富山鹿島町教会

ペンテコステ記念礼拝説教

「福音の波動」
詩編 19編2〜7節
テサロニケの信徒への手紙一 1章4〜8節

小堀 康彦牧師

1.ペンテコステの出来事
 今朝私共はペンテコステの記念礼拝を捧げています。イエス様は十字架にお架かりなって死んで、三日目に死人の中からよみがえり、四十日にわたってその復活の体を弟子たちに現され、天に昇られました。そしてその十日後、イエス様は約束通り、聖霊を弟子たちに降されました。このイエス様の弟子たちに聖霊が降った出来事を覚えて、私共は礼拝を守っているわけです。
 このペンテコステの出来事については、使徒言行録の2章に記されております。使徒言行録2章1〜4節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とあります。弟子たちが集まっていると、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえてきた。そして、炎のような舌が弟子たち一人一人の上に現れてとどまったと聖書は記します。しかし、これが一体どのような光景だったのか、想像することにもいささか困難を覚える記述です。「炎のような舌」どはどんなものなのか。それが「弟子たちの上にとどまった」とはどういうことなのか。文字通りの出来事として受け止めるには、私共には想像力が貧しすぎます。しかし、この記述については、風とか炎とか舌というものが、旧約以来の聖霊を指す象徴として用いられ、要するに聖霊が弟子たちに降ったということを告げているのだと考えて良いでしょう。
 大切なのは、そのことによって弟子たちの上に起きたことです。それは、弟子たちが様々な国の言葉で、あの十字架にお架かりになったイエス様こそ救い主、メシアなのだと宣べ伝えたということです。そして、このイエス様を信じ、悔い改めて洗礼を受けよと人々に告げたということです。この時から、イエス様の弟子たちは、イエス様の福音を宣べ伝えることになったのです。このペンテコステの出来事は、キリスト教会の伝道開始の時であり、イエス様の弟子たちの群れがキリストの体なる教会として建てられた日でありました。実に、この日洗礼を受けた者は三千人ほどであったと聖書は告げています。三千人もの人たちにどのように洗礼を授けたのだろうかと想像いたしますと、うるさいほどのざわつきとか、その時の熱気と申しましょうか、そのようなものを彷彿とさせられるのです。それは、まさに聖霊なる神様によって引き起こされた出来事でありました。
 しかし、使徒言行録が告げておりますことは、この聖霊なる神様の御業というものが、ペンテコステの日に起きただけではなくて、その日に始まって以来ずっと為され続けているということなのです。使徒言行録は、福音書がイエス様の言葉や業を記しているのに対して、聖霊なる神様の御業を記しています。それによりますならば、ペンテコステに始まった聖霊なる神様による福音伝道の御業は、使徒たちによって為され、更に使徒たちによって建てられたそれぞれの地域の教会により為され続けたということなのです。そして、それは今も為され続けている。私共は今朝ペンテコステの記念礼拝を捧げておりますが、私共がペンテコステを記念するということは、単に、昔々弟子たちに聖霊が注がれるという事があった、それを思い起こすということではないのです。そうではなくて、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに降った。弟子たちはイエス様の福音を宣べ伝え始めた。教会が建った。この聖霊なる神様の御業は、その時からずっと二千年の間継続され、そして今も継続中であるということなのです。そのことを覚えるのがペンテコステを記念するということなのです。

2.苦しみを受けても模範となるテサロニケの教会
 今朝与えられております御言葉、テサロニケの信徒への手紙一1章4〜8節は、使徒言行録が記しております、生まれたばかりの教会の姿を思い起こさせます。
 パウロはこう告げます。6節「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、」とあります。テサロニケの教会の人たちがキリスト者となった時、ひどい苦しみを受けたというのです。パウロたちがテサロニケの町で伝道した様子については、使徒言行録17章に記されております。パウロたちがテサロニケで伝道いたしますと、かなりの数の人たちがパウロたちの告げる福音を信じたのです。その多くはユダヤ人の会堂に集まっていた人たちでした。その結果何が起きたかと申しますと、使徒言行録17章5〜9節「しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人(パウロとシラスのことです)を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、「イエスという別の王がいる」と言っています。』これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。」とあります。こうして、パウロたちはテサロニケの町を離れなければならなくなったのです。そして、パウロたちは次のベレアという町で伝道しました。ところがそのベレアの町にも、テサロニケの町で暴動を起こしが人たちがやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こしたのです。パウロたちはベレアの町からも去らねばならなくなりました。このように、テサロニケの人々によってパウロたちは大変な目に遭うわけです。ということは、当然、テサロニケの町でイエス様の福音を受け入れた人々も、ヤソンという人、多分この人はテサロニケの町でイエス様を信じた人の中で中心的な人だったのだろうと思われますが、この人の家が襲撃されるほどですから、大変な嫌がらせ、妨害、迫害を受けた、そう考えて良いと思います。そして、パウロはその様子をも伝え聞いていたはずです。しかし、テサロニケの教会の人々は、イエス様に対する信仰を捨てることはなかったのです。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者とな」ったのです。それどころか、7節「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」と言うのです。マケドニア州というのは、ギリシャの北部。テサロニケはそのマケドニア州の都でした。そして、アカイア州というのは、アテネやコリントなどがあるギリシャの南部の州です。つまり、全ギリシャにおいて、テサロニケの教会は模範となる、手本となる、そういう教会になったというのです。

3.神様の救いのイメージ@ 波紋
 私共はここで、聖霊なる神様による救いの御業の筋道というものを見ることが出来るかと思います。それは、聖霊なる神様によってイエス様の福音に与った者、この場合パウロ・シラス・テモテといった伝道者ですが、彼らが福音をテサロニケにもたらす。そうすると、テサロニケにおいてイエス様の福音に与る者が起こされる。そして今度は、テサロニケの教会の人々が、イエス様の福音に与った者として証しを立てていく。このことが、8節で告げられている「主の言葉があなたがたの所から出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがの信仰が至るところで伝えられている」ということです。このように、聖霊なる神様による救いの御業は、ちょうど池の中に石を投げ込んだ時に起きる波紋のように、全世界へと広がっていく。それが、この二千年の間起き続けてきたことであり、今も起きていることなのです。そして、私共はこの波紋の最先端にいるのです。私共から次の人へ、次の時代へとイエス様の福音が伝えられて行くのです。

4.神様の救いのイメージA 模範・倣う者
 このイエス様の救いの伝播ということをもう一つのイメージで語ることも出来ます。それが、倣う者となるというイメージです。パウロは、イエス様の福音によって救われ、イエス様に倣う者となりました。そして、パウロは福音を告げる者となり、テサロニケにおいて伝道した。するとそこに、パウロたちに倣う者が起こされたのです。そして今度は、テサロニケの教会の人々が全ギリシャにおけるキリスト者の模範となり、手本となって、皆がこれに倣う者になっていく。イエス様に倣う者が起こされ、更にその人に倣う者が起こされ、次々にイエス様に倣う者が起こされ続けて、福音が伝えられ、救いが広げられていく。そういうイメージです。
 イエス様の福音に与る者は、イエス様に倣う者となるし、イエス様の福音を伝えた者に倣う者となるし、先にイエス様の救いに与った者に倣う者となるということです。この倣う者になるということから思わされるのは、言葉や行動を含めてその人に似た者になっていくということでしょう。これは、イエス様の福音による救いというものが、私共の生活や生き方・考え方・価値観といった、全人格的な変化をもたらす。全人格的な救いなのですから、これは当然のことなのです。パウロは5節で「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」と告げているのは、そういうことでしょう。福音が伝えられて行くのは、決して言葉だけではないのです。キリスト教信仰というものは、頭の中だけのことではないのですから当たり前です。
 ここには文化の問題も含まれてきます。私共は知らず知らずのうちに、日本人としての考え方、感じ方というものを身に付けています。当然のことです。しかし、イエス様の福音によって救われるということは、それにふさわしい人格を形作り、その人格による特有の文化もまた形成されていくということなのです。私共がイエス様の救いに与るということは、決して私の個人的な問題という所にはとどまらないのです。それは、私共が意識することがなくても、教会というキリスト者の群れが形成されていく中で、そのようなことが起きていくのです。キリスト教会にはキリスト教会特有の文化、雰囲気、空気のようなものが醸成されていくのです。今日は中学生が何人かこの礼拝に出ています。クリスマス・イースター・ペンテコステの礼拝には、中学生も出てもらうことにしています。それは、この礼拝の空気というものに触れて欲しいからです。ここには、礼拝においてしか経験することが出来ない空気が流れ、ここでしか聞くことの出来ない言葉が語られています。聖霊なる神様のお働きの中で、神様を畏れ、敬い、愛し、従う者たちによって造られる空気です。
 こう言っても良いでしょう。イエス様の福音というものは、それを信じる人を媒介として伝えられていく。そしてそれは、その人の言葉だけではなくて、その人の全存在を媒介として伝えられていく。それが聖霊なる神様の為さり方だということです。

5.本気で信じる所に生まれる喜び
 このように申しますと、「いや、私にはそんなことは出来ません。ちょっと無理です。」そう思う方もおられるでしょう。私自身、伝道者に成り立ての頃、パウロがその手紙の中で「わたしに倣う者になりなさい。」と何度も告げていますが、正直な所、「この言葉を説教するのは嫌だな。そんな風に自分には言えないな。この言葉を飛ばして説教しよう。」そう思っていたことを思い出します。皆さんも御承知のように、私はまことに欠けの多い人間です。その自分の欠けを見ていたのでは、どうしたって「私に倣いなさい。」などとは言えるはずがない。「私を見ないで、神様を、イエス様を見てください。」そう言いたくなります。しかし、パウロには欠けが無かったのでしょうか。そうではないでしょう。パウロとて、角のない円満な人格者と言えるような人ではありませんでした。しかし、「わたしに倣え。」と彼は言い切ったのです。それは、二つの点を見ていたからだと思います。一つは、イエス様の救いに与ったことをパウロは本気で信じている。イエス様の救いに与ったことを抜きに、自分はもう一日も生きられない者となっているということです。だから、パウロは迫害を受けても、伝道することをやめなかったのでしょう。テサロニケの教会の人々も同じでした。そして、もう一つは、そのことを何よりも喜んでいるということです。本気で信じ、喜んでいる。この二つの点において、パウロは自分に倣う者となりなさいと言い切ることが出来たのです。そのことに気付いた時、私もこの言葉に抵抗がなくなりました。私も本気で信じ、喜んでいるからです。
 この「本気で信じている」ということと「喜んでいる」ということは、切り離すことが出来ません。パウロもテサロニケの教会の人々も、イエス様の福音を本気で信じた。妨害、嫌がらせに遭っても、信仰を捨てることはなかった。それは救われたこと、イエス様の命に与り、新しい命に生き始めたことを喜んでいたからです。迫害、妨害、嫌がらせ。これはうれしいことではありません。嫌なことです。つらいことです。しかし、それがあっても、彼らの中から喜びは無くならなかったのです。イエス様と共に生きる。神の子、神の僕として生きる。この喜びは、何にも代えることが出来なかったのです。パウロはそれを、「聖霊による喜び」と言います。私共もまた、聖霊による喜びを与えられている。だから今日もこうしてここに集っているのでしょう。本気で信じている。だからこの喜びがある。
 そして、この本気の信仰と失われることのない喜びこそ、人々の模範となり、人々に説得力をもって伝えられていくものなのです。そこに喜びがなければ、福音は伝わりません。
 テサロニケの教会の人々が告げる主の言葉が、全ギリシャに響き渡ったとパウロは告げます。テサロニケの教会の人々の信仰の姿が、説得力をもって伝えられたということです。イエス様の福音は、聖霊なる神様のお働きの中で、それを信じた人々を造り変え、新しい命に生かし、何にも代え難い喜びを与えます。そして、その変えられた者が、全存在をもってイエス様の福音を伝えていく。伝える者にも、伝えられる者にも、喜びが与えられる。「聖霊による喜び」です。
 聖霊なる神様が与えてくださる喜びが、本気の信仰が、波のように周りの人々に伝わっていく。そのような神様の救いの御業が前進していく有り様を、当事者として目撃し、証言する者として私共は召されているのです。聖霊なる神様の御業は、私共の思いを超えて進んでいきます。苦しみの中でなお喜ぶことが出来る喜びこそ、すべての人が求めているものだからです。そして、この求め、この願いは、イエス様の福音によってしか与えられることはないからです。
 今朝、2500もの言語で、20億を超える人たちが、ペンテコステの祝いの礼拝を守っている。これが二千年の間聖霊なる神様が働き続け、今も働いている、一つの確かなしるしなのです。そして、私共のこの群れも、ここに集っている一人一人の存在も、この礼拝を守ることによって、そのしるしの一つとされているのです。主の言葉は今日も全世界に響き渡っているのです。

[2016年5月15日]

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