富山鹿島町教会

ペンテコステ記念礼拝説教

「聖霊によって注がれる神の愛」
歴代誌 下 24章15〜22節
使徒言行録 2章36〜42節
ローマの信徒への手紙 5章1〜5節

小堀 康彦牧師

1.ペンテコステ
 私共は今朝、ペンテコステを記念する礼拝をささげています。イエス様は十字架にお架かりになって死に、三日目に復活されました。そして40日間、その御姿を弟子たちに現されて、天に上られました。それから10日後、神の霊でありイエス様の霊である聖霊が弟子たちに注がれました。それがペンテコステの出来事です。このペンテコステの出来事によってキリストの教会が誕生しました。ですから、ペンテコステは教会の誕生日とも言われます。ここで大切なことは、キリストの教会は弟子たちが集まって相談し、教会を作りましょうといって出来たのではないということです。イエス様の弟子たちに聖霊が注がれることによって建てられたのです。それはいつの時代でも変わりません。キリストの教会は聖霊なる神様によって建てられ続けてきましたし、今も建てられ続けています。聖霊なる神様は教会を建てることによって、その教会に臨んで御業を為すことによって、イエス様が成し遂げられた神様の救いの御業を継続しておられます。私共はその聖霊なる神様の御業に与り、信仰を与えられ、罪を赦され、神の子とされました。ペンテコステの出来事は二千年前にあった出来事ですけれども、この出来事はその後に続く神様の御業の原点となったと言うべき出来事です。この聖霊なる神様による救いの御業は、イエス様が再び来られる時まで続きます。私共は今、この聖霊の時代に生きているのです。

2.聖霊が弟子たちに降る
 では、このペンテコステの日に何が起きたのか、聖書を見てみましょう。
 ペンテコステの出来事は使徒言行録2章に記されています。1〜4節をお読みします。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
 1節「五旬祭の日が来て」の五旬祭と訳されておりますのが、ペンテコステという言葉です。五旬祭と訳されておりますように、元々、50日という意味の言葉です。
 この日、弟子たちが集まっておりますと、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあります。何か怪奇現象のような、不思議な出来事が起きたと記されています。この出来事を説明するのは難しいですが、大切なことは、ここで「風」と言われていることです。この風(激しい風)という言葉は、旧約でも新約でも、霊を指す言葉なのです。聖書は「激しい風が吹いて来た」と言っているのではなくて、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」と言っています。つまり聖書は、「激しい風」をもって聖霊を指し、激しく聖霊が降ったということを表現していると読んで良いでしょう。
 この時何が起こったかと申しますと、4節「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とあります。弟子たちが聖霊によって色々な国の言葉で話しだしたというのです。まことに不思議なことです。しかし、この出来事はただ不思議な出来事だということではなくて、創世記11章にありますバベルの塔の出来事と対になっている出来事として読んだ方が良いと思われます。バベルの塔の出来事とは、天にまで届く塔を建てようとした人間を神様が裁かれて、人間を全地に散らされ言葉を混乱させた、つまり互いの言葉が通じないようになったという出来事です。塔を天にまで届かせようというのは、天は神様がおられるところですから、実に人間たちが自ら神になろうとしたということを意味しています。これがバベルの塔の出来事です。それに対して、ペンテコステにおいてはこのバベルの塔の出来事と正反対のことが起きたということです。つまり、神様の裁きによって互いに言葉が通じなくなっていた人間の言葉が再び通じるようになったということです。バベルの塔の出来事が神様の裁きとしての出来事であったのに対して、ペンテコステの出来事は神様の救いのしるしとしての出来事であったということです。神様の裁きによって言葉が通じなくなった人間が、再び言葉が通じるようになる。それが、ペンテコステの日に起きたことでした。
 この言葉が通じるという出来事こそ、イエス様の十字架による罪の赦しによって与えられ、聖霊なる神様の働きによって新しくされた人間、新しくされた共同体としての教会の姿なのだと聖書は告げているのです。言葉が通じるようになることによって、聖霊なる神様によって進められていく救いの御業が、やがて国や民族や人種や文化を超えて広がっていくことを示しているわけです。1800年かかってこの日本にまで、富山の地にも広がってきたのです。

3.通じる言葉としての洗礼
 今日二人の方が私共の教会に転入会されます。一人は香港で洗礼を受けた方、もう一人は黒部の教会で洗礼を受けた方です。この二人の方が洗礼を受けた教会を、私は具体的には知りません。しかし、はっきりしていることは、どちらの教会も「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けた」ということです。そのことを、両方の教会から薦書という文書をいただき確認いたしました。ですから私共は、このお二人の方に再び洗礼を授けることはせずに、兄弟姉妹として受け入れるのです。同じ救いの言葉を聞いてきたことを確認出来るからです。キリストの教会であるということは、ローマ・カトリック教会であれ、ギリシャ正教であれ、ルター派教会、聖公会、バプテスト教会等々、世界中にはそれこそ何万という異なる組織を持つ教会がありますが、その教会がキリストの教会である以上、共通の言葉を持ちます。それが、「父・子・聖霊なる神様による洗礼」です。これは、時代を超えて、国や民族を超えて、伝えられ受け継がれてきた教会の言葉なのです。
 また、このキリスト教会における共通の言葉には、使徒信条やニカイア信条に代表される世界信条・基本信条もあるでしょう。元々ギリシャ語において、信仰告白という言葉は「同じ言葉を語る」という意味です。教会が誕生したときからずっと、キリスト者たちはこの同じ言葉、互いに通じる言葉を語り続けてきたのです。それは、三位一体の神を信じるという信仰の言葉であり、イエス様の十字架と復活による福音であり、救いの言葉でありましょう。

4.ペトロの説教の三要点
 それでは、この時様々な言葉を語りだした弟子たちは一体何を語ったのか。それは2章14節以下の、ペトロの説教の中に記されております。このペトロの説教は、記念すべきキリスト教会最初の説教です。その後二千年の間、それこそ何百億回という気が遠くなるほどの説教が語られてきました。今日だけでも多分百万以上の教会で説教が語られています。一年で五千万。それが二千年間ですから、それくらいにはなるでしょう。それらの気が遠くなるほど語られ続けてきた説教の最初の説教、それがこれです。説教は様々な人々に向かって、様々な言葉で語られてきましたし、今も語られています。しかし、その要点としては次の三つの点に絞ることが出来るかと思います。
 第一に、イエス様は十字架に架かり、復活された。(=イエス様というお方の事実、イエス様によって為された救いの出来事)
 第二に、イエス様はメシア、キリスト、救い主である。
 第三に、だから、悔い改めて、洗礼を受けなさい。そうすれば、罪の赦しに与り、聖霊を受ける。
 この三つの点について、旧約を引用したり、語る対象に分かるように工夫をして語っているのです。
 この時は、ペトロはエルサレムの人々に向かって語ったので、聴衆は五十数日前にエルサレムで起きたイエス様の十字架の出来事を知っている。ですからペトロは、大胆に「あなたがたが十字架にかけたイエスこそ、救い主なのだ。それは復活によって証しされた。」と語りました。人々はこれを聞いて心を打たれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか。」と言ったので、ペトロは「悔い改めなさい。洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」そう告げたのです。これは迫力も説得力もある、本当にすごい説教だと思います。
 キリストの教会が説教し続けてきたことは、この三点に集約されると思います。この三点すべてについていつも語らなくてはならないということではないと思います。その中の一つの点を強調するということでも良い。しかし、この三点から全く離れた説教というものはないと言って良いと思います。第一に、イエス様の十字架と復活。第二に、イエス様は救い主。第三に、イエス様の救いに与りなさい。この三点を語る中で、罪の指摘もされるでしょう。色々なことが語られるはずです。40節で「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。」とある通りです。
 ペトロもこの時、色々な話をしたのです。このペトロの説教は五分もあれば読めてしまいます。しかし、ペトロがこの時に十分か十五分の説教しかしなかったというのは考えられません。一間も二時間も説教したに違いないと思います。でも、内容とすればこの三点に集約出来る言葉を語り続けたということなのでしょう。

5.キリスト者は礼拝者
 そして、これによってその日何が起きたかと言いますと、41〜42節「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」三千人もの人が洗礼を受けた。そして、その人たちは「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」に熱心であったというのです。生まれたばかりのキリストの教会において、この四つのことが熱心に為されていたということです。
 ここで、「使徒の教え」は説教、「パンを裂くこと」は聖餐、「祈ること」はそのままですね。つまり、これらは皆、礼拝の要素なのです。新しく生まれたキリストの教会は、何よりも礼拝することに熱心だったということです。多分この礼拝は、主の日の朝に為される主の日の礼拝だけを指してはいないと思います。きっと毎日ささげられていただろうと思います。主の日の礼拝は大切です。しかし、キリストの教会は、それだけ守っていれば良いなどと考えたことも教えたこともありません。私共の信仰の歩みは、主の日から始まり、次の主の日まで途切れることなく続くのであって、その時々に御言葉に親しみ、祈りをささげていくものでしょう。

6.相互の交わり、愛に生きる
 今日ここで注目したいのは、聖書がここで挙げている四つの内の一つ、「相互の交わり」ということです。教会は、イエス様の救いに与った者たちの集まりです。そこで、私共は何よりも神様に礼拝を献げ、神様を愛し、神様を信頼し、神様に従う者となりました。一切の罪を赦され、神の子としていただきました。神様との関係が新しくされた。神様との愛の交わりに入れられた。そこで生まれてくるのが私共の礼拝です。まさに礼拝こそ、聖霊なる神様の働きが最も明らかにされる場です。教会は何よりも礼拝する群れなのです。ここまでは皆さん了解されることでしょう。問題はその次です。この神様との交わりを与えられたキリスト者たちは、「相互の交わり」においても熱心であったと聖書は告げているのです。このことはとても大切なことです。「相互の交わり」とは、教会員同士の交わりということです。私共に注がれた神様の愛は、私共の中に神様を愛する愛と、主にあって一つとされた兄弟姉妹に対する愛を生じさせるということなのです。
 イエス様は最も大切な戒めは何かと問われて、第一に神を愛すること、第二に隣人を愛することと教えられました(22章37〜40節)。この愛は、私共の中から自然に生まれてくる愛ではありません。神様の愛が注がれることによって私共の中に生じる愛です。私共は、マタイによる福音書の山上の説教からずっと御言葉を受けておりますけれど、そこでイエス様は、とても出来そうにない愛の戒めを次々にお語りになりました。「兄弟に腹を立てるな」とか「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けよ」とか、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とか、どれもこれも「そんなこと言われても無理です。」と言いたくなるような戒めです。しかし、イエス様は無理難題を私共に押しつけようとされたのではありません。確かに、イエス様の告げられる愛の戒めの前に、「私は出来ます。」と答えることの出来る人はいません。しかし、それが出来ない私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになったイエス様が言われる。だから私共は、「出来ません。」で済ませることが出来ないのです。私共はこの十字架のイエス様の前に立って、「主よ、お赦しください。赦せないのです。腹が立つのです。そのような私を赦してください。そして、愛を与えてください。」そう祈るしかない。これが悔い改めです。そのような私共に向かって、イエス様はこう告げられます。「分かっている。あなたが愛せない悲しみの中にいることを、わたしは知っている。そのあなたのために、わたしは十字架に架かった。安心しなさい。あなたは赦されている。だから、隣り人を愛する者として新しく歩み出しなさい。出来ませんと言ってうずくまってはいけない。勇気を出しなさい。そのために聖霊をあなたに与えよう。大丈夫。さあ行きなさい。わたしの教会を愛で満たしなさい。」そう告げておられるのです。
 私共にはいつも欠けがあります。何よりも愛において欠けているのです。圧倒的に欠けているのです。しかし、そうであるが故に、私共は願い求めるのです。「愛において豊かにしてください。」と。この祈りは必ず聞かれます。何故なら、私共が神様を愛し、隣り人を愛することこそ、神様が私共に一番求めておられることであり、神様が私共に一番与えたいものだからです。私共は聖霊なる神様の御業の中で、少しずつ少しずつ変えられていきます。そして、その御業が完成する時、それが終末です。その日を目指して、私共はいよいよ神様を愛し、いよいよ隣り人を愛する者となるように、愛が増し加えられることを願い求めつつ、歩んでいくのです。それが聖霊なる神様の導きの中で歩むということなのです。

[2017年6月4日]

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