富山鹿島町教会

礼拝説教

「悔い改めよ。天の国は近づいた」
イザヤ書 40章1〜5節
マタイによる福音書 3章1〜6節

小堀 康彦牧師

1.洗礼者ヨハネが記される意味
 聖書には4つの福音書があります。福音書というのはイエス様の言葉、為された業を記し、イエス様とは誰なのか、イエス様の救いとはどういうものなのかを示しているものです。この4つの福音書には、イエス様以外の人物が語ったこと、為したことが共通して記されております。それが誰かと申しますと、洗礼者ヨハネです。ルカによる福音書では、イエス様の誕生の出来事を記すに先立って、洗礼者ヨハネの誕生の次第が記されております。高齢になった祭司ザカリアとその妻エリサベトとの間に洗礼者ヨハネが生まれたことが、ルカによる福音書の第1章に記されています。マタイによる福音書にはそこまで記されておりませんが、イエス様が救い主として活動を始められるのは4章17節からですけれど、それに先立って洗礼者ヨハネの活動について記され、イエス様がこのヨハネから洗礼を受けたことが記されております。マルコによる福音書もヨハネによる福音書も同じように、洗礼者ヨハネの活動とイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。
 何故、福音書はイエス様に先立つ洗礼者ヨハネから語り始めたのでしょう。洗礼者ヨハネのことをどうしても記さなければならなかった理由とは何なのでしょうか。
 一つには、イエス様が活動を始められた時、全ユダヤを巻き込む程の大きなうねりのような運動として、洗礼者ヨハネの活動があったということです。聖書が記された時代とほぼ同じ時代に書かれましたヨセフスという人が記した『ユダヤ古代誌』という本があります。当時のユダヤの状況を知る第一級の史料ですが、この中にも洗礼者ヨハネの活動についてかなり丁寧に記されています。洗礼者ヨハネの活動は、当時の人々の誰もが知っている、誰も無視出来ない、大きな影響を持つ運動でした。そして、イエス様もこの洗礼者ヨハネの活動と無縁ではなかったのです。何故なら、イエス様御自身がこの洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったからです。そしてまた、イエス様の弟子の中にも洗礼者ヨハネの弟子がいたと考えられています。多分、イエス様は、御自分が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを公にされていたのだと思います。普通、洗礼を授けたヨハネと洗礼を受けたイエス様を考えれば、洗礼を授けた洗礼者ヨハネが先生・師匠、そしてイエス様が弟子ということになるでしょう。しかし、そうではない。イエス様がメシア、救い主であって、洗礼者ヨハネはメシアのために道を備える者、まことの王の到来を告げる先触れであるということを示す必要があったのです。
 そして第二に、その洗礼者ヨハネとイエス様との関係を示すことによって、イエス様も洗礼者ヨハネも旧約において預言されていた者であるということをはっきりさせるためでした。救い主が来る時には、それを知らせる者があらかじめ神様によって遣わされると預言されている。その先に遣わされる者というのが洗礼者ヨハネであり、その後に来られたイエス様こそメシア、救い主であるということを示すためでありました。洗礼者ヨハネもイエス様も、その時たまたま現れたのではなくて、旧約の預言の成就として神様から遣わされた者なのだというのが、4つの福音書が告げていることなのです。洗礼者ヨハネのことは誰もが知っていました。また、イエス様のことも福音書を読む人は当然知っていた。この二人を旧約の預言に基づいて位置付ける。この二人の関係を旧約の預言に基づいてはっきりさせる。そうすることによって、イエス様が誰であるかということを告げる。それが、洗礼者ヨハネのことが4つの福音書すべてに記されている理由なのでしょう。

2.荒れ野で叫ぶ者の声
 ここで、洗礼者ヨハネを指し示す旧約の預言として、3節に「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」が引用されております。これはイザヤ書40章3節の引用なのですが、この引用はマタイによる福音書だけではなくて、他の3つの福音書すべてにおいて引用されております。このことは、洗礼者ヨハネと言えばイザヤ書40章3節に預言されている荒野の声だという理解が、キリストの教会に定着していたということを意味しているのでしょう。
 では、このイザヤ書40章3節はどういう御言葉なのかということですが、そもそもこのイザヤ書40章というのは、直接的にはバビロン捕囚からの解放を預言しているものなのです。しかし、このイザヤ書の預言をバビロン捕囚からの解放の預言という点からだけ読もうとすると、この福音書で引用されている意味が分かりません。イザヤ書の最近の注解書のほとんどは文献学としてイザヤ書を扱いますので、バビロン捕囚からの解放しかイザヤ書は語っていないと読むのです。しかし、そうではないのです。イザヤ書に限らず旧約の預言というものは、すぐに起きるであろうバビロン捕囚からの解放という出来事を指し示すだけではなくて、救い主の到来、神の国の完成という長い射程をもって、一連の神様の救いの御業を重ね合わせるようにして預言している。そのように読まなければならないのです。神様がその全能の御腕をもって、神の民をバビロン捕囚から解放する。そして、まことの王としてメシアを遣わす。更に、終末における神の国の完成。それらを重ね合わせて預言している。どれか一つではないのです。そう読まなければ、私共が旧約を読む意味はありません。バビロン捕囚からの解放は紀元前6世紀に起きたことですから、もしバビロン捕囚からの解放の預言だけをしているのなら、それは既に2500年前に成就してしまったわけですから、現代の日本に住む私共には関係ない。そういうことになるでしょう。しかし、そうではないのです。
イザヤ書40章1〜2節には「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」とあります。神様の御心に従わず、神様の目に悪とされることを行い続けたユダ王国。神様はこれを裁き、バビロン捕囚という苦難を与えられました。しかし、今やその苦役の時は満ちた。咎は報われた。罪に対する報いは既に受けた。もう神様の刑罰としての年限は終わった。赦された。だから、神様は救いの御手を伸ばし、バビロン捕囚からの解放を与える。それがイザヤ書40章が直接的に預言していることです。しかし、このイザヤの預言はそれだけを告げているのではない。すべての民の罪、その裁きとしての死、それから解放してくださる救い主による救いの御業、それについても預言している。そう教会は受け止めてきたのです。
 ここで引用されているイザヤ書40章3節が告げる「主の道」というは、王様が戦いに勝利してその勝利を祝って凱旋パレードをする道です。古代において、決定的に戦争に勝利すると凱旋パレードをする道路を造り、王様と兵士たちがそこをパレードし、その道の両脇を群衆が埋め尽くしたのです。この道は、道幅が何十メートルもあるまっすぐな道でした。私共はあまりピンとこないかもしれませんが、遺跡としてある凱旋門というのは、この凱旋パレードのために造られた門なのです。この神様の決定的な勝利としてバビロン捕囚からの解放があり、更にまことの救い主であるイエス・キリストによる死と罪からの解放があるのです。洗礼者ヨハネは、その凱旋パレードの先触れとして王の到来を告げる「荒れ野で叫ぶ声」なのだと、すべての福音書は告げているのです。
 洗礼者ヨハネについて、4節ではこう記されています。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」この姿は普通ではありません。昔の人はみんなこんな格好をしていた、そんなことはありません。これは特別な格好なのです。そしてこの格好は、旧約に馴染んでいる人にとっては、明らかに旧約のある人と同じ姿だったのです。それはエリヤです。列王記下1章8節に、エリヤの姿がこう記されています。「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました。」旧約における力ある預言者の代表エリヤです。そして、このエリヤが救い主の到来の前に来ると旧約においては預言されていたのです。マラキ書3章23節「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」とある通りです。
 まことの王、まことの救い主が来る前に遣わされるエリヤこそ、この洗礼者ヨハネなのだと告げているのです。そして、エリヤが来たのなら、メシアは誰か。それがイエス様なのだと、福音書は語っているのです。

3.まことの救い主を指し示す者@ 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
 そして、洗礼者ヨハネの活動は、その告げられている内容、行われている事柄、そのどちらもイエス様によって与えられるまことの救いを指し示していました。
 まず、洗礼者ヨハネが宣べ伝えたことですが、それは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」でした。この言葉は、イエス様が4章17節において宣べ伝えた言葉と全く同じです。洗礼者ヨハネは、まさにイエス様の先触れとして宣べ伝えたのです。
 まず、「悔い改めよ」です。これは「反省せよ」ということと似て非なるものです。私共は「反省」は分かります。あれが悪かった、これが悪かったと、具体的な行為を悪かったと認めて、もうこんなことはしないようにしようと心に思う。これが反省です。ある人が、これは洗濯に例えるならば、つまみ洗いみたいなものだと言いました。しかし、「悔い改め」は全く違う。丸洗いだというのです。ここが汚れている、あそこが汚れているではない。もう私共の存在の全体が罪に汚れている。だから、丸洗いしなければどうにもならないのです。自分の存在そのものが神様に敵対している。神様を自分の人生の主人とせずに、自分の人生の主人は自分だと思っている。にもかかわらず、自分には少しの欠けや悪い所はあるけれど、本当はいい奴だと思っている。それを神様の御前に全く言い逃れが出来ない罪人として認め、赦しを求める。それが「悔い改め」です。反省するのに神様は要りません。しかし、悔い改めは神様の御前で為されるものなのです。反省は誰でも出来ます。しかし、悔い改めは簡単ではありません。自分のプライド、自分の頼りとすること、自分の喜び、希望、そのすべてを捨てるのです。そして、神様こそ私の命、私の喜び、私の希望、私の主人とするということです。
 次に、「天の国は近づいた」です。天の国というのは、神の国と同じです。マタイは「天の国」と言い、ルカは「神の国」と言います。マタイは「神」という言葉を使うことは畏れ多いとして、神という言葉の代わりに、神様がおられる「天」という言葉を使ったのでしょう。内容は全く同じです。神様がまことの王として支配される、まことの王として来られる。神様の御支配されるその日は近いと告げたのです。この時洗礼者ヨハネは、自分の後にイエス様が来ることを知っていたわけではありません。イエス様が自分の所に洗礼を受けに来られて初めて分かったことです。しかし彼は、まことの王の先に遣わされた者としての自覚を持ち、このことを告げたのです。ただ、イエス様がこの「天の国は近づいた」と告げた時、その意味は「神の国はわたしと共に来た、ここに来た」という意味で語られたのに対して、洗礼者ヨハネが語ったのはそこまでの意味はありません。あくまで、自分の後に来る方によってもたらされる「天の国」を指し示していただけです。洗礼者ヨハネはどこまでも、まことの救い主であるイエス様を指し示す者であり、その意味では旧約最後の預言者と言っても良いだろうと思います。イエス様によってもたらされる「天の国」、神様の御支配、全き罪の赦しというものを指し示したのです。そして、それに備えて「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と告げたということなのでしょう。

4.まことの救い主を指し示す者A 洗礼
 洗礼者ヨハネの活動は、ユダヤ全土にセンセーションを巻き起こしました。おびただしい人々がヨハネのもとに来たのです。そして、彼から洗礼を受けました。洗礼者ヨハネが行った「洗礼」という業も、イエス様によってキリストの教会に受け継がれました。しかし、形は同じでも、その内容は違っています。洗礼者ヨハネはあくまで、イエス様による救いを指し示すにとどまっていたからです。それは当たり前のことなのであって、この時はまだ、イエス様の十字架も復活もありませんでしたから、全き救いのための恵みの手段としての洗礼というものにはなりようがありませんでした。しかしその形は、自らの罪を告白し洗礼を受けるというもので、後にキリストの教会で行われる、私共がそれに与った洗礼ととても似たものでした。
 ただ、この洗礼と私共の洗礼と決定的に違うのは、父・子・聖霊なる三位一体の神様としての信仰告白というものが欠けているということ、父と子と聖霊の御名による洗礼ではなかったということです。それは、このヨハネの洗礼というものが、イエス様の救いを指し示すものではありましたが、救いそのものに与るものではなかったということです。洗礼者ヨハネはあくまでも、イエス様によってもたらされる全き救いを指し示し、そのために道備えをする、「荒れ野で叫ぶ者の声」としての役割を担う者だったからです。このことについては、来週もう少し丁寧に話そうと思います。

5.洗礼者ヨハネに続く者
 代々のキリストの教会は、この洗礼者ヨハネをとても大切にしてきました。旧約における最後の預言者であったからという理由もあるでしょう。しかし、それだけではないと思います。それは、この洗礼者ヨハネの姿に、自分たちの姿を重ね合わせてきたからなのだろうと思います。イエス様の救いを指し示す者、つまり「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と告げる者、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と告げる者、洗礼を授ける者として、自分たちはある。そう受け止めてきたからなのだと思います。イエス様は来られました。天の国はもう来ています。しかし、まだ完成されてはいません。それが完成されるのは、イエス様が再び来られる時です。代々の教会は「その日は近づいています。だから、悔い改めて、イエス様を自分の人生の主人としなさい。富や名声や目に見えるやがて失われるものを頼りとせず、神様を愛し、神様を信頼し、神様に従う者となりなさい。ここにまことの救いがある。ここに来なさい。」そう告げてきた。洗礼者ヨハネが主イエス・キリストを指し示したように、代々のキリストの教会は、やがて来られる再臨のイエス様を待ち望みつつ、そのお方によって完成される天の国を指し示し、そこに人々を招く者として立ち続けてきたのです。
 先週の家庭集会の中で、「健康第一」「健康が一番」と言うのは止めましょうと申しました。私共は何気なくそう言ってしまいます。しかし、健康は第一ではないでしょう。健康は大切です。でも第一は神様であり、神の国であり、信仰でしょう。「健康第二」「健康が二番」そう言いましょうと申しました。悔い改めて、天の国が近いことを知った私共にとって、健康は第二のことです。何故なら、私共の健康はどんなに頑張ってもやがては失われていくのです。例外はありません。誰もがそうなる。しかし、それを失っても、失われないものがある。それが、天の国における私共の救いの完成でありましょう。私共はそれを目指して歩んでいるのです。この一週も、それを指し示す者として歩んでいきたい。そう心から願うのであります。

[2016年1月31日]

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