富山鹿島町教会

礼拝説教

「何の権威で」
エレミヤ書 26章1~11節
マルコによる福音書 11章27~33節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 レント(受難節)第四の主の日を迎えております。今朝与えられております御言葉は、イエス様がエルサレム神殿において祭司長、律法学者、長老たちと権威について問答されたことが記されております。マルコによる福音書においては、この11章27節から12章の終わりまで、イエス様がエルサレム神殿において問答したり、教えを語られたことが記されています。イエス様がエルサレムに入られ、金曜日には十字架にお架かりになる、すべてはその緊迫した中でのやり取りです。イエス様が十字架に架けられることになる直接の原因、十字架に至るいきさつが、この問答や教えの中にも表れております。イエス様の言葉や教えや業は、すべて十字架の出来事と結びつけて受け取られるべきものでありますけれど、特にイエス様が十字架にお架かりになる直前、地上における最後の時を過ごされたエルサレムでの、この受難週に語られた言葉は、まさに十字架の出来事に直結した言葉として読まれなければならないでしょう。

2.何の権威で?
 さて、与えられております御言葉ですが、「イエスが神殿の境内を歩いておられると」とあります。イエス様はこの時、エルサレム神殿の境内を散歩していたわけではありません。そんなのんびりした時を過ごしておられるのではないのです。もう少しでイエス様は十字架にお架かりになる。そのことをイエス様はしっかり受け止めておられ、最後にどうしても人々に語っておかねばならないこと、教えておかねばならないこと、それらを弟子たちを始め自分の周りに集まってきた人々に伝えようとしておられたのだと思います。イエス様はこの時、一人で歩いていたとは考えられません。イエス様の周りには、弟子たちを始め大勢の人たちがいたと思います。
 そのイエス様の姿を見つけ、「祭司長、律法学者、長老たちがやって来て」イエス様にこう言ったのです。28節「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
 この「祭司長、律法学者、長老たち」というのは、当時のユダヤ教の指導者たちです。エルサレム神殿における祭儀を中心として形作られていたユダヤ教、そのシステム全体を担っている人たちです。役割はそれぞれ違いますけれど、エルサレム神殿を中心としたユダヤ教、もっと言えばユダヤ社会そのものを担っていた人たちです。当時のユダヤ社会は、72人からなるサンヘドリンと呼ばれる議会を持っておりました。この新共同訳では最高法院と訳されておりますけれど、ローマから認められていた自治組織です。これは警察権さえも持っておりました。ユダヤ人たちはサンヘドリンにおいて、ユダヤ社会のことはほとんどすべて決めることが出来たのです。ローマは税金を納め、治安を乱さない限り、自由に自治を認めていたのです。このサンヘドリンの構成メンバーが祭司長、律法学者、長老たちでした。彼らはユダヤ教並びにユダヤ社会の秩序を守るための、目に見える権威を持った人たちでした。彼らから見れば、イエス様が語り、人々に教えていることは、勝手にやっていることであり、自分たちの権威を無視し、社会の秩序や信仰の秩序を乱す、反社会的行為でした。しかし人々は、イエス様を認め、喜んでその教えを聞いてる。彼らは、イエス様から人々を引き離すためにどうすれば良いか考えた。そこで第一に問題にしたのが、その権威というものだったのです。権威を失ってしまえば、イエス様に付いて行っている人々も離れるだろう。そう考えたのでしょう。場所はエルサレム神殿です。ユダヤ教の総本山、目に見える権威そのものを現しているような場所です。

3.「このようなこと」とは?
 彼らがイエス様に対して「何の権威で、このようなことをしているのか。」と問うた時、問題にしている「このようなこと」というのは、直接には、先週見ました「宮清め」の出来事を指しているのでしょう。神殿の境内から両替人や鳩を売る者たちを追い出すという乱暴。さらに、「『わたしの家はすべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」と言い放つ。これは、神殿の秩序を形作っている祭司・律法学者・長老といった人々を強盗呼ばわりしているわけです。こんな勝手な真似を放っておくことは出来ない。それが、この問いのきっかけでありました。
 しかし、サンヘドリンに代表されるユダヤの当局者たちにとって、このイエス様の権威の問題は、今に始まったことではなかったのです。イエス様の活動の初めから、ずっと問題だったのです。例えば、2章1~12節で、イエス様が中風の者をいやされましたけれど、イエス様はただ中風の者をいやされただけではなくて、「子よ、あなたの罪は赦される。」と告げました。罪の赦しは神様にしか出来ないことではないか。何の権威をもってイエスは罪の赦しを告げるのかと彼らは思ったのです。2章18節~3章6節においては、安息日にしてはならない行為、麦の穂を摘んだ弟子たちを問題なしとするし、片手の萎えた人をいやしたりする。彼らからすれば、堂々と安息日規定を破っているわけです。何の権威でこんな勝手なことをするのかということです。また、7章1~23節では、ユダヤ教の伝統である食事の前に手を洗うということも、昔の人の言い伝えに過ぎないと言う。更には10章において、離縁することについても当時の律法解釈に従わない教えを語る。
 ユダヤの当局者たちにしてみれば、イエス様が教えること、行うことは、いちいち自分たちが築いてきたもの、伝えられてきた教えを無視し、メチャクチャにし、ただただユダヤ教とユダヤ社会を壊していく破壊者にしか見えなかったのだと思います。そして遂には、神聖なるエルサレム神殿の境内において乱暴を働き、神殿の秩序を守っている者たちを強盗呼ばわりする。もう放っておけぬ。許してはおかない。そういう思いを持ったのでありましょう。宮清めの後、18節「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。」と記されている通りです。この期に及んでは殺すしかない。そう心に決めたのです。その最初の行動が、イエス様の権威を問うということだったのです。
 彼らがここでイエス様に向かって言っているのは「お前は勝手に律法をねじ曲げ、神様の権威を汚し、神殿の秩序を乱す狼藉者だ。破壊者だ。反乱分子だ。お前に何の権威がある。お前にそんな権威を与えた者などいない。もう許さないぞ。観念しろ。」ということです。もちろん、この言葉の背後には「自分たちには神殿がある。サンヘドリンがある。ユダヤ教の伝統がある。みんなローマが認めているものだ。私たちこそ権威ある者だ。この権威に対抗出来る何かが、お前にあるのか。」そうも言っているわけです。

4.何のための秩序か?
 この祭司長、律法学者、長老たちが言おうとすることは、相手がイエス様でなかったのならば、冷静に聞けば、とてもよく分かる、極めて常識的なことなのではないかと思うのです。私共の教会にも秩序があります。私は毎週ここに立って説教しているわけですが、勝手にやっているわけではありません。牧師は召命を受け、正規の手続きを経て教団の教師となった者でなければなりません。私は神様の召命を受け、神学校に行き、教団の試験を受け、准允・按手を受けて教師となり、この教会に牧師として招かれ、これを神様の御旨と信じて受諾して、この教会の牧師となったから毎週ここに立っているわけです。或いは、私共の教会は長老会が総会の議案を作り、様々な行事を執り行い、予算を執行しているわけです。そのような秩序を無視して、ある人が突然、私は神様のお告げを受けたと言い出して、この教会で勝手なことを言ったり行ったりされたら困るわけです。それは当たり前のことでしょう。
 しかし、ここで私共が真剣に考えなければならないことは、私共が守らなければならない秩序は誰のためかということなのです。自分の権威を守るためなのか、それともキリストの権威を守るためなのかということです。これが本当に重要なことなのです。この峻別を誤りますと、自分の権威を守るために神様を利用するということが起きるのです。そして、一度自分を守るために神様の権威を持ち出せば、それはもう相手が滅びるまで徹底的に、躊躇なく攻撃するということが起きてしまうのです。私共が肝に銘じておかなければならないことは、私共神様ではないということ。そして、私共が守るのは神様の秩序、キリストの権威であるということなのです。

5.私共はイエス様ではない
 イエス様は神の御子であられました。神様と一つであられました。ですから、神様が与えられた律法が人間によって曲げられてしまっていることに対して、それを糺すこともお出来になりましたし、そうするために来られました。しかし、そのイエス様と私共は同じではないのです。このことをよくよく心に刻んでおかなければなりません。私共はイエス様ではありません。どこまで行ってもイエス様と同じにはならない。このことをはっきりさせておかないと、「イエス様はユダヤ教の秩序を壊された。宮清めも行った。だから自分も今の間違った教会のあり方を正すために、教会を破壊しなければならない。」そんな馬鹿なことを真面目に言い出す人が出るのです。そのような人に対して、私共は何と言うべきなのでしょう。私はただ一言「あなたはイエス様ではないでしょう。」そう言えば良いのだと思います。
 「What would Jesus do ? 」という言葉があります。世界中の教会で標語のように言われたりする言葉で、日本語に訳せば「イエス様ならどうなさるだろう。」となるでしょうか。私は、これもどうかと思う。私共はイエス様じゃないのですから、私共が自らに問うのは「イエス様の弟子としてどうすべきか」「イエス様はどうすることを私に求めておられるか」ということでしかないのです。何万人もの飢えた人々を前に、イエス様ならどうなさるか。イエス様なら5つのパンと2匹の魚で養われるでしょう。しかし、私共はイエス様じゃないのですから。どうするかが課題になるのです。難病で苦しむ人、愛する者と死に別れた者を前にしても同じ事です。私共はイエス様ではないのです。
 このことをよく弁えておりませんと、私共はすぐにこの祭司長や律法学者や長老たちと同じ過ちを犯すことになってしまうのだと思います。自分の考え、今までのやり方、それに反する者は神様の敵だ。神様に敵対する者だ。そんな見方をしてしまいがちなのです。これが宗教の怖いところです。しかし、神様は石ころからでもアブラハムを起こせるお方なのですから、どんな人をも用いて事を起こされます。私共は、どこに神様の御心があるのかをいつも謙遜に聞いていく者でなければならないのです。そして、変えられていくことを喜び、楽しむのです。私共の教会の伝統である改革派・長老派は、この神様の自由なお働きの中で変えられていくことを信じ、委ねていく者の群れなのです。それは、自分の中には守るべき権威など何一つないことを知っているからです。

6.権威とは何か
 イエス様はこの問いに対して、29~30節「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」と言われました。このヨハネとは、洗礼者ヨハネのことです。イエス様もまた、このヨハネから洗礼をお受けになりました。洗礼者ヨハネは、悔い改めなければ救われないと説いて、ヨルダン川で洗礼を施しました。このヨハネの運動は、エルサレム神殿を中心としたユダヤ教を担っている人々から見れば、全面的に認めることなど出来るものではありませんでした。何故なら、自分たちが解釈したあり方で律法を守り、神殿で犠牲をささげていれば救われるというのが、彼らの主張だったからです。洗礼者ヨハネは、人々から絶大な支持を受けましたが、領主ヘロデによって殺されました。このヨハネが殺されたことについて、祭司や律法学者や長老たち、サンヘドリンの構成メンバーが関与したということはなかったと思います。しかし、もし彼らが洗礼者ヨハネを全面的に支持していたのならば、領主ヘロデがあのようにヨハネを殺すことが出来たかどうか。
 イエス様はここでヨハネを持ち出すことによって、権威とは本来何なのかを彼らに突き付けられたのです。「あなたたちはわたしの権威を問うが、権威とはそもそも何なのか。神様によって与えられるものではないのか。それなのに、あなたたちは自分に権威があるかのように思い、それを守ることに必死になっている。そうして、あなたたちはヨハネを見殺しにしたのではないか。あなたたちが問うている権威とは一体何なのか。答えよ。」そのように逆に詰め寄られたのです。
 31~32節「彼らは論じ合った。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。しかし、「人からのものだ」と言えば……。』彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。」とあります。イエス様に逆に問われて、彼らは論じ合いました。ここに、彼らの言う権威というものがどんなに情けないものであるかが明らかにされました。彼らの守らねばならないと考えた権威は、群衆の顔色を窺うものでしかなく、それはとても神様から与えられたとは言えないものであることが明らかにされたのです。彼らが守ろうとしたのは自分の権威であり、人間が作り出した権威であり、この世の権威に過ぎないことが明らかにされたのです。それ故、彼らは「分からない。」と答えるしかありませんでした。

7.神様に従順であられたイエス様
 イエス様は、彼らの「分からない。」という答えを聞いて、「わたしも言うまい。」と答えられました。分からないという言い方で自分の権威を守り保身を図ろうとする人に、権威の話をしても意味がないと考えられたからでしょう。イエス様にとって権威とは、ただ神様が与えてくださるものしかありませんでした。イエス様は神様の権威に服する者として語り、考え、歩んでこられました。そして、その歩みは十字架へとつながるのです。ただ一つの権威である神様に従うということは、我が身を守るということとは正反対のところにあるのです。イエス様はそのことを、十字架にお架かりになることによって示されました。まことの権威に従う者として、十字架の上に命を捨てられたのです。そして、ここに神の御子としての、すべての名にまさる名の権威が与えられることとなったのです。
 パウロは、このイエス様の姿をこう記しました。フィリピの信徒への手紙2章6~9節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
 先程、エレミヤ書をお読みしました。ここには、エレミヤという預言者が、神様の裁きによって神殿が壊されることを告げ、そのことによって死刑にされなければならないと言われたことが記されています。幸いなことに、エレミヤはこのとき死刑にされることはありませんでした。エレミヤはこのとき、エルサレム神殿がいつの間にか、神様の御心に反する、目に見える権威を主張する人々の根拠となり、本当の神様の言葉を聞こえないようにする、神の民を悔い改めることのない民にする、そのような役割を演じてしまうことを示しました。それは何もエルサレム神殿だけではありません。
 私共は、目に見える教会というものが、いつもそのような危険性を持つものだということをよく弁えていなければならないのだと思います。そして、目に見えるものを権威あるものとしていく時、私共はイエス様を十字架に架けた人々と同じ誤りを犯しているのだということを忘れてはならないのです。権威とは、天と地を造られた神様と、その独り子なるイエス様にのみあるのであって、私共はただその権威に服する者でしかないのです。そして、このお方に服する者は、自らの栄光を求めず、ただ神にのみ栄光あれと唱えつつ、ただ仕える者として歩んでいくのです。

[2015年3月15日]

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