富山鹿島町教会

礼拝説教

「御子の内にとどまる」
民数記 9章15~23節
ヨハネの手紙一 2章27節~3章1節b

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられております御言葉は2015年度の私共の教会聖句です。4月5日の週報から、表紙に記されております御言葉が「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。」(ヨハネの手紙一2章28節)に替わっております。気が付かれましたでしょうか。この「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。」が、今年度の私共の教会聖句なのです。この御言葉と共に、この御言葉に導かれて、この2015年度を歩んで参りたい。そう心から願うものです。

2.子たちよ
 さて、この御言葉は、「子たちよ」と語りかけます。このヨハネの手紙一を記した著者にとって、自分の子のように親しく、また愛している教会員、キリスト者に向けて、この手紙は書かれたのでしょう。この手紙の中では何度も、この手紙を読む人々、この手紙の宛先の人々に対して、「子たちよ」「子供たちよ」「わたしの子たちよ」と呼びかけています。私は牧師として、教会員の方々を「わたしの子たちよ」と呼べるか、そう問われる思いが致します。もっとも、私の親のような年齢の教会員の方も大勢おられますので、どの教会員に対しても「子たちよ」と呼ぶのも変な気がいたします。確かに、年齢の問題はあるでしょうけれど、本質的には私の愛が問われている。そう思います。
 しかしここで考えなければならないのは、私共とこのヨハネの手紙一を書いた著者とは、一面識もないということです。ですから、この「子たちよ」という呼びかけを、この手紙の著者からの呼びかけとして受け止めるのでは、「どうもピンとこない」ということになるのではないかと思うのです。そうではなくて、この「子たちよ」という呼びかけを、私共は神様からの呼びかけとして聞くことが出来ますし、そうして良いのです。と申しますのは、このすぐ後の3章1節a~bに「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」とあります。この手紙を記した人は、自分の子供のように愛したキリスト者、教会員を、何よりも神様に愛された、神様の子とされた者であるという点で見ているのです。私共は「神の子」とされているのです。この驚くべき恵みの事実をしっかり受け止めるならば、「子たちよ」というこの呼びかけを、神様からの呼びかけとして聞くことには何の問題もありません。私共は天地を造られた神様の子なのです。神様は私共を「我が子よ」と呼ぶほどに愛してくださっているのです。その愛は、イエス・キリストの十字架によって、揺らぐことのない確かなものであることが証しされています。天地を造られる前から御自身と一つであられた唯一人の御子を、神様は人間として生まれさせられました。それは、私共のために、私共に代わって、十字架において処刑するためでした。私共の身代わりとして、私共の一切の罪の裁きを受けさせるためでありました。自分に逆らい、自分に敵対する者のために、自分の愛する独り子を身代わりにする父親など何処にもおりません。しかし、神様はそれをなさいました。神様のこの愛は、私共の理解をはるかに超えています。まことに「あり得ない愛」です。このあり得ないほど大きな、激しい、とてつもない愛。この神様の愛の中に、私共は生かされているのです。
 私共は「父なる神様」と呼びかけて祈ります。一日に何度も祈ります。その祈りの度毎に、私共はこの自分が「神の子」とされているという驚くべき恵み、このために神様が為してくださった痛ましい手続き、御子イエス・キリストの十字架を思い起こすのです。私共は「神の子」とされているのです。確かに、私共の中に「神の子」と呼ばれるに相応しい所などどこにもありません。全くありません。もちろん、多少の良い点は誰にでもあるでしょう。しかし、そんなもので私共が「神の子」となれるはずもありません。神様が、罪に満ちた、欠けばかりの私共を、一方的に「我が子」として受け入れてくださった。また、そのために御子を十字架に架けてくださった。そこにしか、私共が「神の子」とされる根拠はないのです。
 この恵みの事実に目を開かれ、この事実を受け入れるならば、私共はただただ感謝をもってこれを受け取り、御名をほめたたえ、この恵みの中にとどまり続け、神様の御心に適う歩みを為して参りたい。そう願うしかないのではないでしょうか。私共が神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来、神様との親しい交わりの中に生かされている恵みの事実は、何によっても代えることが出来ないものです。この恵みに比べれば、この世で価値があると思われているどんな物も、塵芥に過ぎません。富も名誉も健康も、私共が「神の子」とされている恵みの事実とは比べようがありません。

3.御子の内にとどまる
 この恵みの事実をしっかり受け止めるならば、わたしどもにとって最も大切なことは、何よりもこの恵みの中にとどまり続けることであることは明らかでありましょう。この神の子とされている恵みの中にとどまり続けること、それをヨハネは「御子の内にいつもとどまる」と言っているのです。
 私共が「神の子」とされたのは、唯一人の神の御子であるイエス・キリストと一つに結び合わされたからです。主イエス・キリストの十字架と復活の御業に、救いの御業に結び合わされた私共なのです。主イエス・キリストの愛と真実に結び合わされた私共なのです。主イエス・キリストの命に結び合わされた私共なのです。ですから、私共が「神の子」とされているということは、イエス様の救いの御業に与っているということであり、イエス様の愛の中に入れられているということであり、イエス様の御自身の中に入れられているということなのです。イエス様と離れた所で、私共が神の子とされることはないのです。イエス様が唯一人の神の御子だからです。この方と一つに結び合わされ、この方の救いの御業と愛の交わりの中にあることによって、私共は「神の子」であり続けることが出来るのです。

4.聖餐と洗礼
 このことは、目に見える所においては、私共がキリストの身体である教会につながる、教会の交わりの中に生きるというあり方で与えられています。そして、それは洗礼と聖餐という聖礼典を備えてくださるというあり方において、神様は私共に示してくださいました。
 洗礼はキリストの体につながることです。そして、それは具体的に目に見える教会につながることをも意味しています。聖餐はキリストの体と血とに与ることであり、見えないキリストの命と一つにされることを、見える形で示しています。私共は愚かで、疑い深く、すぐにサタンの誘惑に乗ってしまい、神様の救いの御手から飛び出して行こうとします。そのような私共のために、神様は見えない恵みを見える形で示してくださったのです。イエス様と一つにされている。この恵みをしっかり受け取るための手段として、神様の見えるしるしとして洗礼と聖餐を与えてくださったのです。
 ですから、「神の子」とされているということは、洗礼を受けた者ということであり、聖餐に与り続ける者とされているということなのです。今週は、週報に記してありますように、教会に来ることが出来なくなった8人の方々の所を訪ねて、共に聖餐に与ります。高齢になって、思うように体を動かすことが出来なくなり主の日の礼拝に集うことがたとえ出来なくなっても、またたとえ認知症になったとしても、御子の内にあること、神の子とされていることには少しも変わりがありません。この恵みを共に味わい、共に御名をほめたたえるために訪問聖餐を行うのです。通常、訪問聖餐は牧師だけが訪ねるのではありません。何人かの教会員が同行します。元気な時に、共に礼拝を捧げた信仰の友であれば、それに越したことはありません。その理由は、キリストと一つにされているということは、目に見える教会の交わりにあるということと切り離すことが出来ないことだからなのです。あのパンと杯に魔法の力があるのではありません。聖餐は、私共がキリストと一つにされている。このことを受け取り、その恵みを味わうのです。
 私共が教会員である、教会のメンバーであるということは、何かのボランティア団体のメンバーであるとか、どこかの会社の社員であるとか、長寿会のメンバーであるということとは、全く意味が違うのです。私共は、この目に見える教会に連なることによって、キリストの体に連なり、キリストと一つにされていることを味わい、その恵みを受け取るのです。年老いても、病気になっても、礼拝に集うことが出来なくなっても、キリストと一つにされている恵みからこぼれ落ちるなどということはあり得ないのです。私共の救いは、私共がイエス様にしがみついて、何とかしてイエス様と共にあろうとすることによって得られるものではありません。そうではなく、ただイエス様の救いの恵みが私共を捕らえ、私共を離さないのです。このことを、訪問聖餐ははっきりと私共に示すのです。
 皆さんの中で訪問聖餐に同行したとのない方は、ぜひ、牧師に同行していただき、共に私共を捕らえて離さないイエス様の救いの恵みを、心と体に刻みつけていただき、共々に神様を誉め讃えたいと思うのです。

5.私共に与えられる確信
 さて、御子の内にとどまるということは、「神の子」とされている恵みの中にとどまることと同じであり、それはキリストの身体である教会に連なるということであることを見ました。では、そのように「御子の内にいつもとどまっている」ならば、私共はどうなるのでしょうか。どうなると聖書は約束しているでしょうか。28節「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」とあります。「確信を持つことができる」というのです。その確信の中身は何かといえば、「御子の現れるとき」、つまりイエス様が再び来られる時です、その時「御前で恥じ入ることがない」というのです。イエス様が再び来られる時、私共は永遠の裁きの座につくわけですが、その時神の子として永遠の命に与る。このことについて、私共は確信を持つことが出来るということなのです。私共の信仰は、この地上における歩みを規定するだけではなくて、この地上の歩みが閉じられた後も、イエス様が再び来られる時に与えられる永遠の命に与るということにつながっているものなのです。そして、このことに対しての確信が与えられるならば、私共はもう何も恐れるものはないのではないでしょうか。
 私共はイエス・キリストの救いの御業の中に、イエス・キリストの愛の中に、イエス・キリストの体の中に生きているのです。イエス様を信じるということは、この私共と結び合わされたイエス様と一つにされている恵みの中で、イエス様との親しい交わりの中に生きるということです。確かに、私共はなお罪を犯すでしょう。不信仰な私共であります。この恵みの中にあることをしばしば忘れ、まるで自分の力だけで生きているかのように錯覚して、様々な不安にさいなまれることもあるでしょう。しかし、そのような私共を神様はなおも「我が子よ」と呼んでくださり、「我が御子の内にとどまれ。あなたはわたしのもの。あなたに害を及ぼす悪しき者の手から、わたしは必ずあなたを守る。安心しなさい。恐れることはないのだ。」と語りかけてくださいます。この語りかけを聞くことです。この御言葉に耳をふさいではなりません。
 私共は御子の内にあるのですから、私共は必ず救いの完成に与ることになります。そのような私共を滅ぼそうとすれば、私共を御子の内から、外へと引き出さなければなりません。そして、そのためには御子を倒さなければなりません。御子を倒さなければ、御子の内に居る私共を外に引き出すことなど出来るはずがないからです。しかし、御子を倒せる力ある者がどこに居るでしょうか。どこにもおりません。死さえも御子を滅ぼすことは出来なかったのですから。天と地の中にあるすべてを創られた唯一の神様のただ独りの御子を倒せるものなど、ありません。艱難も、苦しみも、迫害も、飢えも、死も、病も、私共をイエス様から引き離すことなど出来るはずがないのです。私共は、このことを信じて良いのです。
 ただ、自分からこの救いの恵みの外へ、キリストの内から外に、自分から出て行ってしまえば別です。

6.聖霊によって
 確かに、私共は何度も同じような過ちを犯すでしょう。それでもキリスト者かと言われるようなこともあるかもしれません。しかし、それでも私共はキリスト者なのです。キリストと一つにされた恵みは、そのようなことで私共から失われることは断じてありません。私共は、その度に悔い改め、立ち帰れば良いのです。神の子とされている恵みの中に立ち帰るのです。そして、歩み直すのです。御国に向かって、いよいよ神様を愛し、信頼し、従う者として歩み直すのです。私共は、この主の日の礼拝の度毎にそれをしているのです。
 この私共の歩みを導くために、神様は私共に聖霊を与えてくださっています。私共がイエス様を神の御子と信じることが出来るのも、イエス様の十字架と復活によって救われていること信じることが出来るのも、聖霊なる神様のお働きによってです。私共が自らその罪に気づき悔い改めることが出来るのも、そこから歩み直すことが出来るのも、すべては聖霊なる神様によってです。神様は私共が救われるようにと御子イエス・キリストを与えてくださっただけではなくて、その救いの御業に与ることが出来るように、その御子の内にとどまることが出来るようにと、私共のために聖霊をも与えてくださっているのです。
 私共は、この聖霊なる神様の御支配の中にあるのです。27節「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」とあります。この「御子から注がれた油」「この油」とは、聖霊のことです。聖霊が、何が真実で何が偽りであるかを教えます。御子の内にとどまり続けるための具体的な道筋を、その人その人の置かれている状況に合わせて教えてくれます。「だれからも教えを受ける必要がありません。」というのは、いささか誤解を招きかねない言い方です。これは、直接聖霊が教えてくれるので、牧師になんか何も教えてもらう必要はないというようなことではありません。私共は、主の日の度毎に御言葉に与るのです。そのような歩みの中で、私共に与えられ、蓄えられた御言葉が、私共に為すべきことを教え、導いてくれるということなのです。私共は、この聖霊の促しというものに従っていくことが大切です。もちろん、右だ左だと、カーナビのように教えてくれるわけではありません。主の日の度毎に与えられる御言葉が、私共の内で働いてくれるのです。
 先程、民数記9章をお読みしました。出エジプトの旅において、イスラエルの民は、神様が御言葉を与えてくださる幕屋、その幕屋の上に臨む雲と共に行動したことが記されています。この雲は神様の御臨在を示します。イスラエルの民は、雲がとどまればそこにとどまり、雲が昇ると旅立ちました。自分の予定、都合ではなく、ただ神様の導きに従ったことが記されております。私共の信仰の歩み、教会の歩みもそういうものなのでありましょう。聖霊なる神様が導いてくださいますから、私共は安んじて、とどまる時はとどまり、休む時は休み、歩む時は歩むのです。必要のすべては、主が与えてくださるのですから。
 この礼拝の後、私共は2015年度の定期教会総会を神様の御前に開きます。その教会総会が、神様の導きをしっかり受け止める時でありますよう、心から願うものです。

[2015年4月26日]

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