富山鹿島町教会

礼拝説教

「体より大切なもの」
申命記 11章13〜21節
マタイによる福音書 5章27〜37節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 イエス様は、律法の中で最も大切な掟は何かと問われた時、神様の御心を最も良く示しており、すべてがそれにかかっているものとして、第一に「神を愛すること」、第二に同じように重要であるとして「隣人を愛すること」、この二つを挙げられました(マタイによる福音書22章34〜40節)。イエス様は、この「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つに照らして律法は受け取られなければならない、そうしないと神様の御心を正しく受け取ることは出来ないと教えてくださいました。そして、その具体的な例として、今朝与えられております御言葉をお語りになりました。
 今朝与えられておりますイエス様の御言葉には、「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」と三つの小見出しが付いております。それぞれ、当時のユダヤにおける律法の受けとり方に対して、イエス様は「神様が求めておられるのはそういうことではないのだ。」と教えられたわけですが、ここには一つの流れと言いますか、つながりというものがあります。イエス様は、何の考えも無しにこの三つを並べてお語りになったのではありません。ここには、神様の御心に従っていくための、ひとつながりの筋道というものがあるのです。
 それは、人と人との関わりにおいて最も重要な交わりとしての夫婦、これが真実な交わりとならなければならないし、そのためには誓いを含めた真実な言葉というものが大切なのだということです。平気で嘘をついていたら、或いは相手を裏切るようなことをしたら、夫婦にせよ、隣人にせよ、愛の交わりを形作っていくことなど出来ないことは明らかでしょう。愛の交わりを形作る上で不可欠なことは、その人を大切にする、そして裏切らないということです。

2.姦淫してはならない
 さて、イエス様はここで、「姦淫してはならない」という十戒の第七の戒を取り上げます。先週与えられました御言葉は十戒の第六の戒、「殺してはならない」でした。それに続いて、第七の戒をイエス様は取り上げます。「姦淫してはならない」この戒は当時も今も、結婚している人が配偶者以外の人と性的な関係を持つことを禁じていると受け取られているでしょう。文字通り受け取ればそういうことになるわけですが、しかしイエス様は、「神様がこの戒めを与えられたのは、そのような不適切な性的関係を持たなければ良いというようなものではない。」と告げられたのです。
 27〜28節「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」ここでイエス様は、みだらな思いで見るだけで、既に姦淫の罪を犯したことになると言われたのです。口語訳では、「だれでも、情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」となっていました。新共同訳では、ただの「女」ではなく、「他人の妻」となっています。どちらとも訳せる言葉なのですが、私は口語訳の方が良いと思います。新共同訳ですと、誰かの妻となっていない女性に対してなら良い、という風にも読めるからです。私は若い時に口語訳でこの個所を読みまして、大変衝撃を受けました。若い時は誰でもそうでしょうが、性的な欲求というものに対して、どうして良いのか分からない強い衝動があるわけです。この御言葉に触れて、誰にも見せないその心の奥を見透かされた、そんな思いが致しました。言い逃れの出来ないあり方で、自分の罪を指摘されたのです。私が神様の御前で悔い改め、赦しを求めた一つのきっかけは、このことでした。今でもそのことははっきりと覚えております。
 性の問題というのは、なかなか表には出ません。まさに秘め事です。しかし、この問題を素通りしてしまえば、私共の信仰は綺麗事になってしまうでしょう。人間は、どうしようもなくこの問題を抱えているのです。私はずっと、この問題に対しての教会の責任というものを強く思っています。教会学校で育った青年、或いは教会に集っている青年が、この問題を信仰的にどう受けとめていくべきか。その道筋を一緒に考えていく責任、そこで道を誤らせないように導いていく責任が教会にはある。伝道者である牧師にはある。そう思っています。もちろん、これは一人一人の心の奥にある問題ですから、説教の中で語って済む話ではないでしょう。本当にお互いに心を開いて語り合うという場でなければ、触れることは出来ません。しかし、避けるわけにはいかない。そうであるにも拘わらず、責任を果たせていないことを思い、神様に申し訳なく思っています。
 イエス様はここで、性の問題を結婚との関わりの中で語っています。これはとても大切な点です。性の問題は結婚と切り離された所で論じられるべきものではないからです。姦淫は、結婚によって生まれた夫婦という関係を壊すものです。相手を裏切ることです。しかもイエス様は、実際に性的関係を持たなくても、心の中でそう見るだけでダメだと言われる。そんなことをするくらいなら、右の目をえぐり出してしまう方が、右の手を切り取って捨ててしまう方がましだ。そうイエス様は言われたのです。激しい言葉です。これを文字通りに行えば、世界中、男の人はみんな片目、片腕になってしまうでしょう。イエス様がここで言おうとされているのは、夫婦の関係というものはそれほどまでに大切なものだということを弁えているか、ということなのです。

3.夫婦とは
 夫婦というのは、人間の交わりの最も深い、最も基礎にある関係です。このことは、神様が人間を造られたことを記している創世記の始めの所、1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」とありますし、更に、女性が造られたことを記す2章24節に「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」とあることからも分かります。神様に似た者、愛の交わりに生きる者として人間は造られました。だから、男と女に造られたのです。男と女の間に愛の交わりを形作らせるためです。そのことによって、「神は愛である」と言われる神様に似た者とされるからです。そして、そのために男と女は一体となるのです。「父母と離れて」です。親子という血縁関係を離れて、夫婦は一体となる。聖書において、夫婦は親子の関係より根本的な関係なのです。日本における家族の基本単位は親子です。しかし、聖書では夫婦です。親子という血縁関係が基本であるならば、嫁は永遠に家族になれません。ここに嫁姑の問題の根っこがあるのではないかと思います。そして、「一体となる」とは、社会的・経済的・人格的そして肉体的に一体となることを意味します。それが夫婦です。性は、それだけが切り離されてはならないのです。人間全体の営み、人間全体としての愛の交わりの中に位置付けられるものだということです。
 結婚するとは、婚姻届を出すことではないのです。勿論、それも必要です。しかし、それは結婚の社会的側面でしかありません。結婚するというのはもっと人間全体の行為であり、神様の選びによる秘儀と言っても良いものです。神様の選びによる出来事です。だから、神様の御前で結婚式を挙げるのです。神様の御前で誓約をするのです。そして、神様によって結ばれた者として社会的・経済的・人格的・肉体的に一つとなるということなのでしょう。私が結婚式の準備会でお話しするのもそういうことです。

4.離縁するな
 さて、イエス様がこのことをお語りになった時、ユダヤにおける結婚の状況はどうだったのでしょうか。31節「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。」とあります。これは、申命記24章1節に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」と記されていることを指しています。この申命記は今から2500年以上も前に記されていますから、今の感覚で言えば、「妻の人権も言い分も顧みることのない、とんでもない話だ。」でしょう。
 イエス様の時代、この律法に対しての解釈には二つの流れがありました。一つは、この「気に入らなくなったとき」というのを、「恥ずべきこと」つまり不倫をした時だけと理解するものです。そしてもう一つは、これをもっと広く、例えば料理を焦がしただけでもいい、夫より早く寝る、夫より遅く起きる、そういうことでも良いと解釈する流れがありました。イエス様は前者の方を採ったわけです。しかし、世の中はそうではなかったようです。夫の都合の良い様に広く解釈して、離縁状さえ出せば好きに離婚出来る。それが現実でした。そして、ファリサイ派の人々や律法学者は、こういう離縁状なら大丈夫だと離縁状の書き方を指導していたわけです。イエス様は、そのようなあり方に、結婚が神様の選びの御業であるということを全く分かっていない、分かろうとしない、神様を愛し、神様の律法に心から従おうとする思いがない者の姿を見たのです。言葉の上だけでは神様に従っているように見える、しかし心から神様の御業を重んじ、これに従おうとしていない、その不信仰を見たのです。
 この個所から、キリスト教は離婚を認めないのだと言う人がいます。カトリック教会はそうですが、実際には大勢が離婚しています。カトリック教会は、それはその結婚がそもそも成立していなかったという理屈です。カトリック教会では、結婚も洗礼や聖餐と同じようにサクラメント、神様の聖なる御業と考えておりますので、結婚が破られることはないということになり、このような理屈になるのでしょう。しかし、これもどうかと思います。勿論、離婚はしないに越したことはないでしょう。しかし、止むに止まれぬ状況の中で、そのように決断をしなければならない、そういうことだってあるでしょう。DV(家庭内暴力)や人格否定、不倫、経済的な責任放棄等々、愛の交わりを形作ることがとても不可能であるような状況があることを私共は知っています。「離婚は絶対に許されない」という結論をここから引き出すことが、イエス様がお語りになったことを正しく受け取るということではないのです。
 大事なことは、右目をえぐられても右手を失っても大切にしなければならない人として、自分の夫を、自分の妻を愛しているかということなのです。そのような掛け替えのない人として相手を重んじ、愛の交わりを形作ろうとしているかということなのです。

5.誓ってはならない
 そこで次に来るのが、「誓ってはならない」です。これは、十戒の第三の戒、「主の名をみだりに唱えてはならない。」から派生して、レビ記19章12節「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」が元になった、口伝律法だと思われます。神様の名を用いて誓ってはならないとレビ記にありますので、当時人々は「天にかけて」「地にかけて」「エルサレムにかけて」「わたしの頭にかけて」誓っていたのです。どうして、そんなにまでして誓うのかということですが、それは自分の言葉が信じてもらえないからでしょう。日本でも「天地神明にかけて嘘ではない。」と言ったりします。
 自分の言葉が信じてもらえない、そういう状況は、既に愛が壊れていると言わざるを得ないでしょう。イエス様はここで、誓わなければならないような、自分の言葉を信じてもらえないような交わりを作るなと言われたのです。37節「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」と言われたのは、然りなら然りでそのように生きれば良い、否なら否でそのように生きれば良いということです。然りと言ったのに、途中で否と言って前言を覆すような生き方をするな。それでは互いに信頼して愛の交わりを形作ることは出来ない。そう言われたのです。
 しかし、状況が変わって、然りと言ったけれど否に変えなければならない、そういうことだってあるではないか。その通りです。その時には、相手にきちんと理由を説明して、納得してもらえば良いのです。このイエス様の言葉を、「然りと言ったら絶対に言うことを変えてならない」と新しい律法のように受け取っては、間違いだろうと思います。大切なことは、右目を失っても、右手を失っても、この人を大切にするという愛なのです。その愛の交わりを形作ることにおいて、言葉は大切なのです。嘘を平気で言っていたら、愛の交わりを形作ることなど出来るはずがありません。
 私が前任地に遣わされたのは1987年4月1日でした。その直前の3月21日に結婚しました。見合いをした時、その地に遣わされることは既に決まっておりました。そこには幼稚園がありました。私が招聘されました時には、私は単身でしたし、見合いもまだしていなかったので、教会の方も、私が独りで赴任すると思っていました。ですから、「幼稚園の方は、事務をしてください。園長は教会員の誰かを立てます。」そういうことでした。その後、見合いをして結婚が決まり、富士美さんに「東舞鶴教会に行ったら、私は何をすれば良いのですか。」そう聞かれた時、私は「何もしなくていいんじゃない。牧師夫人ですね。」と答えたわけです。ところが、4月1日に行きますと、何とその場で、「富士美さんは園長の資格があるということなので、園長をしてください。」と言われたのです。突然の申し出に二人ともびっくりしてしまい、思わず「はい。」と言ってしまったのです。私は富士美さんに後で「嘘つき。」と言われました。私も知らなかったことですし、嘘をついたわけではないけれど、然りが否になってしまったわけです。でも、富士美さんも納得してくれたので良かったわけです。

6.愛の交わりを形作る
 夫婦の関係、或いはその他の愛の交わりというものは、「お互いに」ということです。一方だけが相手を大切に思っていても、相手がそうでなければ成立しないのです。神様と私共の関係もそうです。神様はその独り子を与えるほどに私共を愛してくださいました。私共がそれに応えて神様を愛さなければ、愛の交わりにはならないでしょう。神様は、律法を形だけ守っている人々に対して、愛を問うたのです。そして、この愛にあなたも生きるようにと招かれた。私共は、この招きに応えて、この愛の交わりの中に生きる者とされているのです。
 神様は御子を遣わして、愛の交わりを形作るということがどういうことなのかを教えてくださいました。イエス様は夫婦の関係というものを取り上げ、それが愛の交わりとして形作られていくには、神様の御業として結婚を受け止め、お互いに神様の御前に歩む者として相手を重んじ、嘘をつかず、誠実でなければならないということを示してくださいました。でも、愛の交わりが破れることがあるではないか。自分の右の目、右の手を失っても本当に相手を大切にしていけるのか。自分はそう思っても相手はそうじゃない、と言いたいことだってあるでしょう。確かに破れることがある。しかし、イエス様はまさにその破れに立ってくださり、十字架にお架かりになったのでしょう。私共の愛が破れる時、そこで本当に我が身を引き裂いて、苦しみをお受けになっているのはイエス様なのです。十字架とはそういうことです。そのイエス様が、姦淫するな、離縁するな、誓うな、と言われた。だから私共は、愛の交わりに破れても立ち上がり、もう一度愛の交わりを形作る歩みへと歩み出していこうと、一歩を踏み出すのです。人間なんて信用出来ない。愛なんて絵空事だ。そんな所で開き直らない。そうではなくて、もう一度やってみよう。その一歩を踏み出す者として、私共は召し出されているのです。

[2017年1月15日]

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