富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の御子の復活」
詩編 116編1~19節
マルコによる福音書 16章1~8節

小堀 康彦牧師

1.M夫妻の転居
 週報に記してありますように、Mさん御夫妻は今月の23日に富山を離れまして、一人娘の御家族のいる奈良県に転居されることになりました。御夫妻は高齢者住宅にお住まいでしたけれど、ご主人のSさんは大腿骨を骨折されリハビリ中ですし、奥さんのS子さんも転んで腰を打ち、お二人とも歩くことが困難になられて、娘さんが住んでおられる所の近くの施設に入ることになったのです。お別れする前にどうしても共に聖餐に与りたいと思いまして、先週の金曜日に訪問聖餐をしてきました。そこで、「体が不自由になってから、信仰による兄弟姉妹ということが本当に良く分かりました。」と話されたこと、そして最後にS子さんが祈りたいということで一緒に祈りを合わせたのですが、その中で「61年の間、共に礼拝を守り、信仰を与えられたことを感謝します。」と祈られたことが心に残りました。S子さんは61年前に20歳で洗礼を受けられた、私共の教会で一番古い信徒のお一人です。もう地上にあって私共と共に礼拝を守ることはないかもしれません。しかし、信仰によって結ばれ、兄弟姉妹とされた交わりは神様の御手の中にあって、決して無くなるものではない。そのことを、共に聖餐に与って心に刻ませていただきました。S子さんはいつも教会のトイレの清掃をしてくださっていました。色々なことを思い出すのですけれど、イエス様が復活されたのですから、私共の交わりはこの地上では終わりません。共々に主を見上げて、御国に向かって歩んでまいりたいと思うのです。

2.マルコによる福音書の最後
 今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書の最後の所です。9節以降は元々のマルコによる福音書には無く、後から書き加えられたものであると考えられています。どうしてそうなったのか。多分、8節で終わるのはどうも不自然であると考えたからだろうと思います。8節で終わってしまいますと、マグダラのマリアと他の二人の婦人たちがイエス様の墓に行くと、石が既にわきへ転がしてあり、墓の中には天使がいて、イエス様の復活を告げられる。そして、8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」で終わることになります。これではイエス様が復活されたことがはっきりしないではないか。そう思った人が、9節以降を書き加えた。そのように考えられております。新共同訳は、そのことを示すために9節以降を大きな括弧でくくっています。新共同訳の凡例三の(6)には、この括弧でくくられている所は「新約聖書においては、後代の加筆と見られるが年代的に古く重要である個所を示す。」とあり、後代の加筆であることをはっきり示しています。確かに、9節以降を書き加えた意図、思いは分かります。また、ある人は、本当は8節以降に復活されたイエス様と弟子たちが出会う記事があったのだけれども、それが失われてしまったので9節以降を書き加えたのだと主張します。しかし、これはいささか想像力を逞しくし過ぎではないかと私は思います。どうしても復活に至らなければ福音書の終わりにはならない。そのような思いが強いのでしょう。しかし、私は8節で終わっても十分にマルコによる福音書はその目的を果たしていると思っています。
 何故なら、イエス様が復活されたということは、マルコにとってもこの福音書を読む教会においても大前提のことだったからです。マルコによる福音書は、イエス様が十字架に架かり、復活されてから30年程経ってから記されました。イエス様の直接の弟子たちが高齢になり亡くなっていく。そういう中で、イエス様と行動を共にした弟子たちの証言をまとめるために記されたものです。ですから、これを記したマルコにしても、この福音書を読んだ教会の人たちも、イエス様が復活されたこと、そして礼拝において聖霊として自分たちに臨んでくださり御言葉を与えてくださっていること、それは信仰の生活の大前提となっているのです。マルコによる福音書より先に、パウロによって記されたコリントの信徒への手紙一の15章14節には「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」とあり、17~19節には「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」とあります。イエス様の復活はキリスト教会の信仰の大前提であり、伝道する内容そのものなのです。マルコはただ地上におけるイエス様の為さったこと、語ったことを記して、復活されたイエス様は地上においてこう語り、こんなことをされたのだということを記したのです。ですから、イエス様の復活を天使から聞いた婦人たちはただただ恐れ、震え上がり、正気を失っていたと記すだけで十分だったのです。それ程に復活という出来事は、あり得ないことであり、驚くべき恐るべき出来事だったということなのです。

3.香料を買って
 さて、四つの福音書はどれも、週の初めの日、つまり日曜日の朝早くに婦人たちがイエス様の墓に行ったことを告げています。弟子たちはこの時一緒に行っていないのです。マルコによる福音書は、彼女たちが「イエスに油を塗りに行くために香料を買った」と記します。彼女たちは金曜日にイエス様が十字架に架けられて死に、その遺体がアリマタヤのヨセフによって引き取られ、墓に葬られるまで、ずっと見ていたのです。きっと、イエス様が十字架を担いでピラトの官邸を出た時からずっと、ついて来ていたのではないでしょうか。朝から日没まで、彼女たちはイエス様のお姿を追いかけていた。そして日没と共に安息日が始まります。安息日が終わるまで、土曜日の日没まで、その間は何も出来ず、じっとしていたことでしょう。そして、土曜日の日没と共に、安息日が終わると共に、彼女たちはイエス様の遺体に塗るための香料を買いに行ったのです。多分、安息日の間、彼女たちはイエス様の死を悲しんで、泣き疲れるほど泣いたことでしょう。「せめて人並みに遺体を葬りたかった。あんな亜麻布でくるむだけで、まるで荷物を放り込むように墓に入れるだけなんて、何てひどいことを。わたしたちがちゃんと御遺体に香油を塗って、墓に入れてあげなきゃ可哀想だ。」そんな会話をしていたのかもしれません。
 私は牧師として何度も葬儀をしてきましたが、これと同じような思いで遺体に接する御遺族の姿を見てきました。愛する者の遺体がぞんざいに扱われるのは耐え難いのです。少しでもきれいにしたい。だから、遺体の周りを花で飾るのでしょう。ですから、この時の婦人たちの思いは私共にも良く分かるのです。彼女たちは安息日が終わるとすぐに香料を買いに行った。しかし、夜に墓には行けませんので、夜が明けるのを待ってすぐにイエス様の墓に行ったのです。

4.イエス様の墓にて
 けれど、イエス様の墓の入り口は大きな石でふさがれています。3節には「彼女たちは『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」とあります。イエス様の墓に行く途中、あの大きな石はどうするのか話し合ったのです。「わたしたちだけではあの石は動かせないんじゃない。どうしよう。やってみるしかないわね。動かせなかったら、誰か男の人が来るのを待っていましょう。」そんな話をしながら墓へと向かったのでしょう。この時彼女たちは、イエス様が復活するなどということは考えてもいませんでした。死は絶対です。愛する者の死を前に、遺体に香料を塗るという仕事を見い出し、その仕事に思いを集中することによって、死の悲しみを紛らわせようとする。そこにすべてを投入していたのでしょう。
 ところが、彼女たちがイエス様の墓に着いてみると、石は既にわきへ転がしてあったのです。彼女たちは、誰かが先に来たのかしらと思ったかもしれません。いずれにせよ、石を取り除けるという難問は解決したわけで、彼女たちはイエス様の墓に入りました。イエス様の遺体に香料を塗るために来たのですから、墓に入らなければその作業は出来ません。彼女たちは墓の中に入ったのです。
 するとそこにはイエス様の遺体はなく、白い長い衣を着た若者が座っていたのです。この「白い長い衣を着た若者」というのは、天使を指す決まり文句です。彼女たちは天使を見たのです。「彼女たちはひどく驚いた。」と聖書は告げます。驚くのは当たり前でしょう。私は、この「ひどく驚いた」という言葉は、マグダラのマリアたちの肉声が背後にあると思います。この出来事をマリアたちは何度も何度も語ったに違いないのです。復活されたイエスに出会った最初の証人たちですから、彼女たちはこの日の出来事を何度も何度も語った。そしてその中で、自分たちが天使を見てどんなにびっくりしたかを語ったに違いないのです。
 天使である若者は言いました。6節「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」何と天使は、イエス様が復活されて、ここにはいないと告げたのです。確かに、イエス様の遺体はそこにはありませんでした。この時彼女たちは、天使が何を言っているのか良く分からなかったと思います。さらに天使は続けて言います。7節「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」天使は婦人たちにこのように告げなさいと命じました。復活されたイエス様は先にガリラヤに行かれる。そこで再びお目にかかることになると。
イエス様が復活された。しかもガリラヤでまたお目にかかれる。彼女たちは何が何だか分からなかったと思います。そして、婦人たちは墓を出て逃げたのです。ただただ恐ろしく、震え上がり、正気を失っていた。ここも婦人たちの肉声が背後にあると思います。天使に会ってイエス様の復活を告げられ、ガリラヤで会えると言われてもただただ恐ろしくて、震え上がって、そこから一目散に逃げた。これは、聖なる出来事に触れた時の、人間の偽らざる思いであり、行動だったと思います。天使にイエス様の復活を告げられて、婦人たちが喜び、感謝したと記されていたのなら、その方がずっと嘘臭いです。イエス様の復活とは、実に、天地を造られた神様が、その全能の力をもって自らを顕されたという出来事であり、この聖なる出来事に触れたなら、私共はただただ恐れ、震え上がるしかないのでしょう。
 天使はここで、「かねて言われたとおり」と告げましたが、それはマルコによる福音書14章28節にある言葉を指しています。ペトロの三度否みをイエス様が予告された時、28節「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と告げておられたのです。イエス様の御復活はこのように、前もって弟子たちに告げられていたことでした。それは、マルコによる福音書10章33~34節、9章31節、8章31節において、三度も御自身の十字架と復活を予告されていたのです。しかし、弟子たちは、それがどういうことなのか分かりませんでした。天使に告げられて、そして復活のイエス様と出会って初めて、そういうことだったのかと分かったということなのでしょう。復活とはそういうことなのです。私共の想像をはるかに超えていることだからです。

5.ガリラヤにて
 天使は、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」と告げました。ガリラヤとは弟子たちの故郷であり、イエス様と弟子たちが出会った場所であり、共に生活した土地です。そこで再び会うというのです。それは、弟子たちとイエス様との再出発を意味していたのでしょう。弟子たちはイエス様が捕らえられた時に逃げてしまいました。ペトロはイエス様を三度知らないと言ってしまいました。その彼らに、イエス様は再びガリラヤで会おうと言われる。それは、弟子たちをもう一度弟子として召し出し、やり直しさせるためでありました。弟子たちにはイエス様と再びやり直すためのガリラヤが必要だったのです。
 私共にもガリラヤがあるのです。洗礼を受け、イエス様の弟子とされた私共です。そしてイエス様にどこまでもついて行くと誓ったけれども、それが出来ずに不徹底な信仰の歩みをしてしまう。長い信仰生活の中では、そういうことがあるのです。教会から長く離れていた時期がある人もいるでしょう。しかし、ガリラヤがあるのです。復活のイエス様は、ペトロを始め弟子たちの一切の罪を赦し、再び御自分の弟子として召し出し、お遣わしになったのです。私共にもガリラヤがあるのです。ガリラヤがあったのです。だから今朝、私共はこうして主の日の礼拝へと集うことが許されているのです。

6.復活の証人とするために
 復活のイエス様に出会うということは、まことに恐るべき、聖なる体験であります。それを私共はどこでするのか。それは、この復活の日に婦人たちが天使の言葉をもって知らされたように、この礼拝の場において神の言葉を聞くことによってなのです。
 何故、石はわきへ転がしてあったのか。イエス様が復活されて墓から出て行くためか。そうではないのです。復活されたイエス様は、弟子たちが鍵をかけておいた部屋にも入ってきて、「平和があるように」と告げられました(ヨハネによる福音書20章19節)。ですから、復活のイエス様が墓から出るのに、わざわざ石をわきへ転がす必要はなかったのです。この石がわきへ転がしてあったのは、婦人たちが墓の中を見て、そこにイエス様の遺体がないことを確認するためだったのです。そして婦人たちが、天使によってイエス様の復活の知らせを受けるためだったのです。この婦人たちが復活の証人となるため、自分たちがどんなに恐れ震え上がったかを証言するために、石は転がしてあったのです。
 婦人たちはイエス様を愛し、遺体への思い入れを持っていた。それはキリスト教の信仰の立場から言えば見当外れということなのかもしれません。しかし、神様はそれを良しとして、用いられたのです。婦人たちも弟子たちも、イエス様の復活の証人として立てられるために生かされたのです。私共も同じです。私共の不徹底な信仰の歩みも、見当違いの愛も、神様は受け入れてくださり、用いてくださる。それが「主は生きておられる」という証言につながるようにと導いてくださるのです。
 この一週もまた、主は生きておられるとの証言を告げる者として、それぞれの所で歩んでまいりましょう。

[2015年11月15日]

メッセージ へもどる。