富山鹿島町教会

礼拝説教

「インマヌエルの預言」
イザヤ書 7章1~17節
マタイによる福音書 1章21~23節

小堀 康彦牧師

1.アドベントを迎えて
 今日からアドベントに入りました。玄関にはクリスマス・リースが飾られ、アドベント・クランツは一本目のローソクに火が灯されました。クリスマスまであと一ヶ月ほどになりました。今週の土曜日には、富山刑務所のクリスマスがあり、北陸学院大学同窓会富山支部のクリスマスがあります。もうそんな時期なのかと思いますが、クリスマス・シーズンに入っていくことになります。
 このアドベントの期間、私共は救い主の到来を待ち望んだ神の民イスラエルの歩みを思い起こすと共に、主が再び来たり給うを待ち望む信仰を新たにする。そのために教会はクリスマスの前、四回の主の日を含む期間をアドベント、日本語では待降節と訳しておりますが、この期間を定めたのです。日本人の感覚ですと、イエス様が生まれたことを記念するクリスマスだけを祝えば良いではないかと思うでしょう。しかし、そうではないのです。それは、イエス様の誕生という出来事が二千年前にユダヤのベツレヘムという所で突然起きたのではなくて、前がある。旧約聖書に記されている長い長い神様の救いの歴史があって、その救いの御業の成就としてイエス様は誕生された。イエス様は十字架にお架かりになり、三日目に御復活され、天に昇られたけれども、今も聖霊として私共と共におられ、そしてやがて時が来れば再び来られる。そのような壮大な神様の救いの歴史の中でクリスマスの出来事を捉え、また私共も今、その壮大な神様の救いの歴史の中に生かされていることを覚える。そういうあり方でクリスマスを喜び祝うのです。

2.神様の救いの御業の連続性
 今年のアドベントは、救い主の誕生を預言している旧約聖書のイザヤ書から御言葉を受けてまいります。その最初、今朝はインマヌエル預言を見ていきます。
 このインマヌエル預言と言いますのは、先程お読みしましたマタイによる福音書1章において、イエス様が聖霊によってマリアの胎に宿り、誕生したらイエスと名付けよと、ヨセフが夢の中で天使に告げられた。この救い主であるイエス様の誕生は、預言者イザヤの預言、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」の成就であるとマタイによる福音書が告げた。これによって、イエス様の誕生というものが、イエス様によってもたらされた救いの御業が、旧約聖書において告げられていた神様の救いの御業の成就であるということを、マタイによる福音書ははっきり示したわけです。そしてそれは、キリストの教会が誕生した時からの、イエス様に対しての信仰内容だったのです。この歴史を貫く、一筋の神様の救いの御業。この歴史の連続性。これは、私共にとって、キリスト教会にとって、とても大切なことなのです。私共は今、こうして主の日にイエス様を我が主、我が神と拝み、礼拝しています。このことは、ある日ある人がこうしようと考えて始めたことではないのです。何千年にも及ぶ、否、天地創造以来の神様の救いの歴史があって、その連続性の中で礼拝を守っている。そして、この歴史はイエス様が再び来たり給うまで続いていく。そういう壮大な神様の救いの御業、救いの歴史の中に、私共は今という時を生かされ、このように礼拝を守っているということなのです。
 私共の教会の歩みは、130余年前にトマス・ウィンという宣教師によって福音を伝えられたことに始まるわけですが、当然その前があるのです。トマス・ウィンはアメリカの長老教会の宣教師でした。そのアメリカの長老教会は、イギリス・スコットランドの長老教会がアメリカに渡ったものです。そのような歴史を辿っていけば、使徒たちにまで遡ることが出来る。この信仰の連続性は、洗礼と聖餐、聖書と信仰告白によって確保されています。使徒以来の信仰を告白し、使徒以来の聖書によって信仰を養われ、使徒以来の洗礼を施し、使徒以来の聖餐に与っている。そしてそれは、イエス様が再び来られるまで続いていくのです。私共の信仰は、ある宗教的な天才によって生み出されたようなものではなく、天地を造られた唯一人の神様の御心によって与えられたものだからです。そして、神様は神の民の歴史の中で、その御心を示され続けてきたし、今も示し続けておられるのです。

3.インマヌエル預言が与えられた時代
 さて、イザヤによって告げられたインマヌエル預言でありますが、これは今朝与えられておりますイザヤ書7章14節bにしるされております。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」この預言がどのような状況の中で告げられたのかを見てみましょう。1~2節「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」とあります。この預言が語られた状況は、かなりはっきりと年代を特定することが出来ます。多くの学者たちは紀元前734年頃と推定しています。
 旧約の歴史の中で大きな出来事を挙げよと言われれば、出エジプトの出来事とバビロン捕囚を挙げることが出来るでしょう。出エジプトの出来事は、神の民イスラエルの出発の時と言って良いでしょう。もちろん、アブラハムにまで遡ることも出来ますが、神の民というまとまりのある形を持ったイスラエルの出発は、出エジプトの時と考えて良い。ここでイスラエルは十戒をいただき、神様と契約した民として歩み出したわけです。そして、カナンの地に定着し、国を建てる。その最盛期がダビデ王の時代です。紀元前1000年頃。しかし、この良い時代は長くは続かず、ダビデの子ソロモンが死にますと、国は北イスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいました。紀元前922年のことです。それから、この二つの王国はダビデ・ソロモンの時代の繁栄を再び手に入れることは出来ず、バビロン捕囚へと転げ落ちていくわけです。まず、北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅びます。紀元前722年です。そして、南ユダ王国がそれから約150年程してバビロニア帝国によって滅びます。それがバビロン捕囚です。
 このインマヌエル預言が為された頃、メソポタミアにアッシリアという巨大国家が誕生します。アッシリアは勢力を伸ばし、北イスラエル王国、南ユダ王国を圧迫していきます。そういう中で、北イスラエル王国(=エフライム)は北の隣国アラム(=シリア)と反アッシリア同盟を結び、南ユダ王国もこれに加わるようにと誘うのですが、アハズ王はこれを受け入れません。そこで、北イスラエル王国(=エフライム)とアラム(=シリア)は南ユダ王国を武力によって脅して、自分たちと行動を共にするように迫るわけです。これが、シリア・エフライム戦争と呼ばれるものです。この時、南ユダ王国のアハズ王は、何とアッシリアに援軍を求めるのです。アッシリアは、ユダから助けを求められたという大義名分を得て大軍を送ります。そして、これから二年後、シリアの都ダマスコはアッシリアによって滅ぼされます。そして、その十年後に北イスラエル王国も滅ぼされるのです。南ユダ王国は残りました。しかし、アッシリアの支配の下で何とか命運を保ったというだけのことです。

4.落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。
 イザヤ書に戻りましょう。北イスラエル王国とシリアが同盟して、エルサレムに攻めて来る。その情報が届いて、アハズ王を始めエルサレムの人々は動揺します。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」そうだろうと思います。
 その時、主がイザヤに命じるのです。3~4節「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」シェアル・ヤシュブというイザヤの息子の名前は、「残りの者は帰って来る」という意味です。神様は、この名前の息子を連れてアハズ王に会って、神様の守りがあるから大丈夫だと言え、そうイザヤに命じたのです。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」と告げよと言われるのです。何故か。神様が共におられ、神様が戦ってくださるからです。あの出エジプトの時がそうでした。前は海、後ろはエジプト軍。もう絶体絶命という時に、モーセを通して神様はこう告げられました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。…主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」(出エジプト記14章13~14節)あの出エジプトの時に為された海の奇跡、あの時モーセを通してイスラエルに告げられたのと同じ言葉を、アハズ王に告げるようにと神様はイザヤに命じられたのです。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」神様があの時エジプト軍と戦ってくれたように、今、御自らユダに代わって戦ってくださる。だから、恐れるな、静かにしていなさい、落ち着いていなさいと告げたのです。

5.信じなければ、あなたがたは確かにされない
 更にこう告げます。8~9節「アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)エフライムの頭はサマリア、サマリアの頭はレマルヤの子。」この後には、隠されていますが、こういう言葉を意味していたと思います。「ユダの頭はエルサレム、エルサレムの頭はダビデの子(=アハズ)、そしてダビデの子の頭は主なる神である。」主なる神様が頭としておられるのだから、何を恐れることがあろう。そう告げたのです。そして「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」口語訳では「もしあなたがたが信じないならば、立つことはできない。」と告げられました。神様は、目に見える軍勢に恐れ怯えているアハズ王に向かって、わたしがいる、わたしを信ぜよ、わたしを信じれば神の民は立ち続ける。しかし、わたしを信じなければ立ち続けることは出来ないと告げたのです。
 神の民は、ただ神様によって立てられる所に意味があります。自らの力によって、自らの知恵によって立とうとするならば、それはただの普通の国です。神の民ではない。神の民というものは、どう見ても力がないのに、どう見ても倒れるのが当たり前なのに、それにもかかわらず倒れない。そのことによって、主が共におられること、共におられる神様の力と真実とを証しするのです。そのために召され、立てられている民。それが神の民なのです。何時の時代でも、神の民は弱く、小さいのです。しかし、決して倒れないのです。神様が共にいてくださるからです。私共は、そのような者として今、ここに立っているのです。

6.何としても信じる者にさせたい神様の思い
 主は更にアハズ王に向かってこう言われます。11節「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しるしを求めよ。これはまことに異例なことです。イエス様が荒れ野においてサタンの誘惑を受けた時、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言われた時、イエス様は「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」と答えられました(マタイによる福音書4章6~7節)。このイエス様の言葉は申命記6章16節にある言葉です。アハズ王は、この申命記の言葉をもって答えるのです。12節「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」アハズ王は信仰深く答えたように見えます。しかし、そうではないのです。神様が「しるしを求めよ。」と言われたのは、そのしるしをもってアハズ王に、神様が共におられるから大丈夫だという信仰を回復させるためだったのです。しかし、アハズ王はそれを断りました。それは、「わたしは神様なんて信じない。必要としない。この期に及んで、神様なんて何の意味がある。」そういう頑なな思いだったのです。ですから、13節「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。」とイザヤを通して神様は告げるのです。
 そして、14節「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」となります。おとめが身ごもるはずがない。しかし、神様がそれを為す。それによって、インマヌエル、神様が共におられるということを知るようになるというのです。このインマヌエル預言は実に、「神様なんて頼らない、そんなものは必要ない。自分の力で、自分の知恵で何とかする。」そう思っているアハズ王に、何としても神様を信じ、神様とともに歩む道を進ませようとされた、神様からの「しるし」だったのです。
 実に、イエス様がおとめマリアから生まれたというクリスマスの出来事は、まさにこの神様の御心の成就でした。神様なんて信じない。神様なんて必要ない。自分の力、自分の知恵だけで生きていける、生きていくのだ。そう思っている私共に対して、そうではない。わたしが共にいる。わたしと共に生きよ。そう私共を招いてくださる神様の愛、神様の招きが出来事として現れた「しるし」なのです。イエス様の誕生とは、この不信仰な者をもなお招き、救い、共に生きようとしてくださる神の愛の「しるし」なのです。

7.滅びることなき神の国
 イエス様がインマヌエルの預言の成就としてお生まれになったということは、私共がどんな状況の中に生きていようと、神様が「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。わたしがいる。わたしがあなたのために、あなたに代わって戦う。だから大丈夫。あなたはわたしを信じなさい。そうすれば、倒れることはない。立ち続けることが出来る。」そう語ってくださっているということなのです。代々のキリスト者たちは、このインマヌエルの恵みの中に生き続けてきました。「主、我らと共にいます」この恵みの事実。それを自らの生涯を通して証しする者として、立てられ召された者として生きたのです。
 16節で「その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。」と神様は告げられました。確かにシリアはこの2年後に、北イスラエル王国はこれから12年後に滅びました。しかし、アッシリアもまた、バビロンによって滅び、バビロンもペルシャによって、ペルシャはマケドニアによって、マケドニアもローマによって滅びたのです。地上の王国は必ず滅びる。しかし、決して滅びない方がおられる。その方こそ、インマヌエルの恵みを与え給う、主なる神様です。
 このアドベントの時、私共はこの方によってもたらされる神の国の完成、イエス様の再臨の日を目指して、インマヌエル、「神我らと共にいます」との救いの現実を信じて、この地上の歩みを為していくのです。

[2015年11月29日]

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