富山鹿島町教会

礼拝説教

「祈りは必要ですか」
フィリピの信徒への手紙 4章4〜7節
出エジプト記 17章8〜16節

小堀 康彦牧師

1.祈りは必要?
 富山駅で「あなたにとって祈りは必要ですか。」と尋ねたら、どんな答えが返ってくるでしょうか。何らかの宗教を自覚的に信じている人は、「必要です。」と答えるでしょう。しかし、それ以外の人は、「特に必要とは思わない。」と答えるのではないかと思います。或いは、この問い自体が分からない。「祈り?」とけげんな顔をされるだけかもしれません。しかし「祈ったことがありますか。」という問いであったなら、多くの人が「祈ったことはある。」と答えるだろうと思います。実際、あるキリスト教系の大学で新入生に「祈ったことはありますか。」というアンケートをとったら、ほとんどの生徒が「祈ったことがある。」と答えたそうです。更に、「どんな時に祈りましたか。」というアンケートに対しては、「受験の時。」とか「家族が病気になった時。」といった答えが返ってきたそうです。多くの日本人にとって、祈ることは日常的な行為ではないけれど、困った時には祈ることもある、そんな感じかもしれません。

2.祈りを学ぶ
 私共もイエス様に出会う前は、祈るということに対して、そのような感覚ではなかったかと思います。しかし、今はそうではないでしょう。実に、信仰が与えられる、キリスト者になるということは、神の民となるということは、祈る者になる、祈りが必要な者になる、と言い換えても良いと思うのです。
 今日は五月の最後の主の日ですので、旧約聖書から御言葉を受けます。出エジプト記を読み進めておりますが、今朝与えられている御言葉は、イスラエルの民がエジプトを脱出し、初めて他の民と戦った時のことが記されております。この出エジプトという出来事は、エジプトにおいて奴隷のような状態であったイスラエルの民が、エジプトを脱出し、アブラハム・イサク・ヤコブに対して神様が約束してくださった土地カナンへと旅を続けた出来事ですけれど、この旅はイスラエルの民が神の民へと変えられていく、そのような神様による教育プログラムに満ちた旅であったと見ることも出来ます。この旅においてイスラエルの民は祈ることを知る。祈ることを学んでいった。祈る民になっていった。そう言っても良いだろうと思います。
 今朝与えられております、イスラエルの民がアマレクと戦った出来事において、注目すべきはモーセの祈りです。モーセは祈る者として神様に立てられました。そして、このモーセの祈り、祈る姿、それがイスラエルの民に祈ることを教えることになった、その典型的な場面です。

3.アマレクとの戦い
 8節を見てみましょう。「アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、」とあります。アマレクと言いますのは、シナイ半島から死海の南の地方エドムにかけて住んでいた遊牧民です。彼らの先祖はエサウでした。イスラエルの民がレフィディムに来ると、アマレクが襲ってきたのです。申命記25章17〜18節には「あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。」と記されています。この時イスラエルはアマレクに突然襲われて、戦うしかなかったのです。これがエジプトを脱出したイスラエルが経験する、初めての他の民との戦いでした。どうしてアマレクがイスラエルを襲ったのか、それは分かりません。自分たちの生活圏にイスラエルの民が入ってきた。しかも数十人という単位ではなくて、何万という人々がやって来たのですから、彼らとしては自分たちの生活圏を守るために攻撃したということなのかもしれません。或いは、この土地において水は大変貴重でしたから、水の無かったレフィディムに泉が湧いたことを知り、それを奪おうとしたのかもしれません。いずれにせよ、イスラエルはアマレクと戦わなければならなくなりました。
 この時、モーセはヨシュアに対して、9節「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」と告げます。ヨシュアは後にモーセの後継者となる人ですが、この時はまだそのような立場ではなかったと思います。「従者ヨシュア」という言い方が他の所でされていますので、ヨシュアはモーセの従者であり、いつもモーセと一緒にいたのかもしれません。ヨシュアはモーセに命じられた通り、イスラエルの中からアマレクと戦う者を選び出して、アマレクと戦いました。この時モーセは何をしたかといいますと、ヨシュアに率いられたイスラエルとアマレクとの戦いがよく見える丘の頂に立ちました。そして、祈ったのです。11節「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」とありますが、この「モーセが手を上げる」という姿は、祈りの姿を意味していると考えて良いでしょう。古いイスラエルの祈りの姿は、両手を天に向けて上げるというものでした。ここでイスラエルは、二つの戦いをしています。一つは、ヨシュアに率いられた人々によるアマレクとの実際の戦いです。そしてもう一つは、モーセによって為された祈りの戦いです。
 ヨシュアに率いられた人々によるアマレクとの戦い。武器は石と棒くらいしかなかったと思います。もっともアマレクにしても同じようなものだったでしょう。しかし、イスラエルは奴隷としてエジプトにいたのですから、一致団結して敵と戦うなどということは、したことがありません。経験がない。一方、アマレクはイスラエルを襲ったのですから、戦うということを知っていた。経験があった。そう考えて良いと思います。ですから、実際の戦いはアマレクに有利だったと思われます。

4.祈りの戦い
 しかし、この戦いは、そのような戦力と戦力がぶつかり合う、それだけのものではなかったのです。モーセがイスラエルのために祈るという、実際の戦いには何の役にも立ちそうにない、しかし決定的に重大な戦いが丘の上で為されていたのです。そして、この祈りの戦いこそが、イスラエルに勝利をもたらしたと聖書は告げているのです。
 11〜13節「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。」とあります。モーセは両手を上げて祈っていたのですが、疲れるわけです。ですから、手を下ろす。祈るのをやめる。そうすると、アマレクが優勢になる。それで、モーセは再び手を上げて祈る。すると、今度はイスラエルが優勢になる。しかし、戦いが長引きますと、モーセはいよいよ疲れてくるわけです。初めはモーセは立っていた。しかし、疲れますので、アロンとフル(このフルという人は、モーセの姉、ミリアムの夫ではないかと言われています)が石を持って来て、モーセを座らせるのです。さらに、モーセが手を上げていられなくなると、二人はモーセの両側に立って、モーセの手を片方ずつ支えたので、モーセは両手を上げ続けた。つまり、祈り続けた。そうして遂に、ヨシュアたちはアマレクに勝利したというのです。
 ヨシュアはモーセの祈りの姿を丘の下から見ていたのではないかと思います。ヨシュアだけではありません、アマレクと戦っているイスラエルの戦士たち、或いはアマレクとの戦いを見ているイスラエルの民たちも、モーセの祈る姿を見ていた。モーセが手を上げて祈るとアマレクを押し返し、モーセが手を下ろして祈るのをやめるとアマレクに押し込まれる。ここで、自分たちの戦いはモーセの祈りによって支えられ、強められている、そのことを知ったのだと思います。ヨシュアだけではなく、戦士たちもイスラエルの人々も皆、戦況を見ると共にモーセの祈る姿を見て、このアマレクに対する勝利が祈りによる勝利であることを知ったのです。

5.祈りの力によるのではなく、ただ神様によって
 ただここで一つ確認しておかなければならないことがあります。それは、この勝利がモーセの祈りの力によってもたらされたものではないということです。勝利をもたらしたのは神様御自身です。このことははっきりさせておかなければなりません。確かに、モーセが祈り、イスラエルは勝利しました。しかしそれは、モーセの祈りによる不思議な力によってということではないのです。
 このアマレクとの戦いにおいて、実際に戦ったのはヨシュアたちです。かつて、エジプトから脱出した時、前は海、後ろはエジプト軍という絶体絶命の状況の中で戦ったのは、神様御自身でした。イスラエルは何もしていなかった。海に道を拓くという神様の起こされた奇跡によって助けられたイスラエルでした。しかし今回は、イスラエル自身が戦わなければなりませんでした。でも、事柄としては同じなのです。神様が戦い、勝利を与えられたのです。そして、そのことをはっきり示しているのが、モーセの祈りなのです。良いですか。このアマレクに対する勝利は、モーセの祈りの力によってもたらされたのではなく、神様によって与えられたものです。ですから、この勝利においてほめたたえられたのはモーセではなく、神様なのです。モーセの祈りは、神様が戦ってくださるように願い求める祈りです。モーセは、自分の祈りの力によってイスラエルを勝利に導こうとしたのではありません。
 自らの祈りの力によって事を起こし、自分の願う結果を得ようとする祈り。それを呪術と言います。日本人の祈りに対する理解の根っこには、この呪術がいつもあります。平安時代に空海・最澄によって中国からもたらされた真言宗・天台宗という仏教は密教でした。密教には、祈って病を癒やす、祈って雨を降らせる、そういうものがあります。特別な祈りの言葉と祈りの作法によって不思議な力をコントロールして使うことが出来るという考えです。これが呪術です。しかし、モーセがした祈り、キリスト教会に与えられた祈りは、呪術ではありません。神様を愛し、神様を信頼し、神様に仕える者として、神様の御業のために自らを差し出し、主の御業が為されることをひたすら願い求める祈りです。主の祈りにおける第一の祈りは、御名が崇められますように。第二の祈りは、御国が来ますように。第三の祈りは、御心が天になるごとく、地にもなりますように、です。私の利益を神様に願い求めることが祈ることの中心にあるのではないのです。
 神様はこの祈りによる勝利によって、神の民イスラエルに、祈ることの必要性を具体的な出来事をもって教えたのです。

6.祈りについての三つの教え、特に執り成しの祈りについて
この出来事から私共は幾つものことを教えられますが、三つのことを見たいと思います。
 第一に、祈りは途中でやめてはいけないということです。神様のお働きよって勝利するまで祈らなければなりません。祈り続けるということです。
 第二に、祈りは一人でするのではないということです。モーセにはこの時、アロンとフルという助け手がおりました。一人で祈り続けていては、続かないのです。疲れるのです。祈りの友が必要なのです。一緒に祈る人が必要なのです。それは牧師にも必要です。
 第三に、モーセ自身はアマレクと戦ってはいません。実際に戦っているのはヨシュアに率いられたイスラエルです。つまり、ここでモーセが為している祈りは、執り成しの祈りであると言っても良いでしょう。私共の祈りにおいて、この執り成しの祈りがいかに重要であるかということです。
 ここで思い起こすのは、イエス様の祈りです。ルカによる福音書22章31〜32節にこうあります。ペトロの三度否みをイエス様が告げられた時です。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」このイエス様の執り成しの祈りによって、ペトロはイエス様を三度も否みながら、つまりイエス様を裏切ったにもかかわらず、復活のイエス様と出会い、再び召し出され、福音伝道のために生涯をささげる者となりました。イエス様はペトロのためだけに祈ったということではないでしょう。私共のためにも祈ってくださっているはずです。私共はこのイエス様の執り成しの祈りに守られ、支えられて、信仰の歩みをしているわけです。ですから、私共が執り成しの祈りをするということは、イエス様の執り成しの祈りに合わされる、イエス様と一つにされた者として祈るということなのです。週報に個人消息が載るのも、「このことのために祈ってください」ということです。
 先日、私共の教会の方ではありませんが、祈りのカードの話をしたところ、その方は実行されたのですね。カードに名前を書いて祈り始めると、あっと言う間に30分は過ぎてしまうものです。その人は言うのです。「先生、祈りのカードを作ったら祈らなければならない人がどんどん人が増えていくのですけれど、どうしたらいいでしょう。」これは実際に祈り始めると必ず出会う問題です。どんどん広がって、どこまで祈れば良いのか分からない。私はこう答えました。「祈る時間が日常生活に支障をきたすほどになってはいけません。勿論、祈りの時間を確保するために生活を整える必要はあります。それでも、限界はあります。そこで、ここまでということが自然と定まってきます。また、祈れば祈るほど、時間は短くなっていきます。余計なことを考えず、それに集中しますから。ですから、実際にやりながら決めていけば良いのです。」

7.十字架の旗を掲げて
 アマレクは、神の民に或いは神様に敵対する勢力の象徴と言って良いでしょう。アマレクとの戦いは今も続いています。モーセは、アマレクとの戦いを記念して祭壇を築き、それを「主はわが旗」と名付け、礼拝しました。私共にも旗が与えられています。十字架の旗です。このイエス様の十字架の旗を高く掲げて、神の民は御国に向かって前進し続けるのです。そして、この御国に向かっての歩みは、いつも祈りと共にあります。私共がイエス様によって救われた、神の民とされたということは、イエス様の御名によって祈る者とされたということです。
 私共は、この地上の歩みにおいてはいつでも課題があります。しかし、その課題によって私共は祈りへと向かわされるのでしょう。自分の課題にばかり目を向けていてはなりません。その課題を共に祈ってくれる友が、ここにはこんなに大勢いるではありませんか。そして私共は、自分が祈ってもらうと共に、他の人の課題のためにも祈る。この執り成しの祈りにおいて、私共はイエス様と一つにされた者であることを明らかにされるのです。教会は、この祈りの交わりとして建てられているのです。

[2017年5月28日]

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