富山鹿島町教会

礼拝説教

「良い木は良い実を結ぶ」
エレミヤ書 7章1〜11節
マタイによる福音書 7章15〜23節

小堀 康彦牧師

1.偽善者を警戒せよ
 イエス様の言葉も業も、すべては私のためです。イエス様は私の救いのために語り、私の救いのためにすべての業を為してくださいました。ですから、聖書に記されているイエス様の言葉を聞く時、イエス様はこの言葉で私をどのように救いへと導こうとされているのか、そのことを聞き取らねばなりません。
 今朝与えられているイエス様の言葉は、「偽預言者を警戒しなさい。」という言葉で始まっています。預言者は、神様の言葉を伝えることによって人々を神様のもとに連れていく指導的役割を与えられている人です。しかし偽預言者は、神様の言葉を語っているように見えて実はそうではない、神様に仕えているようでいて実はそうではない、そういう人のことです。
 イエス様は、ここで偽預言者のことを言う時に、具体的な人々をイメージしておられたのではないかと思います。それはまず、律法学者やファリサイ派の人々のことです。彼らはイエス様の時代において、確かに信仰的指導者としての役割を担っていました。しかし彼らは、決して人々をまことの救いには導かなかった。イエス様は、ここで言葉には表していませんが、律法学者やファリサイ派の人々をイメージして言われたと思います。そしてもう一つ。イエス様の十字架と復活の後にキリストの教会が生まれるわけですが、そこに現れる偽預言者たちのことだろうと思います。偽預言者と言ってもピンとこないかもしれませんが、偽牧師と言えば分かりやすいかと思います。偽牧師とはいささか激しい言葉です。本当はこんな言葉は覚えないほうが良いのです。あの牧師は本物か、偽物か。そんな風に牧師を見るようになっては不幸でしょう。生涯そんな牧師には会わないほうが良いに決まっています。しかし、イエス様がそう言われたということは、そういう偽預言者は現れるものだということでしょう。だから「警戒しなさい。」と言われたのです。
 しかし、ここで偽預言者と言われて、「自分は信徒だから自分のことではない。」「牧師じゃないから関係ない。」そう聞いてしまうのは早合点というものでしょう。何故なら、偽預言者が現れるのは、そのような者を求める、そういう信仰のあり方が私共の中にあるからです。誰も相手にしないのならば、偽預言者が現れてもどうということはないのです。しかし、偽預言者を喜んで受け入れてしまう、そういう心、そういう信仰のあり方が私共の中にあるということなのでしょう。偽預言者は私共が生み出す、作り出す、そういう面がある。だからイエス様は、「警戒しなさい。」と言われたのではないでしょうか。

2.偽預言者
 順に見ていきたいと思います。まずイエス様は、偽預言者は「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」と言われました。「羊の皮を身にまとって」ということは、パッと見ただけでは分からないということですね。いかにも狼、という姿ではないのです。優しそうで信仰深そうに見える、しかし内側は貪欲な狼だと言うのです。狼は羊を食べてしまうものです。預言者は神様の羊を養いますが、偽預言者は羊を食べてしまう、自分の欲を満たすために羊を利用するということです。
 ここで、反社会的な宗教であるカルトというものを思い浮かべても良いと思います。「あなたの悩みを解決してあげましょう。」と近づいてきますが、本当はその人の財産だけが目当て。そんな宗教が山ほどあります。それをどうやって見分けるのか。イエス様は続けてこう言われます。16〜18節「あなたがたはその実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。これは、その人がどのように生きているか、何をしているか、それを見ればその人が分かるということでしょう。私は、中学校や高校の同級生の友人たちに、「その宗教が良いか悪いか、どうやって判断すればいいのか。」と聞かれることがあります。私は、とても単純に、「お金と性のことで問題を起こしている宗教はダメだ。」と答えています。難しい教理の話ではありません。宗教はそれぞれの教理を持っていて、それをすべて調べて、比較して、良いかどうかを判断するなどということはほとんど無理でしょう。しかし、その宗教がお金と性のことで問題を起こしている宗教なら、どんな立派なことを教えていたとしても、それは間違いなく狼です。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶのです。

3.聖霊の実としての愛
 ガラテヤの信徒への手紙5章22〜23節に、聖霊による実のリストが記されています。良い実は、聖霊によって与えられる実と言っても良いでしょう。こうあります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」これが聖霊の実です。確かにその通りだと思いますが、これをすべて身に付けているという人は見たことがないでしょう。これは、実にイエス様の御人格というものを言い表していると思います。聖霊は神の霊、キリストの霊でありますから、聖霊の導きの中でキリストに似た新しい人が私共の中に形作られるということです。もっとも、これらすべてが私共の身に付いているわけではありません。これらは少しずつ少しずつ、私共の中に形作られていくのです。
 ここで一番大切なのは愛でしょう。愛こそが、偽預言者と本当の預言者とをはっきりと分けるものだと言えます。しかし、ここで私共は自らの姿を省みて、ため息をついてしまうのです。愛があるかと問われれば、うつむくしかない自分がいるわけです。私はいつも祈りの中で、「愛を与えてください。」「謙遜な者にしてください。」と願い求めています。伝道者として、キリストの愛を証しし伝える者として、何と愛のない者かと嘆いているからです。ですから、愛がなければ偽預言者ではないかと言われると困ってしまう。まことの預言者である「しるし」が愛だと言われると、ほとほと困ってしまうのです。愛のない私は偽預言者なのだろうか。しかも、イエス様は19節で、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と言われるのです。では私は裁かれ、滅びるしかないのかとさえ思えてきます。

4.誰が天の国に入るのか?
 イエス様は続けてこう言われます。21〜23節「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」ここで「主よ、主よと言う者」というのは、主に祈る者ということでしょう。それが皆天の国に入るわけではないというのですから、ますます自分は天の国に入れるのだろうかと思ってしまいます。更に、「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」それでもダメだと言うのです。こうなると、一体誰が天の国に入れるのかと思ってしまうでしょう。ここで上げられているのは、これほど善い業はないというようなものです。これこそ良い実なのではないか。これほどの良い実を結んでもダメなら、一体誰が天の国に入れるのか。イエス様がここで何を私に言おうとされているのか、ますます分からなくなってしまいます。
 しかし、ここで立ち止まって思いを巡らしてみましょう。果たして私共は、主の裁きの場に立たされた時、ここでイエス様が言われたようなことを神様に向かって言うでしょうか。「わたしは預言をしました。悪霊を追い出しました。奇跡をしました。」そんなことを言うでしょうか。言わないでしょう。いや、言えないでしょう。私共はイエス様の前に立ったなら、「罪人であるわたしをお赦しください。愛のないわたしを憐れんでください。」そう言うしかないのではないでしょうか。そして、「ただイエス様の十字架の故にわたしを赦してください。」そう願い求めるしかない。
 そうなのです。イエス様がここで言おうとされたことは、イエス様の御前に立って自分の善き業を誇ろうとする者こそ、天の国にふさわしくない、天の国に入ることは出来ないということだったのです。自分には救いに値する、神様の御前で誇るべき何物もないということを知っている者こそ、天の国にふさわしいのです。イエス様はここで、律法学者やファリサイ派の人々をイメージしていると申しました。それは、自分の善き業によって天の国に入ろうとする者は決して入ることは出来ない、と告げられたということです。天の国に入ることが出来る者。それは、自分の善き業を一切誇ることなく、ただ罪人としてイエス様の憐れみを求め、イエス様の十字架に依り頼む者です。

5.良い木は良い実を結ぶ  偽預言者とは実に、イエス様の力によってではなく自分の力によって立つ者、イエス様の十字架に依り頼まない者、自分こそ大した者だ、正しい者だと思い違いしている者ということなのではないでしょうか。
 しかし私共は、どこかでそのような力ある預言者を求めてはいないでしょうか。力強い説教をし、人々を惹きつけ、悪霊を追い出し、色々な奇跡を行うことが出来る人。そんな人こそ自分たちの指導者にふさわしいと願い求めていないでしょうか。しかし、そのような思いこそが偽預言者を生み、羊が食い物にされる事態を招くのです。だからイエス様は、「警戒しなさい。」と言われたのでしょう。ヒトラーもそうでした。神の民、キリストの教会のリーダーとは、ひたすらにイエス様を、しかも十字架に架けられたイエス様を、言葉と行いと存在をもって指し示す者なのです。
 こう言っても良いでしょう。偽預言者は自らの栄光を求めるが、まことの預言者はただ神の栄光だけを求める。何故なら、イエス様御自身がそうだからです。イエス様は十字架にお架かりになったのです。まことの預言者だったからです。
 ですから、自分が神の代理人、或いは神だと言っている人は皆、偽預言者なのです。どんなに力がある者に見えたとしてもです。律法学者やファリサイ派の人々は、自分は正しいと思っていました。まことに信仰深い人のように見えました。しかしイエス様は、そうではないのだと告げられた。それは羊の皮を被った狼だと言われたのです。
 良い木とは、イエス様に依り頼む信仰です。自らの中に、救いに値する良きところなど何一つないことを知り、悔い改めて、ただイエス様による救いを求める信仰です。その信仰から生まれてくるキリスト者の歩みは、聖霊なる神様の導きを求め、ただイエス様に従っていこうとする歩みとなります。その歩みは、世の人々から賞賛されることもなく、奇跡が出来るわけでもなく、弱り果てた隣り人に寄り添って一歩一歩歩んでいくだけです。

6.悔い改めを求める預言者
 先程、エレミヤ書をお読みいたしました。7章4節に「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、空しい言葉に依り頼んではならない。」とあります。エレミヤが預言したのはバビロン捕囚の直前でした。エレミヤは、エルサレムに向かって悔い改めることを求めました。神様に立ち帰れ、そうしないとバビロンによって滅びると告げました。しかし、人々はエレミヤの言葉には耳を貸さずに、「自分たちにはエルサレム神殿がある。この神殿には神様がおられるからバビロンが来ようと何する者ぞ。」そのように告げる偽預言者の言葉に耳を傾けたのです。自らの罪を認めること、悔い改めることが嫌だったのです。エレミヤは人々から売国奴と罵られました。人々は偽預言者の言葉を聞いた。偽預言者の言うことはいつも同じです。悔い改めを求めないのです。しかし、本当の預言者が告げることは、その反対です。悔い改めを求めるのです。神様しか私共を新しくすることは出来ませんし、神様しか私共を救うことは出来ないからです。
 使徒パウロは、この信仰の筋道をはっきり知っていた人でした。ですから、コリントの信徒への手紙一13章の「愛の賛歌」と呼ばれる所で、こう記したのです。13章1〜3節「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら。やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしには何の益もない。」とあります。この愛はイエス様の愛です。聖霊なる神様によって与えられる愛です。この愛がなければ、どんなに信仰深そうに見える大いなる業であっても意味がないのです。私の言葉は「騒がしいドラ」「やかましいシンバル」になっていないか。私の神学的知識は愛と結び付いているか。私の奉仕の業は愛に基づいているか。そう探られるのです。
 イエス様は、私共が良い木となり、良い実を結ぶことを望んでおられます。そして、「自らの力によらず、ただわたしに依り頼みなさい。」と招いておられる。この招きに応え、聖霊なる神様の助けを求め、神様を愛し、隣り人を愛する者として歩んでいきたい。そう心から願うのであります。

[2017年6月11日]

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