆が、エリコの町を出てエルサレムに向かって歩み出そうとした、その時でした。エリコからエルサレムまでは20kmほどです。次の日にはイエス様たちはエルサレムに着きます。11章に記されていますように、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入られる時、群衆が「ホサナ」と叫んでイエス様を迎えるわけですが、多分この時の群衆の多くはエリコを出る時に既にイエス様と一緒だった、イエス様に従っていた人たちではなかったかと思われます。イエス様が遂にエルサレムに入城される。まことの王として遂に永遠の都エルサレムに入られる。何をなさるのだろう。大いなる奇跡を為されるのだろうか。神殿に集まった人々に教えを語られるのだろうか。何が起きるのか分からないけれど、何かすごいことが起きる。そんな期待と興奮が、人々を包んでいたのではないかと思います。
 その人々の群れを足止めするかのように、一人の目の見えない物乞いが、いきなり「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と言い出したのです。イエス様に従っていた多くの人々がこの人を叱りつけて黙らせようとします。しかし、この目の見えない人はますます激しく「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫び続けたと聖書は記します。人々は何故この人を黙らせようとしたのでしょうか。単純にうるさかったからかもしれません。しかし、それだけではなかったと思います。人々の思いは、イエス様によってエルサレムで為されるであろう、何か分からないけれどもの凄いこと、そこに向いているのです。救い主メシアが遂にその姿をエルサレムにおいて人々の前に現されるのです。期待と興奮のお祭り騒ぎです。そのような時、目の見えない物乞いなど、どうでも良い。ただ邪魔でしかなかったのです。だから黙らせようとしたのでしょう。黙らせて、追い払おうとしたのだと思います。ここには、この時イエス様に従っていた人々の、イエス様に対する大きな誤解が表れていると言って良いと思います。イエス様は、この一人の目の見えない物乞いなどどうでも良いと思われる方でしょうか。イエス様がエルサレムにおいてまことの王として為される業は、この目の見えない物乞いなどどうでも良いと退けるものでしょうか。そうではないでしょう。

2.目の見えない物乞い
 この人は何故ますます叫び続けたのでしょうか。この時、この目の見えない物乞いだけが、イエス様の本当の姿を知っていた。この目の見えない物乞いだけが、イエス様との正しい関係を持とうとしていた。私はそう思います。彼がイエス様に向かって叫び続けたのは、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」という言葉でした。「ダビデの子よ」というのは、単にダビデの子孫という意味ではありません。旧約聖書以来預言されていた救い主、メシア、キリストという意味です。この目の見えない物乞いは、今までイエス様がなさったこと、お語りになったことを風の便りに聞いていたのでしょう。そして、この方なら自分の目を開いてくれるかもしれない、そう期待していた。そして、その方が今、自分の目の前に来ている。目が見えないのですから、どこにいるのかは分かりません。しかし今、自分の目の前を通り過ぎようとしているこの人々の群れのどこかにおられる。それは分かる。だから、その見えないイエス様に向かって、何としても届くようにと、彼はあらん限りの声を張り上げて叫び続けたのです。この時をやり過ごしてしまえば、もう二度とイエス様にお会いすることは出来ないからです。彼は必死だった。だから、どんなに叱られようと、どんなに黙れと言われようと、黙ることなど出来なかったのです。
 彼が求めたのは、イエス様の憐れみでした。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と彼は叫んだ。何度も叫んだ。「憐れんでください」という言葉のギリシャ語は、「エレイソン」です。そしてこの言葉は、そのままラテン語で捧げられる礼拝の中で用いられるようになりました。「キリエ・エレイソン。クリステ、エレイソン。(主よ、憐れみ給え。キリストよ、憐れみ給え。)」と歌う言葉です。この讃美歌21にも、「キリエ」という分類で30番から35番の讃美歌に入れられています。日本語で「憐れみ給え」「憐れんでください」というのは、キリストの教会にいる人でないと、馴染まないと言いますか、何とも惨めな、自分を低くする言葉で、ピンとこないのかもしれません。確かに、日常会話の中で「憐れんでください」と口にすることはほとんどありません。しかし、キリスト教会においては、この言葉は最も古い祈りの言葉、最も大切な祈りの言葉として受け継がれてきました。「キリエ・エレイソン。クリステ、エレイソン。(主よ、憐れみ給え。キリストよ、憐れみ給え。)」そう歌って礼拝を捧げ続けてきたのです。この主の憐れみを求めること。これが私共の礼拝の心なのです。この目の見えない物乞いの姿、必死にイエス様に憐れみを求める姿に、代々のキリスト者は自分の姿を重ねてきたのです。私共も同じなのです。何も出来ない、ただ憐れみを求めるしかない者として、私共は神様の前に、イエス様の前に立つのです。そこにしか、私共の礼拝は成立しないのです。
 イエス様に憐れみを求めたこの目の見えない物乞いは、名前が記されています。バルティマイです。バルというのは、子という意味ですので、この名前自体が「ティマイの子」という意味です。どうして、ここでイエス様に目を開けていただいた物乞いの名前が記されているのでしょうか。イエス様が癒された人の名が聖書に記されるのは極めて珍しいことです。どうして、この人の名だけが聖書に残されたのか。理由ははっきりしています。このマルコによる福音書が記された時、この人はこのマルコによる福音書を読む人、教会の人々皆に良く知られている人だったからです。バルティマイと言えば、「ああ、あの人。」という風に、この福音書を読んだ人がみんな分かったからです。このバルティマイさん自身、何度も何度も、自分が救われた時、イエス様と出会った時のことを語ったに違いありません。そして、その話が記されたのだと私は思っています。聖書とはそういうものなのです。救われた者の証言、それが記されているのです。

3.安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。
 この人の叫びはイエス様に届きました。そして、イエス様は「あの男を呼んで来なさい。」と言われました。イエス様はこの人を、自分の前に来るように呼び出したのです。イエス様の召し出しです。イエス様の言葉を伝えた人は、この目の見えない物乞いにこう告げたのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
 「安心しなさい。」これは、もう大丈夫、元気を出せ、喜べ、ということです。イエス様がお呼びくださったからです。イエス様が叫びを聞いてくださり、呼び出してくださった。だから、もう大丈夫なのです。イエス様が事を起こしてくださるからです。
 この人のイエス様に憐れみを求める叫び声は、イエス様の耳に届きました。私共の憐れみを求める叫びが、神様に、イエス様に届かないなどということなど、あるはずがないのです。昔、イスラエルがエジプトで奴隷だった時、「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。」のです。そして、「労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。」と聖書は告げます。出エジプト記2章23節です。それで神様はどうされたでしょうか。聖書は、「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」と続くのです。そして、神様はモーセを召し出し、出エジプトの出来事を起こされました。私共の嘆きは祈りとなり、その祈りは神様に届き、神様は出来事をもって応えてくださるのです。それが聖書が告げていることであり、代々のキリスト者がその生涯において味わい、経験してきたことなのです。イスラエルの叫びに耳を傾け、出エジプトの出来事を起こされた神様が、イエス様として私共にその御姿を現されました。ですから、私共の叫びがイエス様に届かないはずがない。だから、大丈夫なのです。だから、そこから立ち上がるのです。
 この時、目の見えないこの人は、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」と聖書は告げます。この人は目が見えないのですから、イエス様がどこにおられるのか分かりません。ですから、イエス様の許まで案内してくれる人がいたに違いありません。その人の手に引かれてでしょうか、その人の肩に手をかけながらでしょうか、この目の見えない人は「躍り上がって」イエス様のところに来たのです。このイエス様の召し出しに与った段階で、彼の中には既に、もう大丈夫、もう安心、やったーという喜びがあふれています。まだ何も起きていません。しかし、既に喜びに包まれています。もう事が起きたも同じなのです。イエス様が御自分の前に召し出してくださったからです。
 私は今朝、この喜びを皆さんと共に分かち合いたいのです。私共も、日々の生活の中で様々な困難や課題を抱えています。しかし、今朝イエス様に召し出されて、ここに集っています。ということは、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」というイエス様の御声を、共に私共も、もう受けているということなのです。「安心しなさい。立ちなさい。イエス様がお呼びです。」と、イエス様があなたを呼び、あなたの上に出来事を起こされようとしているのです。だから、もう大丈夫。喜びなさい。元気を出しなさい。私共を救いの完成へと導く。それがイエス様の御心なのですから。

4.何をしてほしいのか。
 さて、イエス様は御自分の前に来たこの人に向かって、「何をしてほしいのか。」と尋ねます。見方によっては、実に間の抜けた問いです。そんなことは聞かなくても分かりそうなものです。この人は目が見えないのですから、見えるようになりたい。そんなことは、私共でも分かりそうなものです。しかし、イエス様はお聞きになりました。どうしてでしょうか。イエス様ともあろうお方が、この人が求めていることが何であるのか分からなかったのでしょうか。そんなことがあるはずがありません。だったら、どうしてこのように問われたのでしょうか。それは、この人が本当に一番求めていることが何なのか、そのことをはっきりさせるためではなかったかと思うのです。イエス様は、私共がしばしば犯す過ちを、よく御存知なのです。私共は神様に、自分にとって本当に大切なこと、本当に必要なこと、無くてはならないことをいつも求めているとは限らないからです。
 イエス様はこれと同じ問いを、先週与えられた御言葉においても為されました。イエス様の弟子のヤコブとヨハネに対してです。この時、ヤコブとヨハネは何と答えたでしょうか。36~37節「イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」この願いにイエス様は、どうお答えになったでしょうか。イエス様は40節で「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。」と告げられました。これは穏やかな物言いでありますけれど、イエス様はこのヤコブとヨハネの願いを退けられたのです。それは、彼らの願いがいろいろな意味で的外れだったからです。イエス様がどういうお方であるかということについても、自分が本当に必要としていること、願い求めるべき事についても、全く的外れでした。ですから、この願いは退けられたのです。
 イエス様は、私共にとって本当に必要なこと、本当に大切なことを願い求めるならば、その願いを退けることは決してありません。しかし、そうでないものを求めるならば、それはお答えにはなられません。宝くじが当たるようにと願い求めても、それは答えてくださらないでしょう。本当に必要な、本当に大切なことではないからです。

5.本当に必要なもの
 この時、この目の見えない人は、本当に必要な、本当に大切なことを求めました。イエス様はそれを良しとされ、すぐに目が見えるようにしてくださったのです。目さえ見えるようになれば、この物乞いという境遇から抜け出せる。自分の手で働き、人並みの生活が出来る。人に馬鹿にされ、差別されることもない。新しく生き直せる。多分、この目の見えない人はそう思っていたことでしょう。確かに、この人はイエス様と出会い、イエス様に癒やされ、目が見えるようになり、全く新しい人生を歩むことになりました。しかしそれは、単に人並みの生活が出来るようになるということではなかったのです。52節の最後に、「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」と記されています。この人に与えられた本当の新しさは、イエス様に従うという新しさだったのです。
 イエス様は、この後すぐにエルサレムに入られます。そして、一週間も経たずに十字架にお架かりになる。彼は、イエス様に見えるようにしていただいた目で、このイエス様の十字架をはっきりと見たに違いありません。実に、イエス様によって見えるようにしていただいた目で、この人はイエス様を見た。十字架のイエス様を見たのです。これこそ、この人の目が開かれた本当の理由だったのではないでしょうか。目が見えるようになることをこの人は求め、イエス様はこの人の目を見えるようにしてくださった。この人が見たのは、自分を癒やしてくださったまことの王であるイエス様であり、十字架に架けられたイエス様だった。イエス様の十字架。それこそが、この人の目が開かれて、イエス様によって見せていただいたもの、本当に見なければならないものだったのです。
 私共は何を求めているのか。イエス様の憐れみでしょう。イエス様の憐れみを受けて、イエス様といよいよ深く、豊かに、確かに交わりを与えられたいということなのではないでしょうか。そこにこそ、私共の平和、喜び、希望があるからです。それを与えられるためにこそ、私共に信仰が与えられているのです。

6.あなたの信仰があなたを救った。
 イエス様はこの人に、「あなたの信仰があなたを救った。」と告げました。このイエス様の御言葉は、誰が止めても叫び続けるというこの人の信仰があったから、その熱心があったから、あなたは救われたということではないのです。イエス様がこの人の前を通らなければ、この人は救われなかったのです。イエス様が自分の前をお通りにならなければ、この人はイエス様に向かって「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫ぶことも出来なかったはずなのです。確かに、この人はイエス様を救い主、キリストと信じ、受け入れました。そして、イエス様に救いを求めました。この流れがなければ、このイエス様との出会い、イエス様の救いに与るということは起きなかったことでしょう。しかし、この「あなたの信仰があなたを救った。」というイエス様の言葉は、この人のイエス様に対しての信仰が、何か大きな力をもって、この人を救ったというような意味では全くないのです。私共の信仰にそんな力はないのです。そうではなくて、イエス様の力と憐れみを信じ、イエス様を信頼し、イエス様に依り頼んだ故に、イエス様が救ってくださったということなのです。この人の信仰深さや熱心によって事が起きたということではないのです。ただイエス様の力と憐れみ、それだけが事を起こすのです。私共は、このイエス様の力と憐れみを信じて、依り頼むだけなのです。イエス様は、その有るか無きか分からないような私共の信仰にも答えてくださって、出来事を起こし、私共を全き救いへと導いてくださるのです。
 イエス様がその全能の力をもって私共の上に臨んでくださり、八方ふさがりと思える中でも道を拓いてくださいます。私共は、この今生きて働き給う神様、イエス様の証人として立てられているのです。バルティマイと同じように、「このように神様は私の叫びに、私の祈りに答えてくださった。」と証言する者として召してくださっているのです。だから、大丈夫なのです。イエス様が私を呼び出してくださったのですから。安心しなさい。立ちなさい。主が事を為してくださいます。その私にしてくださる神様の御業を、しっかり見ようではありませんか。

[2015年2月15日]

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