富山鹿島町教会

礼拝説教

「ゲツセマネの祈り」
詩編 119編129~136節
マルコによる福音書 14章32~42節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 イエス様はユダの裏切りによって捕らえられ、裁判を受け、十字架に架けられるという御受難の出来事の直前、ゲツセマネという所で祈られました。私共が「ゲツセマネの祈り」と言い習わしている場面です。イエス様御自身の祈りの言葉が残されている数少ない箇所であり、またその祈りは十字架に架けられる直前の祈りですので、イエス様がどのような思いで十字架への道を歩まれたのかを私共に示すと共に、祈りとは何なのか、私共の祈りとはいかなるものであるかを示す、とても大切な場面です。今朝は、このイエス様のゲツセマネの祈りから二つのことを見ていきたいと思います。一つは、このゲツセマネの祈りとは何なのか、この祈りをささげられたイエス様とは誰なのかということ。もう一つは、イエス様はどうしてこの時三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたのかということです。

2.神様に捨てられる死を恐れる
 さて、第一の点でありますが、このゲツセマネの祈りは、イエス様が十字架にお架かりになる直前の祈りです。弟子たちと最後の過越の食事を共にして、祈るためにイエス様はここに来られたのです。そしてイエス様は、33~34節にありますように「ひどく恐れてもだえ始め」、「わたしは死ぬばかりに悲しい。」と弟子たちに言われたのです。イエス様は何を恐れてもだえられたのか。どうして死ぬばかりに悲しいと言われたのか。それは言うまでもなく、これから十字架に架けられて死ぬ、そのことを思って、恐れ、もだえ、死ぬばかりに悲しんでおられたのでしょう。それは、36節においてイエス様が父なる神様に対して、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」と祈っていることからも分かります。イエス様は何も苦しまず、喜んで十字架にお架かりになったということではないのです。父なる神様にこの杯を、つまり十字架の死ですが、これを取りのけてくださいと祈っているのです。十字架に架かりたくなかったのです。勿論、自分の死を前にして苦しむのは当たり前であり、平然としていられるはずがないではないか、とも言えるでしょう。それはその通りでしょう。死ぬのは誰でも嫌ですし、恐ろしい。しかし、イエス様のここでの苦悩、悲しみとは、はたしてそういうことなのでしょうか。
 昔から、イエス様を神の子と信じない人の批判はここに向けられていました。自分の死を前にしてこんなに恐れ、苦しみ、悲しむような者が神の子であるはずがない。あのソクラテスでも、「悪法もまた法なり」と言って毒杯をあおった。ソクラテスの死に際しての姿の方が、余程堂々としているではないか。日本では武士は切腹をした。その時は辞世の句を詠んだ。一流の武士は、自らの死を前にこんなに恐れたり、悲しんだりする姿を人に見せることはなかった。イエスという人間は、何と肝の据わっていない小心者か。そう批判してきたのです。しかし、このような批判は全く的を外しています。そういう点だけで言うのならば、42節でイエス様は「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と言って、十字架に向かって自ら進み出て行かれているのです。ただ死ぬのが怖い、恐ろしいということではないのです。
 このようにイエス様を批判する人は、そもそも死というものが分かっていないのだと思います。死というものを、単に命がなくなる、生物的な死、そういうものとしてしか受け止めていないのでしょう。しかし、聖書の理解で言えば、死とは、罪に対しての神様の裁きなのです。神様に捨てられ、神様との交わりを絶たれることなのです。創世記の3章において、アダムとエバが食べてはならない木の実を食べ、その罪の裁きとして人間が死ぬようになったと記されています。パウロが「罪が支払う報酬は死です。」(ローマの信徒への手紙6章23節)と告げている通りです。死を恐れないというのは、この神の裁き、神に捨てられるということの悲しさを知らないからなのです。
 イエス様は、天地が造られる前から父なる神様と一つであられました。父なる神様と全き愛の交わりの中におられました。そうであるが故に、神様に裁かれ、神様に捨てられるということがどんなに恐ろしいことであるのか、よく知っておられました。死の本当の意味、死の本当の恐ろしさを知っておられた唯一の方であったと言って良い。だから、イエス様は恐れ、苦しみ、悲しまれたのです。

3.多くの者の罪を担い、身代わりとしての死
 しかも、イエス様は何の罪も犯してはいないのです。イエス様の十字架の死は、私共のために、私共に代わって受けられるものです。本来私共が受けなければならない神様の裁きを、私共に代わって受けられるのです。イエス様はこの時、御自分の死を前にしておられるのですが、同時に、何億、何十億、何百億という、気が遠くなるほど多くの人の罪、その人たちが気付いてもいない多くの罪を、すべて担っておられるのです。イエス様のこの時の恐れと苦しみと悲しみは、私の罪の故なのです。
 私共は、自分のせいで死ぬことだって嫌です。しかしイエス様はここで、全く御自分に罪がないのに、自らの罪さえ分かっていない私共のために、すべての者のために、その裁きを一身に引き受けようとしておられる。永遠に一つであられる父なる神様に捨てられようとしている。裁かれようとしている。だから、死ぬばかりに悲しいのです。この恐れ、苦しみ、悲しみを本当に知ることが出来る者など、一人もいないのです。私共が味わう死の恐れは、自分の死に対する恐れでしかないからです。しかし、その私共が味わう死の恐れ、苦しみ、悲しみは、このイエス様によって担われているのです。イエス様が私共のために、私共に代わって味わわれた苦しみによって担われている。私共は、自らの死を目前にしてもなお、一人ではないと言い切れるのです。このゲツセマネで苦しまれたイエス様が共にいてくださることを知るのです。そして、神様に裁かれ、神様に捨てられる永遠の死から、私共を救ってくださる。肉体の死は、永遠の滅びではないことを私共は知らされるのです。イエス様の十字架の死と一つにされた私共の死は、イエス様の復活の命にも与ることを知っているからです。
 実に、このゲツセマネの祈りにおいてこそ、イエス様は誰なのか、イエス様の十字架の死とは何なのか、そのことがはっきりと示されているのです。

4.神様との親しい交わりとしての祈り
 イエス様はこのゲツセマネの祈りにおいて、御自身の十字架の死から逃れたいとの思いを神様に告げますが、同時に「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られました。これが神の御子であるイエス様の祈りなのです。私共の祈りは、自分の願いを告げることに終始してしまうことが少なくありません。神様の御心になど思いを至らせることなく、自分の願いを叶えて欲しい、自分の思いを実現してくれるようにと願い求め、それに終始してしまうことが少なくない。しかしそれは、イエス様によって示され、イエス様によって開かれた、まことの祈りの世界ではないのです。
 私共は、イエス様によって「主の祈り」を教えていただきました。この「主の祈り」によって、まことの祈りの世界へと導かれています。この主の祈りの一番の特徴は、神様の御心を求めるというところにあります。今、主の祈りを初めからなぞっていく時間はありませんが、「願わくは御名をあがめさせ給え。御国を来たらせ給え。御心の天になる如く地にもなさせ給え。」という、初めの三つの祈りを思い起こすだけでも、そのことは分かるでしょう。実にイエス様は、この主の祈りに示されている父なる神様との親しい交わり、神様の御心を求める祈りに生き切ったお方だったのです。
 ある人が、「私共の祈りの目的は祈ることだ。」と申しました。なるほどと思います。私共は祈りという道具で、自分の願いや思いを遂げようとする。しかし、それは私共の祈りの本当の目的ではないのです。イエス様はここで、神様に向かって「アッバ、父よ。」と呼びかけています。「アッバ」とは、お父さんを呼ぶ時の、当時の幼児語です。幼子がお父さんを呼ぶ時の言い方なのです。実にイエス様は、この時も幼子が父を信頼しきって自分のすべてを任せるように、父なる神様を信頼し、親しい交わりの中に生きておられるのです。この神様との親しい交わりこそ、イエス様が私共に与えてくださった新しい祈りの世界なのです。最も恐ろしい、最も苦しい、最も悲しいその時においても破られることのない父なる神様との親しい交わり。決して失われることのない、父なる神様への信頼。これこそ、イエス様が十字架の死をもって私共のために拓いてくださった新しい世界なのです。この神様への失われることのない信頼、神様との親しい交わり。ここに生きることが出来る。ここに生きよう。ここにまことの幸いがある。そうイエス様は私共を招いてくださっているのです。

5.ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて
 さて、第二の点に移りましょう。イエス様はこのゲツセマネの祈りの時、どうしてペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて行かれたのでしょうか。最後の祈りの時です。いつもそうであったように、御自分一人で祈りの時を持たれても良かったのではないか。しかし、イエス様はそうなさいませんでした。どうしてでしょうか。
 今までも、イエス様はこの三人を伴って行かれたことがありました。5章に記されております会堂長ヤイロの娘を「タリタ、クム」と言ってよみがえらされた時と、9章に記されておりますイエス様が山の上でその姿を栄光に輝く姿に変え、モーセとエリヤと語り合われた時です。どちらも、イエス様は誰であるかということをはっきり示される時でした。神様の御業がはっきりと現される時でした。ということは、このゲツセマネの祈りの時も、そのようなイエス様が誰であるかということが明確に示される時であったということなのではないでしょうか。このことについては今まで述べてきた通りです。そして、イエス様はこのことをしっかりと私共に伝えるためにこの三人を選び、ゲツセマネの祈りの証人としてお立てになったということなのでありましょう。
 問題は、ここでこの三人の弟子たちが揃いもそろって眠りこけてしまったということです。イエス様はこの三人の弟子たちに「ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と言われましたが、彼らは眠ってしまいました。どうして眠ってしまったのでしょうか。眠ってしまうのに理由はない。眠いから眠った。確かにそういうことなのかもしれません。私共も、起きていようと思っていてもいつの間にか眠ってしまう、そういうことがあります。この時の弟子たちもそうだったのだ。そうも言えると思います。イエス様が、「心は燃えても、肉体は弱い。」と言われている通りです。しかも彼らは、イエス様に注意されたにも関わらず、三度も眠ってしまいます。三度というのは、聖書においては単に回数を示すだけではなくて、完全に、徹底的に、否定出来ないほどに、ということです。ペトロがイエス様を「知らない」と三度言ったのも同じ意味です。弟子たちは、イエス様が死ぬばかりに悲しんで祈っておられた時に、その声が聞こえてくるくらいの近い所で、完全に、徹底的に、眠ってしまったのです。
 この出来事は、三人の弟子にとってまことに不名誉な出来事、大失態ということであったはずです。この福音書が記された頃、この三人は既に初代教会において中心的な存在として知れ渡っていました。この出来事は、イエス様の他、この三人しか知らないことですから、三人が誰にも言わないでおこうと口裏を合わせていれば、誰にも知られずに歴史の闇に消えていったはずです。しかし、こうして私共は福音書を通して知ることとなっている。それは、この三人がこの出来事を隠さなかったからでしょう。彼らは、この出来事を黙っていることなく語ったのです。どうしてでしょうか。それはこの「心は燃えても、肉体は弱い。」そのような自分たちのためにイエス様は祈ってくださったのだということが分かったからではないでしょうか。  この時、この三人の弟子たちは、イエス様がこれから捕らえられ、十字架に架けられて死ぬ、そのことを本気で受け止めていなかったのではないかと思います。そして、その十字架の死が自分の罪の赦しのためであるということも、この時はよく分かっていなかった。だから眠ってしまったのだろうと思います。夜が明けたらイエス様は十字架に架けられる。そのために祈っておられる。そのことが本当に分かっていたのなら、さすがにこんなに眠ることはなかったのではないでしょうか。
 イエス様の苦しみも、その意味もよく分からない。そして、イエス様が死ぬほどの悲しみの中で祈っているのを見ながら眠ってしまう。大失態です。忘れることの出来ない大失態です。もう決してそんなことがないようにしたいと思ったことでしょう。しかし、この大失態を犯した私のために、イエス様は祈ってくださり、十字架にお架かりになってくださった。そのことが復活なさったイエス様と出会ってはっきり分かった。だから、彼らはこのことを語ったのでしょう。これを語らないことには、イエス様の福音が伝えられない。だから語ったのです。

6.祈る者にしてくださいと祈る
 祈りはキリスト者すべての課題です。自分はもう十分に祈っている。そう言えるキリスト者などいないでしょう。なかなか祈れない。時間が無い。祈っていてもすぐに眠くなってしまう。いろいろ理由は付けられるでしょう。しかし、それらは本当の理由ではないと思います。私共が祈れない本当の理由は、心を神様に向けさせまいとするサタンの誘惑に負けているからです。祈ろうとしない罪に負けているからです。祈らないことは罪なのです。しかし、その罪を自ら引き受けてくださり、祈ってくださった方がいる。この方の祈りによって、祈れない私が担われているということなのです。この三人の弟子は、そのことを伝えるために、自分たちの大失態を語らざるを得なかったのです。弟子たちはこの大失態を語りつつ、「あなたがたも祈れないという罪の中にあるかもしれない。しかし、そのあなたがたも赦され、担われている。このイエス様によって担われている。そのことを信じるのです。」そう告げてきたのでしょう。「あの祈れずに眠ってしまった私が、今、こうして伝道者として立ってる。祈る者とされている。」そう告げてきたのでしょう。
 もちろん、だから祈らなくても良いということではありません。イエス様は、「目を覚まして祈っていなさい。」と告げられたのです。このイエス様の言葉を自分に告げられた言葉として受け止め、キリスト者は、キリストの教会は歩んできましたし、歩んでいます。しかしそれは、自らの祈りによって自分の義を立てようというのではないのです。祈れない自分。それは、自分の力や能力によって立っていこう、神なんて頼らないで生きていこう、自分は自分でやっていける、という傲慢の中にあるからでしょう。そのような自分が、祈れない罪を認め、祈る者にしてくださいと祈る者へと変えられる。「祈る者にしてくださいと祈る」というのは、理屈から言うと変な話です。祈る者にしてくださいと祈るということは、既に祈っているではないかということになるからです。しかし、私共はこのような理屈の中で信仰しているのではありません。祈れない自分がいる。この祈れない罪と戦い、イエス様のようにどんな時でも神様を信頼し、神様との親しい交わりの中に生きる者でありたい。そう願うのでありましょう。それは、既にイエス様によって赦され、愛され、導かれ、生かされているからなのです。この救いの恵みの中に生き切ることが出来るよう、共に祈りを合わせたいと思います。

[2015年8月9日]

メッセージ へもどる。