富山鹿島町教会

礼拝説教

「澄んだ目をもって」
詩編 24編1〜10節
マタイによる福音書 6章22〜24節

小堀 康彦牧師

1.F教会のこと
 私は今日の午後、代務をしておりますF教会の総会に行きます。F教会は昨年の6月に主任牧師であったY先生を天に送り、地区長である私が代務者として責任を持つことになりました。主の日の礼拝を午後2時半から行うことにして、毎週、富山地区の牧師たちが交代で説教・聖礼典の奉仕をしております。F教会の方々は、正直なところ、これからこの教会はどうなるのだろうという不安と共に歩み始めたことと思います。幼稚園舎の建て替えと教会・牧師館の新築をしたばかりで、たくさんの借金も残っていました。そういう中でなんとか2016年度を歩み通したわけですが、何と教勢は礼拝出席者数が約4名も増えております。小さな教会ですから、これは3割増になります。転入したいという人も2名与えられております。嬉しいことです。神様はこの教会を守ろうとしてくださっている。そう思いました。また2016年度は山下・愛敬基金への返済も800万円返済することが出来ました。奇跡を見ているようです。私はF教会を「奇跡の教会」と言ってきましたが、今回もまた、神様の奇跡を見せていただきました。主は生きておられます。
 今朝はどうしてもこのことを皆さんに報告したいと思いました。F教会の現状は決して楽観出来るものではありません。借金返済もまだあり、増えたと言っても礼拝出席17名ですから、牧師を招くことが出来る状況にはありません。しかし、神様が共にいてくださって道を拓いてくださる。そのことを私は信じて、F教会のために祈り続けております。どうか、皆さんも祈りに覚えていただきたいと思います。

2.目が澄んでいれば全身が明るい
 今朝私共に与えられております御言葉において、イエス様は「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」と告げられました。この目というのは、勿論、肉体の目のことではありません。心の目、或いは信仰の目と言って良いでしょう。イエス様はここで、私共を家にたとえているのだと思います。当時の家は、今私共が住んでいるような、窓が大きくとってあり、ガラスを通して太陽の光を十分に採り込むことが出来る、明るい家ではありません。明かりを採る窓は、大抵、小さなものが一つあるだけです。ですから、家の中は昼間でも薄暗いのです。それでも窓があるから家の中に何があるか分かりますし、作業も出来るわけです。その窓がふさがれてしまえば、部屋の中は真っ暗になってしまいます。そのように、私共の目が外の光をちゃんと受けることが出来れば明るいし、受けることが出来なければ暗い、と言われるのです。
 「目が澄んでいる」という言葉は、少し変な訳になってしまいますが、「目が素直である」「目が単純である」とも訳せます。「目が濁っている」というのは、その逆です。神様の御支配、神様の光、それを素直に単純に受け取るかどうかということです。
 大切なのは外からの光です。光は外から差し込んでくるのです。その光とは、神様の光であり、イエス様の光です。その光をちゃんと受けるためには「目が澄んでいなければならない」とイエス様は言われた。それは神様の愛を、神様の御支配を、単純に素朴に信じて受け止めていくならば明るいが、それを受け止めることが出来なければ、信じることが出来なければ暗くなるしかない。そういうことです。全身が明るいというのは、私共の歩みのすべてが明るくなるということでしょう。

3.神様に対して素直に
 私共の信仰において、この「素直に」「単純に」ということがとても大切なのではないかと、この歳になって私はいよいよ思うようになってきました。この素直さ、単純さということについてイエス様は、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイによる福音書18章3節)と言われました。「子供のようになる」とは、幼子が神様を受け入れる単純さ、素直さを言っています。子どもには罪が無いというようなことではありません。子どもだって意地悪はするし、嘘もつきます。しかし、神様・イエス様に対しての素直さ、単純さにおいては実に驚くべきものがあります。
 教会学校の子どもたちも、小学2年生くらいまでは神様・イエス様に対して実に単純です。素直です。天地創造の話をしても、神様がすべてを造られたということを単純に受け入れます。ところが、子どもも成長して段々大きくなりますと、単純ではなくなってくる。小学校の3年生、4年生くらいになると、イエス様の為された奇跡に対しても、「そんなの出来るの?」なんて反応をするようになってくる。皆そうなのです。誰も幼子のままでいることは出来ません。色々な知恵がつくと共に、いつの間にか神様に対しての目が濁ってくるのです。神様の御支配の中に生かされている幸いを見ずに、自分の頑張りで手に入れる諸々のものに目が行ってしまう。そして、それを手に入れると自分はなかなかの者だ、大した者だと思い始める。しかし、その結果、人は明るくなれるかと言いますと、そうではないのです。頑張っても必ず思い通りになるわけではありませんから、失敗すれば落ち込みますし、いつも頑張らなければというストレスの中で生きることになる。何かを手に入れますと、それを手放すまいと必死になる。少しも明るく生きられないのです。

4.私共の目を濁らせるマモン
 私共の信仰の課題はいつも、この神様に対しての素直さ、単純さを回復するというところにあるのではないでしょうか。神様に対して澄んだ目を持つようになるということです。
 では、どうして私共の目は、放っておけば澄んだものにならずに濁ってしまうのでしょうか。イエス様は24節でこう言われています。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
 ここで、神と富が並んで出てきます。ここで富と訳されている言葉は、「マモン」という言葉です。前回の21節で「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言われた時に用いられていた富とは、別の言葉です。「マモン」は富・宝を意味するヘブライ語をそのままギリシャ語に写したもので、しばしば「マモンの神」という言い方がされます。この「マモン」という言葉そのものには、神などという意味はありません。ただの富・宝という意味の言葉です。しかし、この富・宝というものが、まるで神であるかのように力を持つ。そして偶像となる。マモンの神となる。そのような私共の心の動きを知って、イエス様はこのマモンを神様に対立するようなものとして、神様と並べてお語りになったのでしょう。  私の主人は神様だけ。イエス様だけ。それがいつも貫かれていれば、私共の信仰の目は澄んでいるわけです。ところが、富の誘惑、マモンの誘惑というものがある。この誘惑に負けてしまいますと、目が濁ってくるということではないかと思います。
 このマモンというのは、私共にとりまして富だけではなくて、この世の立身出世であったり、地位だったり、名誉であったり、実に色々な形に変化します。神様以外の、自分を虜にするような魅力を持つものすべてがマモンになり得ると言って良いでしょう。それらはすべて偶像となり得るからです。
 イエス様は富そのものを否定しているわけではありません。お金がなければ生活出来ないではないか。伝道するにもお金は要る。その通りです。しかし富は、どこまでも道具でしかないのです。私共が神様の御心に従ってこの世を生きていくための道具です。その道具に心を奪われてしまいますと、私共が生きている、神様に生かされている、その目的が何であるのかが分からなくなってしまいます。挙げ句の果てに、これだけ富を持っているのだから自分は偉いのだ、などということになりかねない。
 私共の主人は、いつでも、どこでも、どんな時にも、神様だけです。十戒の第一の戒、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。」この戒に生きる。この戒に生きる時、私共は明るいのです。マモンを始めとした様々な誘惑から守られ、御国に向かっての歩みを確かにしていくことが出来ます。
 このマモンはしばしば、「現実的に考えろ。」というささやきをもって私共に近づいてきます。この「現実的に」という言葉はなかなか曲者です。神様の御業、神様が生きて働いておられるということを抜きにして考えることを、「現実的」と言うことがあるからです。しかし、この世界を造り、支配されておられるのはただ独りの神様ですから、神様抜きで考えるのは、実は少しも現実的ではないのです。私共は神様によって生かされているのです。そこで課題も与えられている。その課題を担いつつ、神様の御支配を信じて、為すべきことを、為せるだけ、精一杯為していく。それが私共の歩みでしょう。神様が生きて働いて事を起こし、道を拓いてくださるのです。私共は、その時にいつでも「はい。」と言って従うことが出来るように、今出来ることを精一杯為して備えておくのです。それが信仰を与えられた私共の考える「現実的」ということだと思います。私共が駐車場用地取得のための特別献金を始めたのは、そういうことです。

5.神と富とに仕えることはできない
 さて、イエス様は「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と告げられました。このイエス様の言葉を丁寧に、きちんと読まなければなりません。私共はしばしばこれを読み間違えるのです。このイエス様の言葉を「神と富とに仕えてはいけない。」という風に読み間違える。ここでイエス様は「いけない」と言われたのではなくて、「できない」と言われたのです。主人を二人持つことは出来ない。当たり前のことです。イエス様の時代には奴隷がいました。一人の奴隷が、二人の主人を持つことが出来るでしょうか。出来るはずがありません。それと同じです。出来ないのですから、そんな風になってはいけない、と気遣う必要は全くありません。「いけない」と読んでしまうのは、「出来る」と思っているからでしょう。神様と富との間で、どのように折り合いを付けたら良いだろうかと悩んでしまう。そんなことで悩む必要は全く無いのです。出来ないのですから。私共は、まことに自由なのです。
 神様・イエス様が私共のただ独りの主人であり、私共は神様の僕です。そうであるならば、私共はマモンに仕えることは出来ません。富は利用するけれど、どこまでも道具として用いるだけです。ここに私共の自由があります。富を始めとする、目に見える一切のものは、私共を虜にすることは出来ません。神様がただ独りの主人だからです。どんなに魅力的なものであったとしても、私共がそれを手に入れるために生きる、そんなことはあり得ないのです。もちろん、お金は大切です。それを得るために働くことも大切なことです。しかし、それを得て何に用いるのか、そのことはもっと大切なのです。私共は神様に仕える者として、持っているすべてのものを用いていく。それが僕の、主人に対してのあり方だからです。
 この信仰の単純さ、素朴さは、私共の信仰に徹底性を与えてくれます。信仰も大切だけれど、これも大切、あれも大切。そう思うのは、神と富とに仕えることが出来る、仕えようとしてしまう、そういう私の心があるからです。しかしイエス様は、それは出来ないと言われる。出来ないことをしようとしなくて良いのです。出来ないことは出来ないのですから。33節でイエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と言われました。神様だけを主人として、このお方のみに仕えるということを、イエス様は別の言い方として「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と言われたのです。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」イエス様がそう約束してくださっているのですから、このイエス様の約束を単純に信じて、私共は安心して神様に従っていけば良いのです。

6.Kさんのこと
 昨日ここで、北陸学院大学同窓会富山支部の総会がありました。私が開会礼拝をして、その後でKさんが少し話をしてくださいました。Kさんは北陸学院大学の卒業生で、30年間にわたってアジアの貧しい子どもたちを応援し、また被災地への支援を行っている人です。そのエネルギッシュな歩みにただ脱帽するばかりだったのですが、今は内戦状態のシリアに学校を建てるために尽力されているそうです。このチラシは受付に置いてありますので、協力してくださる方はチラシを見ていただきたいと思います。今もシリアにコンテナで何万着という衣服を送っているそうです。一回の送料が50万円かかるとのことでした。服を集めることも送料を集めることも大変だろうと思いますけれど、Kさんの歩みにおいて、富は道具であるということがはっきり示されていて、本当にすがすがしい思いがいたしました。
 イエス様は「神と富とに仕えることはできない。」と言われ、ただ神様にのみに仕える者としての自由の中に生きることが出来るよう、私共を招いてくださいました。神様がすべてを支配しておられます。この御支配を信じて、神様の招きに応える者として、澄んだ目で神様を見て、この一週も歩んでまいりたい。そう心から願うのです。

[2017年4月23日]

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