富山鹿島町教会

礼拝説教

「富は天に積みなさい」
申命記 7章11〜18節
マタイによる福音書 6章16〜21節

小堀 康彦牧師

1.受難週を迎えて
 今日から受難週に入ります。来週の主の日の礼拝はイースター記念礼拝となります。週報にありますように、火曜日から金曜日まで毎日二回ずつ、午前と夜に受難週祈祷会が持たれます。そのすべてに参加するのは難しいでしょうが、どうぞ一回は受難週祈祷会に参加して、イエス様の御苦難を覚えつつこの一週を歩み、イースターを迎えていただきたいと思います。
 私共は受難週を歩んでいくのでありますが、その間、私共は確かにイエス様の御苦難を、十字架を、心に刻むようにして歩んでいくわけです。しかし、この受難週の日々はイエス様が苦しまれたことを心に刻むのだから、私共も暗い顔をして目を伏せながら歩むということではありません。私共はイエス様が復活されたことを既に知っています。この受難週の間だけはイエス様の復活を忘れて、ただ御苦難のイエス様の姿だけを心に刻む。そういうことは出来ないでしょう。私共にとって、イエス様の十字架と復活は一繋がりの出来事です。イエス様の復活を忘れて十字架のイエス様の姿を心に刻むなどということは、出来るはずがありません。何故なら、私共は復活されたイエス様の救いの恵みに既に与っているからです。

2.神様の御手の中に生かされていることを知る者となって
 イエス様の救いに与った私共は、喜びと平安の中を歩む者にしていただきました。神様を「父よ」と呼んで祈りをささげ、神様との親しい交わりの中に生きる者となりました。それは神様の守りと支え、導きの中に生かされていることを知ったからです。神様を知らなかった時、私共はただただ自分の力・能力・持っているものだけを頼りとしておりました。それ以外に頼るべきものがあるということさえも知らなかったからです。すべてを自分でどうにかしなければいけないと思い、また、どうにか出来るかのように思い違いをしておりました。自分の命さえもです。まるで自分で生まれてきて、自分一人で大きくなったかのように思い違いをしておりました。しかし、まことの神様を知って、自分の命はこの方によって与えられ、支えられ、守られていることを知りました。私共が本当に頼りとすべき方はただ神様であることを知りました。神様は独り子さえも与えてくださるほどに私共を愛してくださり、天地のすべてを造り支配される全能の力をもって私共を守り、支えてくださっている。しかも、永遠から永遠まで生き給うお方であり、それ故に私共は、この地上の命が終わってもこの方の御手の中に生かされ、永遠の命までも与えられることを知りました。何とありがたく、大安心なことかと思います。このありがたい大安心の中に生きる私共に求められていることは、ただこのお方を信頼することです。この方の御前に生きている、生かされている、そのことをしっかり受け止めて生きるということです。この方のまなざしの中を生きるということです。

3.断食
 さて、イエス様は6章から三つの善き業について語られます。1〜4節は施しについて、5〜15節は祈りについて(ここでイエス様は「主の祈り」を与えてくださいました)、そして16〜18節が断食についてです。この三つの業は、当時のユダヤ教において大切にされていた善き業です。「施し」や「祈り」が大切だということは私共も受け継いでおります。しかし、「断食」についてはあまりピンとこないのではないかと思います。現代の日本で断食と言えば、ダイエットとか健康のためにということなってしまうのでしょうが、ここで言われている断食は勿論そういうことではありません。断食というものは、多くの宗教に見られるものですけれど、何故断食をするのか、この断食の意味については、それぞれの宗教によって違っています。ユダヤ教においては、人間の生命を維持するための大切なものである食欲、それを断ってまで自らの罪を悔い、赦しを求める。言うなれば、命がけで罪の赦しを求めるというのが断食の本来の意味でした。
 ユダヤにおいては秋の祭りである新年祭の時に、大贖罪日(ヨム・キプル)と呼ばれる日があり、この日にはすべての人が断食しなければなりませんでした。レビ記16章29〜31節「以下は、あなたたちの守るべき不変の定めである。第七の月の十日にはあなたたちは苦行をする。何の仕事もしてはならない。土地に生まれた者も、あなたたちのもとに寄留している者も同様である。なぜなら、この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪責が主の御前に清められるからである。これは、あなたたちにとって最も厳かな安息日である。あなたたちは苦行をする。これは不変の定めである。」とあります。「苦行」と訳されているのが断食です。この大贖罪の日、ヨム・キプルの日の断食は、大贖罪日が始まる日没から次の日の日没まで何も摂らない、水も摂らないというものです。断食が始まって夕食と朝食を抜くぐらいならば簡単だと思うかもしれまんが、昼頃からは動くことさえ辛くなるとのことです。これは脱水症状によるものと考えられますが、大変厳しいものです。これは公の断食ですが、イエス様の時代にはファリサイ派の人々が月曜日と木曜日に断食をしていたようです。こんな断食を週に2回も行ったら体を壊すのではないかと思いますけれど、彼らはそれを誇っておりました。

4.人の目と神様のまなざし
 イエス様は、施しについても、祈りについても、それ自体が悪いとは言っていません。イエス様が問題にされたのは、それを人に見られるように、人に見せるように行い、神様ではなくて人に認められよう、信仰深い人だと賞賛されようとするあり方が間違いだと指摘されたのです。断食も同じです。本来、ただ神様の御前に自らの罪を悔い、赦しを求めるために行う行為を、人から賞賛されるために行う。それでは何のためにしているのか分からないでしょうということです。
 ここで問題になっているのは、人の目です。神様のまなざしよりも人の目を気にする。それは、神様の御前に正しいあり様ではないということです。私共の為すことに報いてくださる神様。その方の御前に生きる。それが何よりも大切なことなのです。私共の信仰とはそういうものです。「神の御前で(コーラム・デオ)」です。
 神様のまなざしではなく人の目を気にして行動する人を、イエス様はここで偽善者と言っておられます。「日本の文化は恥の文化、キリスト教の文化は罪の文化」と言ったのは70年前に『菊と刀』を著したルース・ベネディクトですが、大筋においては当たっていると思います。恥の文化というのは、いつも周りの人の目を気にして生きる文化です。私共は日本人として生まれ育つ中で、こういうものを否応なしに身に付けています。しかし、イエス様に出会って、全く違う心のあり様を示されました。それが「神の御前で」です。神の御前に生きるというあり方はすぐには身に付かないかもしれませんが、ここに生き始める時、私共はまことに自由な者とされることに気付くでしょう。
 最近、忖度(そんたく)という言葉がよく聞かれます。今年の流行語大賞になるのではないかと思うほどですが、この忖度というのはまさしく人の目を気にして生きる日本的なものだと思わされます。忖度のすべてが悪いとは思いませんけれど、やはり「神の御前で」ということがないと、私共は何を求め、何を目指して事を為しているのかが分からなくなるのではないかと思うのです。

5.頼るべきは富にあらず
 私共を縛っているのは人の目であることをイエス様は指摘なさいましたが、その他にもう一つあるのです。それは富、お金です。お金が嫌いという人はいないでしょう。しかし、このお金というものがどれほど私共を不自由にするか。私はいつも思うのですが、富というものは、私が所有しているようで、いつの間にか富が私を捕らえる、私の方が富に捕らわれてしまう、そういうものなのではないかと思います。それほどまでに富の力というものは強力なのです。イエス様はそのことをよく御存知でした。ですから、19節「あなたがたは地上に富を積んではならない。」、20節「富は、天に積みなさい。」、そして24節「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と告げられたのです。
 どうして富が力を持つのか。それはこの地上の世界の営みが、すべてお金というものを媒体として為されているからでしょう。何をするにもお金が必要。生きていくためにはお金がなければならない。どうしても必要なものだからお金に頼る。そういうことなのでしょう。政府が言うことも、いつも、「私に任せればお金を今より手に入れられます。暮らしが楽になります。」そんなことばかりです。イエス様はお金は要らないとは言われません。この世界で生きていくのにお金は必要でしょう。しかしそれは、私共が本当に頼るものではないのです。私共が本当に頼るべきなのは、ただ一人の神様のみ。このことがはっきりしないと、私共はお金を持っているようでいて、いつの間にかお金に支配されてしまう。富の奴隷になってしまう。それでは、決して幸いになることも平安を得ることも出来ない。神の民として生きることは出来ない。そう言われたのです。

6.神様が与えてくださったものの管理人として
 19〜20節でイエス様はこう言われました。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」地上の富は、どんなにため込んでも、いつどうなるか分からない。しかし、天に積まれた富は、減ることも失うこともないと言われる。確かに、地上の富というものは不安定なものです。ハイパーインフレーションが来れば、お金は紙くず同然になってしまいます。株を持っていても、不景気になって株価が下がれば大損します。だから金、ゴールドで蓄えるのが良い。金はさび付かず、虫が食ったりもしないから。そういう話ではありません。お金は必要なのです。しかしそれとどう関わるか、どうすればそれに支配されないか、どうすれば天に富を積むことになるのかということです。
 富を天に積むとはどういうことなのでしょうか。それは、神様の御心に従って富を用いるということ、自分が手にしているこの富の本当の所有者は神様であるということを弁えるということでしょう。「富」と訳されている言葉は、直訳すれば「宝」です。自分が一番大切にしているものです。そういう意味では、富はお金に限定することはないのかもしれません。自分が一番大切にしているもの。その本当の所有者は私ではなくて神様なのです。もっと言えば、私共が本当に一番大切にし、一番頼りにしているのは、神様です。もしその一番大切にし、一番頼りにしているものが神様以外のものならば、私共はそれを偶像とし、それを神としているということになります。そこに自由はありません。
 私共は神様からすべてをいただいております。この肉体の命も、お金も、時間も、能力も、家族も、すべては神様が私共に与えてくださったものです。私共はただその管理を任されている。私共はそれらの主人ではなく、管理人なのです。私は、この管理人という感覚はとても大切だと思っています。主人だと思うから、自分のものだと思うから、逆にそれに支配されてしまうのでしょう。自分のものでなければ、それに支配されることもありません。管理人に求められているのは、主人の考えに従ってそれを用いるということです。それが、天に富を積むということです。これは先程の断食についての教えにおいてイエス様が告げられたことと同じく、神様の御前に生きるということに通じます。

7.富のあるところに心もある
 イエス様は21節で「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言われます。これは、私共人間の心のあり方を鋭く見抜いた言葉です。何を大切にするか、宝とするか、そこに私共の心もある。地上の富が一番の宝、一番頼りとするものということになれば、それをどう守るか、増やすか。それに心を、時間を、労力を使って、それに支配されます。それは富以外でも同じでしょう。何かを集めるのが趣味という人は、それに心も富も労力も時間も使うでしょう。しかし、神様が一番という人は、自分の心も富も労力も時間も、神様の御業に仕えることに注ぐことになる。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と告げることによって、イエス様は、「あなたの心はどこにあるのか。」と問われているのです。「私の富は、私の心は、天にあります。」そうはっきり言える者でありたいと思います。
 人の目、この世の富。それは私共を惑わせます。何が一番大切であり、どのような者として生きるか。そのことをイエス様は私共にはっきり教えてくださっています。人の目ではなく、神様のまなざしに生きなさい。神様の御前に生きなさい。目に見える富ではなく、神様を第一として生きなさい。そこにこそ自由があり、平安があり、命がある。私共の地上の命はやがて閉じられます。その時まで、私共は神様に与えられた時間を、神様にすべてを任された管理人として生きるのです。「忠実な善い僕よ。」そう言って神様に迎えていただくために、この一週も神の子、神の僕として歩んでまいりたいと心から願うのであります。

[2017年4月9日]

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