富山鹿島町教会

礼拝説教

「祈りの交わり」
詩編 62編2〜13節
テサロニケの信徒への手紙一 3章6〜13節

小堀 康彦牧師

1.テサロニケの信徒への手紙一が書かれた経緯
 テサロニケの信徒への手紙一を読み進めております。前回、苦難の中にあるテサロニケの教会の人々を励ますためにテモテが遣わされたということを見ました。本当はパウロ自身が行きたかったのです。でも行けませんでした。理由はよく分かりません。パウロたちがテサロニケの町で伝道すると、すぐにイエス様の福音を信じる者が起こされ、さあこれからという時に、ユダヤ人たちによって暴動を起こされて、テサロニケの町を離れなければならなくなったパウロたちでした。彼は、テサロニケの教会の人々のことが心配でならなかった。困難の中でしっかり信仰に立ち続けているかどうか、信仰が揺らいでいないかどうか、信仰を捨てる者が出ていないかどうか、心配でならなかったのです。パウロは、テサロニケの教会の一人一人の顔を思い浮かべて案じていたことでしょう。それで、テサロニケの教会の人々の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。
 そして、テモテが帰って来ました。テモテの報告は、パウロを大いに喜ばせました。それこそ飛び上がって喜ぶほどに喜んだのです。その喜びの中で、パウロはこの手紙を書いたのです。

2.伝道者の喜び
 その喜びは9節に記されています。「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」ここでパウロは「喜びにあふれている」「この大きな喜び」と言っています。パウロがどれほど喜んだかが想像出来ます。伝道者パウロの喜び。それは、自分が伝道したテサロニケの教会の人々が、しっかり信仰に立って歩んでいるということでした。逆に言いますと、伝道者パウロにとって何よりも悲しいことは、せっかくイエス様を信じたのに信仰を捨ててしまう、信仰から離れてしまう、そういう人が出てしまうということでした。それは、どの伝道者にも言えることです。伝道者は、一つの教会に生涯とどまるということはほとんどありません。もちろん、中には生涯一つの教会に仕えるという方もおられます。しかし、多くの場合、牧師は転任していきます。その伝道者が、自分が仕えた教会、自分が導いたキリスト者を忘れるなどということは決してありません。そして、伝道者にとって、自分が仕えた教会が、導いた信徒の人たちが、しっかり信仰に立って歩んでいるという知らせを聞く、このことほど嬉しいことはないのです。

3.キリスト者が励まし、励まされるとは
 7〜8節を見てみましょう。「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。」とあります。パウロがこの手紙を書いた時、多分コリントで伝道していた時だと考えられていますけれど、彼自身とても困難な歩みをしていました。しかし、それを忘れさせるほどの励ましを、この時パウロは受けたのです。パウロは、テモテをテサロニケの教会に送り、彼らを励ましました。ところが、テモテの報告を受けてテサロニケの教会の人たちを励まそうとした自分たちの方が、逆に励まされたというのです。それは、テモテの報告によって、テサロニケの教会の人々がしっかり信仰に立って歩んでいるということを知らされたからです。実にパウロたちは、この報告によって「主がまことに生きて働いておられる」ということを知らされたのです。パウロがテサロニケの教会の人々を励まそうとしたのも、まさに「今、生きて働き給う神様」を証しし、示すことによって、テサロニケの教会の人たちを励まそうとしたのでしょう。しかし逆に、テサロニケの教会の人々の歩みによってそのことを示されて、パウロたちは励まされ、大いに喜ぶこととなったのです。キリスト者は、励ますにしても励まされるにしても、この一つのこと、「主は生きておられる」ことをしっかり受け止める、或いはこのことを証しし、示すのです。自らの歩み、自らの存在をもってこのことを証しし、示すということなのです。この「主は生きておられる」ということをはっきり知ることによって、キリスト者は励まされるのです。

4.訪問聖餐にて
 私共の教会は今、年に三回ほど、教会に集えなくなった方々を訪ねて聖餐に与ります。このことがあまり十分に受け止められていないところがあるようですけれど、訪問聖餐というのものは、場合によっては牧師だけが訪ねることもありますし、古くからの信仰の仲間が一緒に行くこともあります。希望を言ってくだされば、そのように致します。訪ねる日も、時間帯も希望に合わせます。大切なことは、高齢になろうと、施設に入ろうと、天に召されるその日まで、イエス様と一つにされた者として歩むということです。聖餐は、それを支えるためのものです。教会には、主の羊を最後まで養う責任がありますし、その霊の養いの大切な手段が聖餐に与るということなのです。ですから、どうか遠慮しないでいただきたいのです。
 この訪問聖餐というのは、確かに訪ねる者はその人を信仰において励まし、慰めたいと思って行くわけですが、実際にはその反対のことがしばしば起きるのです。つまり、訪ねて行った私共が励まされて、慰めを受けるということです。それは、高齢になり体が弱くなっても、しっかり信仰に立ち、共に祈り、賛美を共にする時、主は確かに生きて働き、確かにこの方と共に主がおられるということを知らされるからです。実に、私共に与えられている交わりにおいては、励ます者が励まされ、励まされる者が励ます、そういうことが起きるのです。何故なら、私共を励ましてくださるのは、私共に信仰を与え、その歩みを守り、支え、導いてくださっている聖霊なる神様御自身だからです。私共が、しっかり信仰に立って歩んでいるならば、そのこと自体が、主が生きて働いておられることを証しし、信仰の友を慰め、励ますことになるのです。何か特別なことを言ったり、したりする以上に、しっかり信仰の歩みを為している、そのこと自体に、聖霊なる神様のお導きがはっきり現れるからです。

5.信仰と愛
 さて、テサロニケの教会から戻ったテモテがパウロに報告したのは、テサロニケの教会の人々の「信仰と愛について」でした。「信仰について」とは、テサロニケの教会の人々が、パウロが伝えたイエス様の十字架と復活の福音に立って、イエス様を愛し、信頼し、従っていることでした。苦難の中にあっても、「そんな信仰は捨ててしまえ。」と誘惑されても、捨てることなく、その信仰に立ち続けていることでした。そして、「愛について」とは、教会内の人々の交わりが、互いに支え合い、仕え合うものであったということであると同時に、教会外の人々に対しても、キリストの愛を証しする者として励んでいる様子の報告を受けたということでありました。
 実に、この「信仰と愛」によって、聖霊なる神様は自らの働きを私共に、そしてこの世界に示されるのです。この「信仰と愛」は分けることが出来ません。信仰はあるけれど愛が無い。それは信仰がおかしいのでしょう。また、信仰は無いけれど愛はある。それもあり得ません。そのような愛は、キリストの愛ではなくて、自分の愛、自分は愛しているつもりということなのでしょう。聖霊なる神様によって与えられる信仰と愛は、一つのことなのです。そもそも、信仰とは神様を、イエス様を愛することなのですから、信仰と愛が分裂することなどあり得ないのです。神様への愛としての「信仰」と隣人への「愛」。これはただ独りの聖霊なる神様によって与えられる、ひとつながりの賜物なのです。

6.一度来られた主イエスと、再び来られる主イエス様とによって、形作られていく愛
 テサロニケの教会の人々は、この信仰と愛において、実に立派な歩みをしておりました。それは1章7節に記されているように、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となる」ほどでありました。ところが、ここでパウロは、10節で「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。」と言います。テサロニケの教会の人々に、一体何が足りないと言うのでしょう。ここでパウロが言う「あなたがたの信仰に必要なもの」、パウロが「補いたい」と切に祈っているものとは何なのでしょうか。
 それは11節以下に記されている、パウロがテサロニケの教会の人々のために祈っている祈りを見れば分かります。12節「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。」とありますように、それは愛なのです。「お互いの愛とすべての人への愛」です。テサロニケの教会の人々は、全ギリシャのキリスト者の模範となるほどなのに、なお愛が足りないと言うのでしょうか。はっきり言えば、そうなのです。しかし、だからテサロニケの教会の人々は愛において不十分だ、ということではありません。ここでパウロが基準にしているのは、終末における愛の完成、私共が復活の命に与ってイエス様に似た者とされる、そこから見て、なお愛を豊かにされるようにということなのです。そのことは13節において「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」と言われていることから明らかです。「聖なる、非のうちどころのない者」となるのは、終末においてです。地上にあって、私共は皆、欠けがあるのです。人と人とを比べて大した者であったとしても、終末においてのイエス様に似た者とされる姿から見れば、まことに不十分な者でしかないのが私共なのです。
 ここで私共は、キリスト者が形作られていく筋道、キリスト者が成長させられていく筋道というものを知らされるのです。それは、過去において一度来られたイエス様と、将来再び来られるイエス様とによって、挟み込まれるようにして形作られていくということです。私共は、一度来られたイエス様の十字架と復活によって、一切の罪を赦され、神の子とされ、永遠の命に生きる者とされました。その救いの恵みに与った私共は、再び来られるイエス様に向かって歩む者とされたのです。私はここで、ろくろを回して茶碗などの器を作る場面をイメージすることが出来るのではないかと思います。器を作る職人は、こねた土をろくろの上にのせ、土に内側と外側から力を加えながら上の方に伸ばしていって、形を作ります。その際、内側と外側の力のバランスが悪いと、土は形を崩してグチャッとなってしまいます。私共はそれと同じように、既に来られたイエス様とやがて来られるイエス様に挟まれるようにして、キリスト者としての姿を整えられていくのです。一度来られたイエス様によって救われた私共です。そのことを感謝すると共に、再び来られるイエス様に向かって歩み出していく。その営みの中でキリスト者は形作られ、成長していくのです。

7.新しい祈りとしての感謝と願い
 そして、そのようなあり方は、祈りにおいて現れてきます。どういう祈りかと申しますと、感謝と願いです。今与えられている恵み、それは信仰が与えられているということであり、神の子とされているということであり、永遠の命に与る者とされているということです。そのことを感謝する。もちろん、それだけではなくて、この教会に集う者とされていること、家族が与えられていること、仕事が与えられていること等々、数え上げればきりがありません。まず、それらのことについて感謝をささげる。それが私共の日常の祈りの初めにある。この感謝のすべては、あのクリスマスに到来され、十字架にお架かりになり、復活された、イエス様によって与えられた恵みに対するものです。
 そして、それから願う。私共は一体何を願っているでしょうか。もし私共の願いが「家内安全、商売繁盛」というようなことにとどまっていたのでは、新しくされた者の祈りになっていません。イエス様によって新しくされた者は、終末へと目を向けます。そして、そこから見て、足らない所を補っていただくよう願い求めるのでしょう。イエス様のように愛し、イエス様のように仕える者となるようにと願い求めるのです。
 確かに、私共は地上にあっては、誰もイエス様のように非のうちどころのない者になどなれるはずがないでしょう。しかし、私共はそれを求めて歩む者とされたのです。それはパウロが、フィリピの信徒への手紙3章13〜14節において、「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる章を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と言っていることと同じです。ここでパウロのまなざしは、終末へと向いています。終末から見て、願い求めています。これは、私共が「主の祈り」において、「御心が天になるごとく、地にもなさせ給え。」と祈るように教えられていることと重なります。私共はイエス様に救われた者として、終末において完成される救いを知っています。それは、天を知っていると言っても良いのですけれど、そこから見る時に、自らの欠け、この世界の欠けというものを知らされるわけです。それに基づいて、願い求めるということなのです。
 パウロはここで、テサロニケの教会の人々のために感謝をささげると共に、愛が豊かに満ちあふれるようにと願い求めています。この感謝と願いは、自分のためだけにするのではありません。とりなしの祈りもまた、この感謝と願いによって為されるということなのです。そして、パウロがテサロニケの教会の人々のために願い求めている愛とは、12節にありますように、「お互いの愛」つまり教会の人々に対する愛、それと「すべての人への愛」つまり教会外の人々に対する愛です。この愛が豊かに満ちあふれるようにと願い求めているのです。
 私共も、この愛が豊かに満ちあふれるようにと願い求めたいと思います。自分の内に満ちあふれるようにということだけではなくて、この教会に集う一人一人の上に満ちあふれるように願い求めたいと思う。この祈りがお互いに為されていく所に、祈りの交わりとしてのキリストの教会が建ち上がっていくのです。

[2016年8月14日]

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