富山鹿島町教会

礼拝説教

「まことの幸いに生きる〜心の清い人は幸いである。平和を実現する人は幸いである。〜」
イザヤ書 2章1〜5節
マタイによる福音書 5章1〜12節

小堀 康彦牧師

1.アドベントを歩む私共
 アドベントの第二週を迎えております。昨日は富山刑務所のクリスマス、そして北陸学院大学同窓会富山支部のクリスマス会が行われました。近年は毎年この二つのクリスマスから始まりまして、次々とクリスマスを祝う会が行われます。今週金曜日のノアの会もクリスマス会です。牧師の幸いの一つは、毎年何回もクリスマスを祝うということです。十回以上クリスマスを祝い、メッセージを語ることになります。そのような歩みの中ではっきり知らされますことは、このアドベントの時、私共は既にクリスマスの喜びの中にいるということです。クリスマスはまだ来ていません。しかし、既にクリスマスの喜びの中を生き始めている、それがアドベントなのでしょう。それは、再臨のイエス様はまだ来ていない、しかし既にイエス様が来られる時に与えられる喜び、祝福の中を私共は生き始めているというのと同じでしょう。クリスマスのリースを作ったり、クリスマスカードを書いたり、クリスマスプレゼントに頭を悩ませたりする。様々なクリスマスの備えをする中で、既にクリスマスの喜びの中に生き始めている。それがアドベントを歩む私共の姿なのでしょう。

2.イエス様の祝福の言葉についての二つの確認
 そのような私共に今朝与えられております御言葉は、山上の説教の冒頭にあります、イエス様の祝福です。前回までに、前半の五つの幸いについて御言葉を受けてきました。今日は8節「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」と9節「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」この二つの祝福の言葉を受けてまいりたいと思います。  イエス様の祝福の言葉を受けながら、前回までにいくつかのことを確認してまいりました。それを一度振り返っておきたいと思います。
 第一に、イエス様は、ここで自分の所に来た人々に向かって祝福されたのであって、一般的な話をされたのではない、ということです。イエス様は、「わたしの所に来たのだから、わたしの所に救いを求めに来たのだから、あなたがたは幸いだ、わたしが幸いにする、もう幸いなのだ。」そう宣言されたのだということです。「心貧しくても、悲しんでいても、わたしの所に来たのだから、あなたがたはもう幸いなのだ。」そうイエス様は祝福された。私共はその祝福の中にもう生きているということです。
 第二に、イエス様に救いを求めて来た者は、イエス様と一つにされるというあり方で救いに与る、それがイエス様の祝福を受けるということだ、ということでした。柔和でもなく、義に飢え渇いてもなく、憐れみ深くもない私共ですが、そのような私共とイエス様は一つになってくださり、私共を、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者にしてくださる、イエス様と一つにされた新しい命に生きる者にしてくださる、だから幸いだということです。
 その流れの中で、イエス様は、今朝与えられている祝福の言葉もお語りになっているのです。順に見てまいります。

3.心の清い人々は、幸いである
 8節「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」そうイエス様は告げられました。これは、心が清くなれば神様をこの目で見ることが出来るということではありません。また、イエス様の「幸いである」という祝福の言葉を受けるためには「心の清い人」にならなければならないという意味でもありません。それは、今まで見てきたことで明らかです。「心が清い」ということは、イエス様の祝福を受ける条件などでは決してないのです。そうであるなら、誰もイエス様の祝福を受けることなど出来ないでしょう。ここにいる誰が、イエス様の前で「私は心が清いです。」などと言えるでしょうか。そんな人は一人もいません。
 そもそも「心が清い」とはどういうことでしょうか。旧約からの流れで、穢れと対比して清いということを理解することも出来ると思いますが、もっと単純に、この「心が清い」というのは何よりも神様に対して二心が無い、神様に対して真っ直ぐで、ぶれることの無い心を言っていると理解して良いと思います。しかし、この神様に対して二心無き心、信仰と言っても良いと思いますが、これも、自分の心を覗き込んで、自分は神様に対して決してぶれない信仰を持っているかどうか、そんなことを考え始めたら、誰も心が清いとは言えないでしょう。この神様に対して二心無き心、それもまた、イエス様の所に来たから、イエス様を愛し、信頼し、従う者にしていただいたというあり方において、私共に与えられるものなのです。
 このことは、私共に信仰が与えられた時のことを思い起こせば明らかです。私はイエス様に出会うまで、自分の損得、自分の栄誉、自分の欲を満たすこと、そんなことしか求めるものはなかった。神様の御心を求め、それに従うなどということは考えたこともなかった。しかし、イエス様が私のために、私に代わって、十字架にお架かりになってくださった。そのことを知らされて、私は変わった。神様と共に生きていこう、生きていきたい、そう願う者になった。この方向転換は決定的です。罪の縄目から解き放たれ、神様に向かって歩み始めたのです。確かに、もう二度とぶれないほどの確かな信仰なのかと言われれば、心許ない所はあります。しかし、イエス様と出会ってしまいましたから、私共はもう神様なんて知らない、自分の思いのままに生きていく、そんなことは言えなくなったのです。そんなことはしたくないと思うようになったのです。
 皆さん、もう初詣なんてしたくないでしょう。したくなくなったです。十戒の第一の戒は、「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない。」ですが、これは「ならない」という禁止事項のように訳されていますけれど、直訳すれば「もうそんなことはあなたはしない」と告げているのです。どうしてか。この神様によってエジプトの地、奴隷の家から導き出されたからです。だから、もう自分たちをエジプトから導き出した神様以外のものを神様とすることなんてしない、出来ない、したくないでしょう、ということなのです。それと同じです。私共はイエス様によって救われた。だから、もうイエス様抜きで生きることは出来ない。それが、清い心を与えられたということなのです。

4.神を見る
  そして、そのような私共にイエス様は「神を見る」という約束を与えてくださった。「神を見る」それは終末において完全に成就される所の祝福です。パウロがコリントの信徒への手紙一13章12節において、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」と告げていることです。この地上にあって私共は神を見ることは出来ません。ヨハネによる福音書1章18節「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と言っているとおりです。しかし、この時イエス様の所に来た人たちはイエス様を見た。それは神を見たということでもあったのです。私共もそうです。イエス様と出会うことによって、私共は神様と出会った。イエス様を信仰のまなざしで見上げる時、私共は神様を見上げているのです。罪に満ちた私共。神様を見れば滅びるばかりの私共。それが、「父よ」と神様を呼び、こうして神様の御前に集っている。信仰のまなざしをもって神様を見、神様との親しい交わりの中に生かされている。実に、イエス様の「幸いである。あなたがたは神を見る。」との祝福は、既に私共に与えられているのです。そして、この祝福が完成されるのが、イエス様が再び来られる終末なのです。その終末を待ち望む者として、私共はアドベントの日々を過ごしているのです。

5.平和を実現する人々は、幸いである
 次に、9節「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」です。これも、私共が平和を実現するならば、イエス様の祝福を受け、神の子と呼ばれるようになるという意味ではないことは、もうお分かりでしょう。そもそも、私共に平和を実現する力などありません。この時イエス様の前にいたのは、私共と同じように様々な問題を抱えた人々です。今日生きるにも困り果てて、イエス様の所に救いを求めに来た人々です。そのような人々に平和を実現する力などあるはずがないのです。平和を実現する力があるのは、この世の権力者であり、もっとはっきり言えば軍隊を動かすことの出来る王様でしょう。しかし、実際にはその人たちによって戦争が起こされているわけです。
 平和を実現する、それが出来たらどんなに幸いかと思います。平和を願わない人はいないでしょう。皆、平和を望んでいる。しかし、現実には世界中で戦争が続いています。  ここで、イエス様が言われた平和について少し考える必要があります。私共は戦争がなければ平和だと思っているところがあります。しかし、イエス様が告げる平和は、単に戦争がないという状態だけを指しているのではありません。もっと根源的な、もっと徹底した平和です。人と人とが互いに愛し合い、支え合い、仕え合う交わりです。さらには、国と国、民族と民族、人と人との交わりだけではなくて、人間とこの世界、人間と神様との関係においても充ち満ちた平和です。それは、神様によって造られた人間と世界が、その御心に従って、神様の御支配の中に生かされる、神の平和とでも言うべき状態です。
 この平和を実現するために来られた方、平和の主、平和の王、それが主イエス・キリストです。イエス様は全能の神の独り子ですから、その御力をもって当時世界最強であったローマの軍隊を蹴散らし、その御力ですべての者の上に君臨することも出来たでしょう。しかし、イエス様が為さったのはそういうことではありませんでした。イエス様がまことの王としてエルサレムに入城したときに乗られたのは子ろばでした。立派な、大きな馬ではなかった。軍馬にまたがる王としてではなく、子ろばに乗った王としてエルサレムに入城された。それは、イエス様が平和の王だったからです。歴史上の偉大な王を記念する銅像は、皆軍馬に乗った姿です。ろばに乗った王などはいません。イエス様は神様に敵対していた人間のその敵意を我が身に受け、神様をなだめる犠牲となって十字架にお架かりになった。そのようにして、人間と神様との間に平和を実現されたのです。パウロはそのことをエフェソの信徒への手紙2章14〜16節で「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」と告げております。イエス様は自らを十字架の上で犠牲とすることによって、神と人、人と人の平和を与えられたのです。

6.神の子と呼ばれる者として
 このイエス様の祝福に与り、イエス様の救いに与った者、イエス様と一つにされた者は、どうしても平和を求めざるを得ない。人と人、国と国が自らの利益、自らの欲に引きずり回されて互いに争うのは仕方のないことだと言って済ませるわけにはいかないのです。それでは、イエス様の十字架は無駄だったということになってしまうからです。イエス様の十字架を無駄にしないためには、イエス様が与えてくださった平和が実現するように、願い求めて歩むしかないのです。それは、私共が既に神の子とされているからです。神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者とされているからです。
 しかし、だから「皆さん平和運動に参加しましょう」と、私は言いたいのではありません。この地上の平和運動は、その運動自体の中に争いを内包していることを私共は知っているからです。かつて原爆をなくしましょうという運動がありました。しかし、この運動は二つの流れ、具体的には共産党系と社会党系ですが、これによって分断されたことを知っています。互いに自分の主張が正しいことを押し通し、相手を非難し合い、時には暴力も使った。人間の罪が平和を求める運動の中にも現れるのです。今でもそうです。シリアにおける内戦が続いています。アメリカもロシアも平和のための闘いだと言っています。そして、多くの人々が家族を失い、家を失い、職場を失い、生きる場を失っています。それが現実です。そのような中で、私共が「平和を実現する」などということは、とても不可能のように思えてきます。何をどうしたら良いのか、途方に暮れてしまうばかりです。そんな大きなことではなくても、私の家に平和があるのか、そのような問いもまた、この御言葉から突き付けられる私共なのです。しかし、それでも私共は諦めることは出来ない。イエス様が十字架において平和の道を拓いてくださったからです。
 キリストの教会はずっと、このイエス様の言葉と共に生きてきました。どんなに戦火が激しい中でも、このイエス様の御言葉を忘れることはなかった。この御言葉と共に生きたのです。その歩みの中で祈られ続けてきた祈り。それが「マラナ・タ」「主よ来てください」です。まことの平和は、主が再び来られることによって実現することを知っているからです。この祈りと共に、キリストの教会は、イエス様が犠牲として十字架の上で自らを捧げられたように、主の平和のために隣り人のために愛の業を捧げ続けてきた。そこに、ただ一つの平和の道があることを知らされたからです。力で相手をねじ伏せても、それはイエス様が求めておられる平和でもないし、イエス様が与えてくださった平和でもない。それは次の争いの種を蒔いているだけでしょう。主の平和、それは愛によって建てられていくものなのです。世はそれを知りません。しかし、私共は知らされた。神の子とされた者として、それを知らされた。だからそれを伝え、その愛に生きるのです。それ以外に、私共の生きる道がないからです。
 今から聖餐に与ります。イエス様は、御自分の所に救いを求めて来た私共に、「我が体を食べよ、我が血を飲め。わたしはあなたと一つになろう。あなたと一つになって歩もう。だから安心して、二心無き神様への愛に生きよ。平和を実現するために生きよ。」そう招いてくださっています。この招きに応えて、イエス様と共に、イエス様の平安の中を、御国に向かって歩んでまいりたいと願うのです。

[2016年12月4日]

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