富山鹿島町教会

礼拝説教

「喜びと祈りと感謝をもって」
詩編 67編2〜8節
テサロニケの信徒への手紙 一 5章16〜22節

小堀 康彦牧師

1.愛唱聖句として
 今朝与えられております御言葉は、愛唱聖句を尋ねますと必ず入っている御言葉です。16〜18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」大変有名な御言葉です。居間などにこの言葉を書いて飾ってある家もあるでしょう。聖書の中で最も愛されている聖句の一つであることは間違いありません。しかし、どうして人はこの言葉に惹かれるのでしょうか。もし、この言葉が聖書の言葉でなかったなら、こんなに人々に覚えられ、心に留められる言葉となったかどうか。そもそも、「いつも喜んでいなさい。」と言われて、喜んでいられるものでしょうか。人生、そんなに良いことばかりじゃない。泣きたいこと、悲しくて心が折れそうな時だってある。腹が立つこともある。いつも喜んでなんていられない。それが正直な思いでしょう。しかし、聖書は告げるのです。「いつも喜んでいなさい。」そして、この言葉を大切な言葉として受け止めてきたのです。

2.キリスト・イエスにおける招きの言葉として
 ここで大切なのは「いつも」という点であることは明らかです。いつも喜んでなんていられない現実がある。それにもかかわらず、聖書は「いつも喜んでいなさい。」と命じるわけです。聖書は神の言葉ですから、「そんなこと言われても無理!!」そう言ってこの言葉を聞かなかったことにする、無視する。信仰が無ければ、それも出来るでしょう。神様なんて知ったこっちゃない。そう思って生きるならば、こんな言葉は関係ありません。「聖書は全く馬鹿なことを言っている。」そう言って済ませることが出来るでしょう。しかし、私共はそうはしない。そうは出来ない。何故なら、聖書の言葉だからです。神の言葉だからです。聖書がそう言う以上、そうしなければいけないと思う。それも、この言葉に対しての素直な心の動きでしょう。しかし、それだけではないはずです。聖書がそう言っている以上、いつも喜んでいることが出来るはずだ。いつも喜んでいることが出来るよう、神様は私を導こうとしてくださっている。いつも喜んでいることが出来る者として召してくださっている。招いてくださっている。そう受け取っているのではないでしょうか。
 この言葉は私共キリスト者にとって、無理難題ではなくて、神様に与えられた喜びへの招き、喜びの命への召し出しの言葉として受け止められてきた。福音の言葉として聞いてきた。だから、愛唱聖句として代々の聖徒たちに愛されてきたのでしょう。それは、次の「絶えず祈りなさい。」「どんなことにも感謝しなさい。」にも言えることです。私共は絶えず祈ることが出来る者へと招かれている、どんなことにも感謝出来る者へと招かれているということなのです。
 それは、この後に続く言葉、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」この言葉によって明らかとなります。「神様が望んでいるんだから、いつも喜んでいなければ、絶えず祈らなければ、どんなことにも感謝しなければ、そうしなければいけないんだ。」そうではないのです。いつも喜んでいるように、絶えず祈るように、どんなことにも感謝するよう、神様が望まれているということは、神様は私共がそう出来るようにと招き、導いてくださっているということなのです。何故そう言えるのか。それは、神様がそのように私共に望まれるのは「キリスト・イエスにおいて」だからです。イエス様は私共を救うために地上に降って来られ、十字架にお架かりになりました。そして、三日目に復活され、天に昇られました。今も天におられて、父なる神様と共に、すべてを支配しておられます。そして、そのイエス様は再び天から降って来られ、私共は復活の命に与ることになっている。そのようなイエス様の救いの御業によって、神の子、神の僕としての新しい命、神様との親しい交わりの中に生きる者とされたのが私共です。神様は、主イエス・キリストを私共に与えることによって、イエス・キリストにおいて、そのような新しい命へと私共を導いてくださったのです。つまり、イエス様の救いに与ったということは、このいつも喜んでいる者、絶えず祈る者、どんなことにも感謝する者とされたということ、その為にイエス・キリストは天より来られたということなのです。
 しかし、それは本当でしょうか。私共は、いつも喜んでいる者、絶えず祈る者、どんなことにも感謝する者となっているでしょうか。確かに、本当にそういう人になれたらいいなとは思います。しかし、本当にそんな人になれるのでしょうか。私は今朝、聖書の言葉を解き明かす者としてはっきり皆様に申し上げます。なれます。必ずなれます。そのためにイエス様は来られたのですから。そうなることが神様の望み、つまり御心だからです。そのようになる為に私共は召され、招かれ、そして導かれているのです。

3.三つのポイント@ イエス様を見上げる
 その際に三つのポイントがあります。この三つを外してはいけません。
 一つは、イエス様を見上げることです。私共が、いつも喜んでいるのは無理だと思うのは、「何か良いことがあったら喜ぶ」というあり方の喜びを思っているからでしょう。どんなことにも感謝しなさい、も同じです。「何か良いことがあったら感謝する。」そう思っている限り、どんなことにも感謝することなど、決して出来ないでしょう。ポイントはイエス様を見上げることです。イエス様を見上げるならば、イエス様が私共を愛してくださっていることを知るでしょう。そして、愛する我が子を与えるほどに私共を愛してくださっている父なる神様の愛も知るでしょう。いつも喜んでいることが出来る道は、このイエス様との、父なる神様との、交わりの中に身を置くということなのです。
 どんなことにも感謝するのも同じです。イエス様の御業を思い、イエス様を見上げます。そうすると、イエス様が私共のために為してくださったことが一つ一つ心に浮かび、感謝が自然と口に上ってくるでしょう。また、自分の身の回りのことを少し思い巡らしただけでも、どんなに神様は私共を愛し、きめ細やかな配慮の中で私共を生かしてくださっているかが分かります。家族、友人、信仰の友、食べ物、着る物、住む所、才能、趣味等々、数え上げればきりがありません。すべて神様が備えてくださったものです。私共は不足には敏感です。体調が少し崩れても憂鬱になります。不平を漏らします。しかし、普通に暮らしている時、私共の口に感謝があふれることはほとんどありません。でも、不足していることより、充ち満ちていることのほうがよっぽど多いのです。しかし、そのことに気付くには、私共の心がイエス様に、神様に向けられなければなりません。そうでないと、私共は、自分の持つものすべては自分の力と努力で手に入れたものと勘違いしてしまうからです。この勘違いの中で、私共は感謝から遠く離れてしまうのです。  ここまで言えば、もうお気付きでしょう。いつも喜んでいるために、どんなことにも感謝するために、必要なこと。それは、絶えず祈ることなのです。心をイエス様に、神様に向ける。それは祈ることです。祈ることなくして、私共がいつも喜んでいる者、どんなことにも感謝する者になっていくことは出来ません。これが第一のポイントです。絶えず祈ることです。

4.三つのポイントA 祈りの心得
 次に第二のポイントです。だったら、とにかく毎日一所懸命に祈れば良いのか。確かに、それは大切なことです。毎日祈る。それはキリスト者の生活の大原則です。ただ、この祈りの世界は実に広く、深く、簡単に説明することは難しいのです。しかし、どうしてもこれだけは外せないということだけ、申し上げましょう。
 (1)祈りは、やらなければ分からないということです。祈りは、頭では分かりません。祈りは、運動や芸事に似た所があって、やっていく中で、こうした方がいいとか、工夫とか、まだ自分はこんなに分かっていないとか、出来ていないとか、そういうことが分かってくるものなのです。ですから、祈らなければ何も分からないのです。そして、祈りはやり続けることが大切です。やり続けて、少しずつ少しずつ分かってくるのです。
 (2)祈りは、毎日するということです。キリスト者にとって、食前の祈りは不可欠です。この効用は絶大です。食事というものは毎日、何度もするものです。そして、この食事ほど私共が勘違いしているものはありません。しかし、食前の祈りによって、食事の度に、私共はこの食事は自分で稼いだ結果ではなく、神様の「生きよ」との御心の中で備えられたものとして受け取ることになるのです。まとまった時間を取れなくても、ほんの短くでも良い。一日に何回も何回も祈ることです。絶えず祈るというのは、そういうことだと思います。
 (3)祈りは、自分のためだけではなくて、執り成しの祈りが大切です。この執り成しの祈りによって、祈りの世界はどんどん広がっていきます。いつも申しておりますが、「祈りのカード」を是非作っていただきたいと思います。
 祈りについて語り始めればきりがありませんが、この祈ることが19節の「”霊”の火を消してはいけません。」ということにつながると思います。私共の祈りは、自分で祈るわけですけれど、そこには確かに聖霊なる神様のお働きがあるのです。私共は祈りの中で聖霊の火を燃やしていただき、聖霊なる神様の道具としていただくのです。聖霊なる神様のお働きの中で、私共に喜びも感謝も与えられるのです。

5.三つのポイントB 御言葉と結びついた祈り
 次に第三のポイントですが、それは御言葉と親しむということです。いつも喜んで、いつも感謝することが出来るためには、祈ることが不可欠だと申しました。実は、その祈りは御言葉と結び付いていること、御言葉に導かれることがとても大切なのです。
 「『祈りは神様との会話だ。』と聞くけれども、自分の祈りは神様との会話になっていない気がする。自分だけが語っている、独り言のような気がする。」そのような正直な思いを信徒の方から聞くことがあります。私も洗礼を受けてから、随分長い間そんな気がしておりましたので、他人事ではありません。このことについては、随分と考えてきました。そして、気が付いたのです。祈りが神様との会話にならない原因は、私共が神様の言葉が聞くことが出来ない、聞かないという所にある。そして、神様の言葉を聞かないで祈る祈りは、多くの場合、神様にこうしてください、ああしてくださいと頼むような「お願い」に終始してしまっているのではないかということなのです。日本人の宗教土壌の中で、祈りといえば初詣の祈りのように、そういうものしか知らなかった私共ですから仕方がないのですけれど、キリスト教の祈りはそんなものではないことは、「主の祈り」を見れば明らかでしょう。
 だったら、どうするのか。とても単純なことです。まず、神様の言葉を聞くのです。つまり、聖書の言葉を読む。或いは、聖書の言葉の説き明かしを聞くのです。神様が自分に何を求め、何を語っておられるのかを聞くのです。そして、その聞いた神様の言葉に対して、祈りでもって応えるということです。まず神様の言葉を聞くのですから、神様の声が聞こえないということはありません。聞いて、それに応えて祈るのですから、必ず会話になります。それが神様との会話としての祈りなのです。ですから、聖書を読む、聖書に親しむ、このことが私共が祈る上でとても大切なのです。それが、20節で「預言を軽んじてはいけません。」と言われていることです。預言とは、来年の今頃こういうことが起きると予め言うこと(予言)ではありません。そうではなくて、神様の御心を告げることです。現代における説教と受け取っても良いでしょう。説教を軽んじない。御言葉の説き明かしを軽んじない。そこでしっかり神様の御心を受け止めて、それに応えて祈るということです。そのような営みの中で、私共はいつも喜んでいることが出来るし、どんなことにも感謝出来る者にされていくということなのです。
 このことが実際に為されている所があります。それが主の日の礼拝であり、聖書を学び祈る会なのです。いつも喜んでいる者、どんなことにも感謝する者になっていくことは、この主の日の礼拝をおろそかにしてはあり得ないことです。この礼拝において、私共の心は神様に、イエス様に向けられるからです。この礼拝において、神様の言葉を受け取るのです。そして神様に祈り、賛美を献げます。この礼拝の心で、他の六日間も生きるということ。それがいつも喜び、すべてのことに感謝する者へと変えられていく道なのです。
 ところで、皆さんの中で、主の日の礼拝を守っているけれど、いつも喜ぶ、絶えず祈る、すべてのことに感謝するということにおいて、自分は今一つだと思われる方。そのような方は、是非、聖書を学び祈る会に出席してください。これが最も確実に、私共の信仰の歩みが強められていく道です。何故、教会は祈祷会を行っているのか。それは、いつも主との交わりに生き、喜びと感謝の中を生きていきたいと願ったキリスト者たちの工夫の表れなのです。水曜日まで教会に来るのは大変だと思う方がいるかもしれませんが、主の日の礼拝にしても、聖書を学び祈る会にしても、習慣になってしまえば、その時間を確保することはそれほど大変なことではありません。それ以上に、信仰の歩みを格段に確かなものにされていくでしょう。それは本当のことです。
 それが21節で言われている、「良いものを大事にしなさい。」ということなのでしょう。信仰の歩みにおける良い習慣をしっかり身に付けていくならば、それが私共の信仰の歩みを守ってくれるのです。人生、いろいろなことがあります。大変な時も必ずあります。そうなってから信仰を備えるのでは遅いのです。今、信仰の良き習慣をつけて、大変なことが起きても、祈りを絶やすことなく、喜んでいられる、感謝していられる、そういう歩みを為してまいりたい。そう心から願うのであります。

[2016年10月16日]

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