富山鹿島町教会

礼拝説教

「あなたこそ幸いな者」
イザヤ書 51章1〜8節
マタイによる福音書 5章1〜12節

小堀 康彦牧師

1.イエス様の祝福
 テサロニケの信徒への手紙一を終えて、先週から半年ぶりにマタイによる福音書に戻ってまいりました。半年前の続きということで第5章から始めています。先週は、山上の説教の冒頭にあります九つの「幸いである」というイエス様の祝福の言葉から最初の二つ、「心の貧しい人々は、幸いである。」と「悲しむ人々は、幸いである。」から御言葉を受けました。
 どう考えても幸いとは思えない、心の貧しい人、悲しんでいる人、そういう人に向かってイエス様は「幸いだ。」と告げられた。それは一般論として、どんな心の貧しい人もどんな悲しんでいる人も幸いだと言われたのではなくて、実際に御自分の前にいる人々に向かって、「あなたは心貧しいね。」「あなたは悲しんでいるね。」でも「幸いだ。」「わたしの所に来たのだから。わたしが慰める。わたしが天の国に導いていく。だから大丈夫。幸いだ。喜びなさい。」そう告げられたのだということを見ました。そして、イエス様がそのように告げられたということは、そうなる。そうなったらいいね、幸いになったらいいね、天の国に行けたらいいね、慰められたらいいね、ということではないのです。イエス様がそう告げられた以上、そうなるのです。イエス様に「幸いだ。」と告げられた者は、幸いになるのです。
 この「幸いである」という言葉は、原文では文章の最初に出てきます。「幸いなるかな」という祝福の言葉、祝福の宣言です。しかし、祝福という言葉を聞いて、日本人の多くはあまりピンとこないのではないかと思います。祝福という言葉は、教会以外ではほとんど聞くことのない言葉だからです。ところが、この祝福と正反対の言葉なら良く分かるのです。それは「呪い」です。呪いをかけられると、何か知らんけれども不幸がやって来る、そんな感じを持つ。祝福というのはその反対ですから、祝福を受けたら幸いになるのです。ただ、呪いにしても祝福にしても、それを行う人がそのような力を持っているかどうか、それが呪いにしても祝福にしても、その効き目があるかどうかを決めるわけです。この山上の説教の冒頭で「幸いなるかな」と九回も続けて祝福されたのは、イエス様です。神の独り子であるイエス様、まことの神であるイエス様が祝福された。これ以上力のある方はいない、そういう方が祝福された。そうである以上、この祝福を受けた人はそうなるのです。この祝福の中を生きるようになるのです。今朝私共がこのイエス様の言葉を聞いているのも同じことです。今朝イエス様が私共に向かって「幸いなるかな」と祝福してくださっている。神の独り子であるイエス様が祝福してくださっている。幸いにならないはずがないのです。私共は今朝、このイエス様の祝福に与る者としてここに集って来たのです。
 私共は、主の日の礼拝のたびごとに祝福を受けます。礼拝の終わりには必ず、祝福があります。私共の教会では「祝福」と言いますが、これを「祝祷」と言っている教会も多いかと思います。元の言葉はbenediction(英)ですから、単純に「祝福」です。どうしてこれを「祝祷」「祝福を祷(いの)る」と訳したのか。多分、牧師には祝福する力なんて無い、せいぜい祝福してくれるよう神様にお祈りするだけ、そんな感覚があったからではないかと思います。しかし、キリスト教会の二千年の歴史の中で、主の日の礼拝は必ず祝福をもって閉じられてきました。礼拝者は祝福をもって世に送り出されてきたのです。それは、この主の日の礼拝に与るということ自体が神様の祝福に与ることだからです。この礼拝に聖なる神様が臨んでくださって、私共に御言葉を与えてくださる。私共は神様に祈りと賛美を捧げる。この神様と私共との親しい交わり。これこそ、私共が神様と共にあり、神様の祝福に与ることそのものなのです。牧師に祝福する力があるとか無いとか、そんなつまらない話ではないのです。神様がここにおられるかどうか、神様との交わりを与えられているかどうかという問題なのです。祝福に与らない礼拝など無いのです。

2.イエス様の言葉は、イエス様の言葉
 今日は、三番目から五番目までの祝福の言葉から御言葉を受けてまいりましょう。5〜7節「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」とあります。この御言葉を聞いて、皆さんどうお感じになったでしょうか。先週与えられた3〜4節の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」とは違う印象を持たれたのではないでしょうか。先週の「心の貧しい人々は、幸いである。」「悲しむ人々は、幸いである。」というのは、どう考えても幸いとは思えない、そのような人々に対して、イエス様は「幸いだ。」と言われた。これは、イエス様が「わたしの所に来たのだから幸いだ。」そう言われたのだと分かりました。しかし、今日与えられている5〜7節は、そんなに不自然じゃないと申しますか、違和感がないと申しますか、別にイエス様の言葉でなくても、格言のような言葉として受け取っても、すんなり受け取れる。そんな言葉ではないでしょうか。「柔和な人々は幸いだ。」そりゃ、いつも怒っている人は幸いとは思えないけれど、柔和な人は幸いだな。「その人たちは地を受け継ぐ。」というのも、柔和な人は周りの人とうまくやっていけるから、仕事もうまくいくし、地上でも成功する。そんな風に受け取りかねない。「憐れみ深い人々は、幸いだ。」それは当然でしょう。周りの人に憐れみ深くあるならば、周りの人の方もその人に憐れみ深く接するだろう。だから幸いだ。そのように受け取ってしまいますと、別にイエス様の言葉でなくても、その通りだと納得してしまうところがないでしょうか。
 しかし、イエス様の言葉をイエス様の御人格、イエス様の御業と切り離して、分かったような気になる時、私共は100%、イエス様の言葉を誤解しています。イエス様の言葉は、イエス様の言葉なのです。イエス様が今朝私共に向かって、「柔和な人々は、幸いである。」と告げておられるのです。ここでイエス様が「柔和な人」と言われたのは、柔和な人一般に対してではないのです。イエス様のもとに来た群衆に向かって、イエス様の弟子に向かって、言われたのです。今朝私共に向かって、告げられているのです。
 ただここで少し困ったことが起きます。先週、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」とは群衆のことであり、弟子たちのことであり、私共のことだと申しました。実際そういう人たちでしたから、イエス様の祝福の言葉は何と力強い、私共を喜びに導く言葉であろうかと思ったわけです。しかし、今日与えられている御言葉は「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」に対してです。果たして、私共はイエス様に柔和な人と言われるような者でしょうか。義に飢え渇く人、憐れみ深い人と言われるような者でしょうか。そう思うと、このイエス様の祝福の言葉が自分に向けられているかどうか、少し自信がなくなります。

3.イエス様と一つにされる幸い
 ここで「柔和な人々」とはどんな人々のことなのか、少し考える必要があります。普通に考えれば、穏やかで、声を荒げたりせず、怒らず、優しい人ということでしょう。そうなりますと、自分はとても、そうは言えないなと思うわけです。
 そこで、聖書を調べてみますと、この「柔和な人」ということですぐに思い起こされる聖書の個所が二ヶ所あります。一つは、マタイによる福音書11章28〜29節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」です。ここで、イエス様は御自身のことを「柔和で謙遜な者」と言っておられます。もう一つは、21章5節、イエス様がエルサレムに入城された時の場面であり、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入られるのを預言した言葉として、旧約のゼカリア書から引用されている言葉です。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」ここでも「柔和な方」というのはイエス様御自身を指しているわけです。イエス様が柔和な方だということなら、誰でも納得出来ます。しかし、イエス様が柔和な方だということと私共の祝福、私共と柔和な者とは、どんな関係があるというのでしょうか。
 先週も申し上げましたが、イエス様の言葉は指向性が強いのです。目の前の「あなた」に向かって告げられている。ですから、このイエス様の言葉もまた、御自分の所に来た人たち、弟子たちや群衆に向けて告げられた言葉であったということです。このイエス様の祝福はすべて、イエス様の所に来た者に向かって告げられている。もっとはっきり言えば、イエス様の所に来たから幸いなのです。イエス様の所に来たのならば、どんな人でも幸いになるのです。
 この時イエス様の所に来た人たちや私共は、柔和な人とはとても言えないような者でありましょう。しかし、まことに「柔和な方」であるイエス様の所に来たから、そんな者でも柔和な者とされるのです。だから「幸いだ」ということなのです。イエス様の所に来る。イエス様に救いを求める。そのような者に対してイエス様は、その人と一つになって共に歩むというあり方において、助けてくださるお方だからです。そしてまた、その人のために十字架にお架かりになって、一切の罪を我が身に負うというあり方において、救ってくださるお方だからです。その人のために天の国への道を開いてくださるというあり方において、救ってくださるお方だからです。
 私共は、洗礼を受ける、そして礼拝に集い聖餐に与るということによって、この時イエス様のもとに来た群衆や弟子たちと同じように、イエス様に救いを求めて来たわけです。そのような私共と、イエス様は一つになってくださる。御言葉をもって私共の中に宿り、すべての道を導いてくださる。そのようにしてイエス様は、私共をイエス様に似た者として造り変え続けてくださる。柔和な者とし続けてくださる。だから幸いだということなのです。
 柔和な人は幸いなのだから、柔和な人にならなければ幸いになれないのだから、何とかして頑張って柔和な人になろう、ならなければならない。そういうことではないのです。そんなのは福音ではないし、イエス様の祝福に与ることでもありません。「柔和な人々は、幸いである。」というのは、「幸いだね、あなたたちは。わたしの所に救いを求めに来た以上、わたしがあなたたちと一つになって、わたしがあなたたちを柔和な人にする。どんな時にも共にいて、すべての道を守り、支える。あなたたちは柔和な人になる。そして、この地上の歩みもわたしの手の中で守られる。もう大丈夫。幸いなるかな。」そうイエス様は言われたのです。そして、このイエス様の祝福は、時代を超え、国を超え、民族を超えて、イエス様に救いを求めるすべての人に注がれ続けているのです。今朝私共にもこの祝福が告げられました。だから、私共は柔和な者となるし、この地上の歩みも守られるのです。

4.義に飢え渇く人々は、幸いである
 次に、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」です。ルカによる福音書では「義に」という言葉はありません。「今飢えている人々は、幸いである。」です。イエス様の所に来た人々は、病人や様々な困難を抱えている人々でしたから、まさに今日食べるにも困る人々であり、飢え渇いていた人々であったとも言えます。そしてイエス様は、そのような人々に向かって、満たされるようになる、わたしが満たしてあげよう、だから幸いだと言われた。そう聞くことも出来るでしょう。ここで五千人の給食の出来事を思い起こすことも出来ます。
 しかし、マタイによる福音書においては「義に飢え渇く人々は、幸いである。」となっています。この飢えという問題は、貧しさともつながりますけれど、同時に、どうして自分だけ貧しいのか、飢えるのか、そういう問いを内包しているでしょう。どの時代でも世界中が飢えているわけではない。どの国でも国民全員が飢えているわけではない。飢えている人がいる一方で、豊かな生活をしている人がいるわけです。そこで人は、神の義しさを問わざるを得ないのです。信仰が無ければ、「世の中とはそういうものだ。だから、負けずに頑張って勝ち組にならなきゃダメだ。」そういうことになるのでしょう。しかし、神様を信じる者は、そう単純ではないのです。「神様の正義、神様の公平はどこにあるのか。」そう神様に問い、祈らざるを得ない。旧約以来、神様の御支配は正義と公平によって示されるものだからです。その正義と公平が破られているのが私共の目の前にある現実だからです。
 さて、ここで先程と同じ問いの前に出されます。それは、私共は義に飢え渇いている者なのだろうか、という問いです。そしてまた、この時の群衆や弟子たちは、神様の義を飢え渇くように求めていた人々だったのだろうかと思う。きっとそうではなかったと思います。私共もそうです。貧富の差が無くなればいいなとは思いますけれど、神様の正義が行われればいいなとは思いますけれど、そのことに飢え渇いているかと問われれば、それほどでもない。そんなところではないでしょうか。しかし、イエス様はどうだったでしょうか。イエス様は、まさに神の義に飢え渇き、神様がないがしろにされるのに耐えかねていた。だから、十字架にお架かりになる前に、神殿で商売をしている人々を追い払うという、「宮清め」をなさったのでしょう。そして、何よりも神様の義しさが貫徹されるために、自らの命を十字架の上でお捨てになった。罪人は滅ぼされなければならないという、神の義を全うするために、自らが犠牲になった。いけにえとなった。イエス様こそ「義に飢え渇く人」であられました。
 イエス様に救いを求める人は、このイエス様と一つにされる。イエス様は、そのようなあり方で私共を救ってくださるのです。だから、私共は神の義しさを本気で求めるようになるのです。自分が上手いことやっていればそれで良いという生き方を、変えられるのです。まるで人間のエゴが支配しているように見えるこの世界のただ中で、否、神の支配がある。そのことをイエス様の十字架において知るのです。そして、この神様の御支配は、新しい天と新しい地が造られる時に完成されることを知るのです。神の義しさは、イエス様によって既に貫徹されていることを知るのです。
イエス様はここで「その人たちは満たされる。」と言われましたが、これは「わたしが満たす。」というイエス様の救いの御意志を示す言葉なのです。「わたしが神の義を満たす。十字架の死をもって満たす。あなたたちはそれ故に幸いになる。」そうイエス様は言われたのです。イエス様の祝福、イエス様が私共に与えてくださる祝福は、このイエス様の十字架によって保証されているのです。確かに、イエス様はまだこの時、十字架にお架かりになっていません。しかし、それはもう決まっていたことだったのです。ですから私共は、イエス様の言葉を漠然とした一般論として聞くことは出来ないのです。イエス様の言葉は十字架の言葉なのです。
 私共はイエス様を信じる時、イエス様の義に飢え渇く心とも一つにされるのです。主の正義が、主の平和が、この世界に満ちるよう真面目に真剣に願い求める者とされる。だから、「御心が天に成るごとく、地にも為させ給え。」と祈るのです。そして、そこでイエス様の十字架を見上げるのです。「神様、あなたの正義はここにあるのですね。私もまた自分の十字架を負って、あなたの正義のために歩みます。」そのように促されるのです。だから幸いなのです。

5.憐れみ深い人々は、幸いである
「憐れみ深い人々は、幸いである。」も同じです。生まれつきの私共の中にある姿は、少しも憐れみ深くありません。本当に憐れみ深いのはイエス様です。イエス様が私共と一つにされて、私共は憐れみ深い者に変えられていきます。だから、私共はまことに幸いなのです。

6.最後に
 私共は今朝、イエス様の祝福に与りました。私共は、柔和なイエス様、神の義を求めるイエス様と一つにされ、ここから遣わされていきます。「柔和になんかなれない。」「神の義なんてどうでもいい。」「憐れみ深くなんてとてもなれない。なりたくない。」そんな思いにとらわれることもあるかもしれません。しかし、大丈夫です。イエス様の祝福はあなたがたを捕らえて放さないからです。このイエス様の祝福が、あなたがたを必ずイエス様のもとに引き戻します。神の御子の祝福を反故にするほどに力のある呪いなど、この世界に存在しないのです。だから、何も恐れることはないのです。

[2016年11月20日]

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