富山鹿島町教会

礼拝説教

「主をほめたたえる交わり」
詩編 102編19〜23節
エフェソの信徒への手紙 5章6〜20節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は礼拝後に2016年度の定期教会総会が開かれます。この総会で、教会の2016年度の宣教計画が決められることになります。その今年の歩みを導く教会聖句は、エフェソの信徒への手紙5章18c〜19節「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」です。四月の第一の主の日から、この御言葉が週報の表紙に記されておりますことに気付かれていたでしょうか。今朝は、この今年の教会聖句から御言葉を受けて参りたいと思います。

2.文脈の中で
 この教会聖句は、イエス様の救いに与った者はどう生きるのか、どういう存在になっているのか、どういう交わり・教会を形作っていくのか、そのことを語る中で告げられている聖句なのです。この御言葉が、どのような文脈の中で語られているのかをまず見てみましょう。
 小見出しを見ますと、3章の14節からのところに「キリストの愛を知る」とあり、4章1節は「キリストの体は一つ」、4章17節「古い生き方を捨てる」、4章25節「新しい生き方」と続き、5章6節からは「光の子として生きる」となっていて、与えられております御言葉はここに記されているわけです。更に、5章21節からは「妻と夫」、6章1節「親と子」、6章5節「奴隷と主人」というようになっています。
 つまり、キリストによって救われた者は、何よりもキリストの愛を知ったのだ。そして、キリストの体である教会に入れられ、キリストと結び合わされた。だから、古い生き方を捨てて、新しい生き方をしよう。その新しい生き方とは、光の子として生きるということなのだ。そして、光の子とされている私共の歩みを具体的に語る中で、「霊に満たされて、つまり聖霊の導きの中で語り合い、主をほめたたえるのだ」と告げているわけです。そして、それに続いて更に具体的に、妻と夫において、親と子において、奴隷と主人においてというように、当時のキリスト者が置かれていた社会的状況を考えて、このようにしなさい、と勧めているのです。

3.光となっている私
 この文脈の中で大切なことは、イエス様の救いに与っているということが、私共がどのように生きるのかということの大前提であるということです。このイエス様との関わり無しに、このように生きましょうというようなことは出て来ないのです。それは今朝の御言葉で言えば、5章8節「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」とあります。私共は「以前には暗闇でした」と告げられています。この暗闇というのは、まことの光であるイエス様を知らず、それ故、自分が何者なのか、何を目指して生きるのか、何も知らない者だったということです。罪を罪として認識することもなく、自分の欲に引きずられ、目に見える富や名誉に心を奪われ、神様の御心など考えたこともなかった。それが、私共が暗闇だったということでしょう。しかし、今はそうではない。今は光となっていると言うのです。光のような者になっているというのではなく、光になるでしょうでもなく、「光となっている」と言い切っています。私共はこのような言葉に出会うと、少々戸惑いを覚えるかもしれません。「いえいえ、自分はそんな素晴らしい者ではありません。」そんな風に謙遜すると言いますか、とてもこの言葉に対して「はい、その通りです。」とは言えない、そのような思いを抱くのではないでしょうか。確かに私共は、愛において豊かで、誰に対しても優しくて、親切で、賢くて、まことに光そのものですなどとはとても言えない者です。しかし私共は、これが聖書の言葉、神の言葉であることを忘れてはなりません。私共が自分をどのような者として見ているのか、受け止めているのか、そういうことではないのです。私共が自分自身についてどのような者だと考えようと、私共は光なのです。光の子とされているのです。神様がその様に私共を見ているし、取り扱ってくださっているということなのです。

4.主に結ばれて
 聖書は、立派なキリスト者、次の時代に名を残すようなキリスト者に対してだけ、「光となっている」と言っているのではないのです。すべてのキリスト者は光となっていると告げているのです。その「光となっている」根拠はどこにあるかと言えば、「主に結ばれている」ということです。私共の性格が良いとか、人格者であるとか、そういうことではないのです。私共はイエス様を信じ、イエス様を愛し、イエス様に従う者となっている。それは、まことの光であるイエス様と結ばれたということ、まことの光であるイエス様と一つにされたということなのです。だから私共は、光となっているのです。イエス様と一つにされていないならば、イエス様と結ばれていないのならば、私共の中に光となり得る要素などどこにもありません。しかしイエス様に結ばれた。イエス様が十字架によって私共の一切の罪の贖いとなってくださり、復活されて永遠のいのちへの道を拓いてくださった。このイエス様の救いの御業がすべて私共のためであり、私共はあの十字架のイエス様と一つにされて罪に死に、復活されたイエス様と一つに結ばれて永遠の命に与った者として生きているのです。
 これが、イエス様の救いに与ったということです。まことの光であるイエス様が私を包み、まことの光であるイエス様が私の中に宿ってくださった。だから、私共は自らの罪を知り、これと戦い、どうにかして神様の御心に適うように、神様を喜ばせる者になりたいと願うのでしょう。暗闇の中にいたときは、そんなことは思いもしなかった。私共は既に光となっているのです。光の子なのです。光の子になりましょうではないのです。既に光の子なのです。もちろん、光の子として完全な者になっているわけではありません。終末において、イエス様が再び来られる時に完全な者とされるまで、待たねばなりません。それは、私という存在だけではなくて、この世界も同じです。この世界に完全に神様の愛が満ちるまで、悪があり、争いがあり、悲しみがある。それが私共の生きている世界の現実でしょう。世界をなお暗闇の力が覆っている状態です。しかしそのような中にあって、私共は光となっている。それは、まだ光がそこここに点在しているといった状況かもしれません。私共の光が世界を覆い尽くしているとはとても言えない。それが、私共が生かされている現実の状況なのでしょう。
 その暗闇の中で、私共は自らが光となっていることをしばしば忘れてしまうのです。自らが光となっていることを忘れるというのは、古い生き方に逆戻りしてしまうということです。まるで、神様にイエス様に愛されていないかのように、自分の力だけで生きているかのように、勘違いしてしまう。神様の守りと導きを信じられず、目の前の困難がいつまでも続くかのように思い、生きる力を失いそうになってしまう。しかし良いですか。イエス様は確かに十字架にお架かりになり、確かに復活されたのです。その復活のイエス様と一つにされた私共は、このイエス様の復活の光の中を生きる者とされているのです。

5.光の子として語る言葉
 だから、私共は光の子として歩むのです。9〜10節「−光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。−何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」光の子として歩む私共は、主に喜ばれることを為そうとする者とされているのです。
 その一つは、言葉です。語る言葉において、私共は光の子としての特性が表れるということです。4章25節「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」と言われています。4章29節「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」、5章3〜4節「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。」と言われている通りです。
 私共が何を語るのか、その言葉に私共が光の子とされている証しが表れるのです。言葉というものは、本当に難しいものです。人間関係の多くは、この言葉のやり取りの中でスムーズにいったり、ギクシャクしたりするものです。そんなつもりで言ったのではないのに誤解される。そういうことだってしょっちゅうあるでしょう。心無い言葉に傷付けられた経験が無いという人もいないでしょう。それは、この教会の中でも起きる。一体どうしたら良いのでしょうか。

6.霊に満たされて
 その問いに答えるように、「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」と聖書は告げているのです。
 「霊に満たされ」というのは、聖霊なる神様の導きの中でということです。私共の交わりの中心にあるのは主の日の礼拝ですが、この礼拝は、実に「霊に満たされ」て成立しているものです。聖霊の導きが無ければ、聖霊なる神様がここに臨在してくださらなければ、礼拝は成立しません。祈りも賛美も説教も成立しません。
 私共の教会では、礼拝前に奉仕者がオルガンの周りに集まって準備の祈りをします。その時、「皆さんもその場にあって備えてください。」とその日の礼拝司式者が申します。そこで何をするのか。「その場で備える」とは、何をするのでしょう。それは何よりも、この礼拝に聖霊なる神様の御臨在を願い、導きと御支配を願い求めるということです。私共が霊の満たしをどこで知り、どこで学ぶのか。それはこの主の日の礼拝においてなのです。だから、私共がこの主の日の礼拝にどのように臨むのかということがとても大切なのです。早く来た方は、聖書を開き、その日の聖書個所を読み、聖霊の導きの中で説き明かされる御言葉に期待し、心を神様に向ける。聖霊なる神様の御臨在を願い、求める。そして、神様の御前にあることを畏れ、喜びつつ、待つのです。ですから、礼拝の前におしゃべりをしているのは如何なものかということなのです。
 この礼拝において、私共の心は神様に向かいます。そこに生まれるのが祈りであり、賛美です。これは、私共が神様の御前に集い、神様に心が向いた時、自然に生じるものでしょう。もちろん、自然にと申しましても、聖霊なる神様の導きによってということであります。この賛美というものは、聖霊なる神様の導きの中で自ずと与えられるものなのです。ここで聖書が告げております「詩編と賛歌と霊的な歌」とは、礼拝の中で歌われていた歌のことです。この礼拝で歌われる歌をもって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさいと言うのです。それは、礼拝の心をもって互いに語り合いなさいということでしょう。そしてその語り合いは、主をほめたたえることへとつながっていくのです。それが、イエス様に救われ、光とされた者たちの交わりであり、教会の交わりというものなのです。

7.訪問聖餐にて
 クリスマス、イースター、そして夏の三回、私共の教会では訪問聖餐をします。限られた時間の中で、交わりを為し、聖餐に与ります。その中で私は、なるべくたくさんの讃美歌を共に歌うということを大切にしています。もちろん、病院や施設などでは声を小さくする配慮が必要ですが、自宅でなされる場合などは大きな声で賛美します。私共は色々な歌を歌いますが、この讃美歌というものは特別です。民謡や演歌を歌っても心が神様に向かうことはありません。しかし、讃美歌を歌いますと、心が神様に向いていきます。訪問聖餐の時に、その人の愛唱讃美歌を歌う中で、その人の心が神様に向かっていくのをはっきり知らされることが、しばしばあるのです。
 先日、ある方をお訪ねした時、讃美歌を歌いますと一緒に口ずさまれ、歌い終わると「そうなんだね。そういうことなんだ。ありがたいね。主よ感謝します。」と言われたのです。素敵なことだと思いました。今私たちは主の御前にある。一つの希望、一つの愛によって結ばれている。そのことを思いました。
 私共は大抵、自分のことを話します。しかし、それで終わってしまいますと、心が神様に向くことはありません。私共は自分のことを語るにしても、イエス様に生かされている自分、イエス様と共にある自分、イエス様に守られている自分を語るならば、そこに自ずと主をほめたたえるということが起きるでしょう。
 私共は、そのような主をほめたたえる交わりを形作る者として召し出されているということなのです。そして、そのような交わりは、暗闇の世にあって光として輝くのです。

8.熊本地震にて
 今、熊本地震の報道が連日為されています。被災者の方々のことを思いますと、心が痛みます。先週の火曜日、全国連合長老会の全国常置委員会において、被災教会支援献金を始めることが可決されました。
 熊本には、錦ヶ丘教会という九州連合長老会加盟の教会があります。この教会が最大震度だった益城町に一番近い教会です。パイプオルガンのパイプが散乱しました。被災された教会員や近所の方が教会に避難しているそうです。それでも、先週の17日の礼拝には、いつもの礼拝の半数以上の方が集われたそうです。以下のようなメールが、錦ヶ丘教会の川島牧師から届きました。

<朗読>
 皆さま
   錦ヶ丘教会の川島です。
 −−−以下割愛−−−

 私共は、この錦ヶ丘教会の方々に「今あなたがたのために祈っている群れがある」、そのことを知らせることによって励ましたいと思います。それが光の子とされた私共の交わりの一つのあり方だと思うからです。今日も余震が続く中、錦ヶ丘教会は礼拝を守っておられることでしょう。不安と恐れのただ中にあって、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌っているはずです。私共は「主を賛美するために民は創造された。」(詩編102編19節b)からです。
 「わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」(詩編121編1〜2節)私共も様々な課題があります。しかし、天地を造られた主のもとから私共の助けは来ます。その主を見上げて、互いに礼拝の心をもって語り合い、主をほめたたえつつ、この2016年度も歩んでまいりたいと心から願うのであります。 

[2016年4月24日]

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