富山鹿島町教会

礼拝説教

「偽りなき愛に生きる」
詩編 119編33〜40節
ローマの信徒への手紙 12章9〜17節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 先週の週報に記しましたように、七月の長老会において、毎月第三の主の日は伝道説教を行うということを決めました。改めてこのように申しますと、毎週の礼拝説教は伝道説教ではないのかと思う方もおられるでしょう。私としては、毎週の礼拝説教は伝道を意識して行っていない、ということではないのです。伝道というのは、イエス様の福音を伝えることですから、伝道的でない説教などというものはあり得ないと思っています。しかし、それをもっとはっきりした形で行おうということです。具体的には、一つのテーマを持って聖書に聞いていくということになるかと思います。

2.親子の愛、夫婦の愛
 今日はその最初になるわけですが、今日のテーマは「愛」です。
 愛という言葉を聞いて、私共は何を思い起こすでしょうか。夫婦の愛、親子の愛、家族の愛、友人との関係、若い人なら恋人などを連想するのではないかと思います。しかし、この愛という言葉は定義するのがなかなか難しい。愛とはこういうものだと言うのが難しい。そういう面があるかと思います。
 例えば、親子の愛と夫婦の愛を比べてみましても、随分違ったものではないかと思います。親子の愛というものは、まさに子どもがお腹に入った時から、親はその子と一緒に生きるわけです。子どもはなかなか親の思うようには育ちませんけれど、やっぱりどう見ても、子はその親に似ているわけです。そして、親は子に自分の時間も労力も注ぎ込んで育てますから、親は子に対して、切っても切れない愛情を持ちます。その子がどういう子であろうと、出来が良かろうと悪かろうと、愛着を持ちます。「出来の悪い子ほど可愛い」という言葉は、そのような親の愛のあり方を示しているのでしょう。
 一方、夫婦というのは、全く違った環境で育った者同士が引かれ合って、生涯この人と一緒に生きていこうという思いが与えられて始まります。そして、一緒に生活していく中で、深い愛着を持つようになっていくわけです。夫婦は、その初めから愛があるというよりも、共に生活していく中で愛が育まれていく、そういうものではないかと思います。結婚の準備会で私はいつも言うのですが、「あなたたちにはまだ愛はありません。」愛があるから結婚するのではなくて、結婚してお互いに愛を育んでいくのです。
 親子の愛と夫婦の愛は、愛という言葉で私共が連想する代表的なものでしょう。これが健やかならば、私共の人生はまことに幸いなものとなりましょう。しかし、これがしばしば破れるわけです。これは大変辛いものです。また、親子の愛も夫婦の愛も破れてはいないのだけれど、この二つがぶつかってしまうこともある。これが嫁姑の問題です。これもなかなか辛いものです。愛が破れると、私共は大変辛い思いをする。それは、私共が愛の交わりの中でこそ健やかに生きることが出来る者として神様に造られているからなのです。

3.神様の恵みとしての愛の種
 親子の愛、夫婦の愛。これは神様が私共に与えてくださった、とても大切な、大きな恵みです。こう言っても良いと思います。神様は私共が愛することを学ぶために、親子という関係、夫婦という関係を与えてくださいました。神様は人間を御自分に似た者として造られたと、創世記の第1章に記されております。この神様に似た者として造られたというのは、神様は愛のお方でありますから、愛の交わりを形作る者として人間をお造りになったということです。その愛の交わりの原型として、いちばん小さな単位として親子や夫婦という関係を与えてくださった。そういうことなのだと思います。
 つまり、親子関係の中で、夫婦関係の中で、私共は愛の交わりを形作り、愛を学んでいく、そういう者として造られたということです。もちろん、親子の関係というものは、100組の親子があればそれこそ100通りのあり方がありますし、夫婦の関係にしても、それぞれのあり方があるわけです。理想的な親子や理想的な夫婦などというものはありません。しかし、神様が与えてくださったものであるならば、そこには神様の意図というものがあるはずです。そこに、その愛の交わりを形作っていくための方向性と言いますか、目指す所と言いますか、そういうものが何もなくて、とにかく一緒にいれば良いということではないのだろうと思います。もっと言えば、親子や夫婦が神様から与えられた愛の交わりの原型であるとするならば、そこで学んだ愛、与えられた愛は、親子や夫婦という関係を超えて広がっていく。そういうものではないのかと思うのです。つまり、親子が仲良くやっていければそれで良い、夫婦が仲良くやっていければそれで十分、ではないということなのです。
 ここで見方を少し変えてみます。私共が愛という言葉でイメージするのは、愛情という言葉が示しているように、情、或いはその相手に対する愛着といった感情でしょう。この情や愛着というものには、その相手との関係だけが大切で、周りとは壁を作る、そういう心の動きがあるのではないかと思います。しかし、この壁と聖書が語る愛は、すんなりとつながってはいきません。聖書が語る愛は、普遍的と言いますか、親子とか夫婦とか、或いは民族とか国家といったものも超えていきます。人間の心が幾重にも作ってしまう壁を壊して、目の前の人に対して心を開いていく。その心の有り様こそが、聖書が語る愛においてとても大切な点なのです。つまり、親子や夫婦の関係において学ぶ、相手のために時間や労力を注ぐ、相手を受け入れる、そのような愛のあり方で、目の前の相手に対して壁を作らず心を開いていく。そのことによって、親子の愛、夫婦の愛という神様に与えられた愛の種は、花を咲かせ実りを付けていくということなのだと思うのです。親子の愛、夫婦の愛は、神様が与えてくださった「愛の種」ですから、これ自体が目標・目指すところではないのです。ここから更に成長し、神様が求めておられる愛へと実を結んでいくのです。

4.偽りなき愛:悪を憎み、善から離れない
 今朝与えられております御言葉は、9節「愛には偽りがあってはなりません。」と告げます。ここで「偽り」と訳されている言葉は、演技するという意味の言葉です。偽善者という言葉がありますが、まさに愛は偽善であってはならないというのです。「愛には偽りがあってはなりません。」と言われれば、当たり前のことだと思われるでしょう。しかし、改まって「あなたの愛に偽りはないか?」と問い詰められますとドキッとしてしまいます。偽っているつもりはないけれど、本当に真実なのか、愛している振りをしていることはないかと言われると、心許ないところがあるのではないかと思います。何時でも「偽りなく愛しています。」と言い切れない所が私共にはあるのではないでしょうか。では「偽りのない愛」とはどういうものなのか。聖書は、その後に続く言葉で、偽りのない愛とはこういうものだと告げています。
 まず、「悪を憎み、善から離れない」ことだと言うのです。先程申しましたように、愛情・愛着というところで愛を考えてしまいますと、善や悪というようなことはどうでも良いことのように思いがちです。しかし聖書は、愛というものは「悪を憎み、善から離れない」ところにしかあり得ない、そう言うわけです。ここで善悪の基準は何かということが問題になりますが、聖書においてそれははっきりしています。善は神様です。或いは、神様の御心が示された、神の言葉であるイエス・キリストです。悪は、神様・イエス様に敵対する心であり、それは自分が一番だ、自分だけが正しい、自分の利益だけを求めることです。親子の愛や夫婦の愛も、このことをきちんとわきまえていませんと、歪んだものになってしまいます。随分前ですが、結婚式の披露宴で良く歌われた曲に「二人のために世界はあるの」というものがありました。これは愛ではありません。愛は「世界のために二人はある」のであって「二人のために世界がある」のではありません。この歌は、愛の歪んだ形を歌っているのであって、結婚にはまことに相応しくないものでありましょう。愛は私共が幸せになるために不可欠なものでありますけれど、私だけの幸せを求める愛は歪んでしまうのです。その歪みは、善悪というものから離れてしまうことから生じるのでしょう。
 私は毎月二回刑務所に行っていますけれど、そこでいつも話していることは、「正しく生きるということを無視して幸いはありません。」ということです。それは、正しく生きなければ、愛の交わりを形作ることが出来ないからです。正しく生きることから道を外れると、愛は偽りになってしまうからです。例えば、不倫をしたとします。これは正しくないことでしょう。そうすれば、必ず愛は偽りとなり、夫婦の関係は崩れ、幸いではなくなる。犯罪を犯せば、親子の関係だって崩れる。それは愛を裏切ることだからです。
 悪を憎むというのは、自分さえ良ければいいという心を憎むということです。そしてそれは、善から離れない、神様・イエス様と離れないというところで与えられるものなのです。神様は私共を愛してくださり、私共の一切の罪を赦すために、イエス様を私共に代わって十字架にお架けになった。この愛の中に生きる。この愛を裏切らない。そこに偽りなき愛の道が開かれていくということです。
 我が子を思う親の愛は美しく、尊いものです。しかし、悪を憎み、善から離れないということがなければ、その愛は歪みます。我が子さえ良ければとなってしまいますし、我が子のためと思ったつもりで自分の思いを押しつけているだけということにだってなりかねないのです。偽りの愛になりかねないのです。何が正しいことなのか、何が悪いことなのか、そのことを親は身をもって示していく責任があるのでしょう。

5.愛の十戒:互いに尊敬をもって
 実は、ギリシャ語本文では9〜13節は一つの文になっています。そして、「愛には偽りがあってはならない。悪を憎み、善から離れない。」これが具体的にはどういうことか、それが10〜13節に十の具体的なことが記されているという形です。ちょうど十ありますので、「愛の十戒」と呼ばれたりします。「兄弟愛をもって互いに愛し」から始まり、十の戒めが記されています。今、この十の戒すべてを見る時間はありませんけれど、幾つか見てみましょう。
 二番目の、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」これは、私共が愛の交わりを形作っていく上でとても大切なことですね。夫婦において、これは不可欠なものです。夫婦の関係において、相手を尊敬出来るかどうか、これは本当に大切です。お互い全く違う環境で生きてきたのですから、違っていて当たり前です。そこで自分のやり方、考え方、それを一方的に押し付けるのでは、うまくいくはずがありません。互いに話し合って、相手を理解して、受け入れていかなければならないでしょう。その時に相手を尊敬出来るかどうか。お互いにです。これがとても大切なことになります。若い人はそうではないかもしれませんけれど、年配の人にはまだまだ、男尊女卑という感覚が強いのではないかと思います。それは、聖書が告げる夫婦のあり方ではありません。
 この互いに尊敬するという関係の根底には、お互いイエス様の十字架の愛に生かされている、という理解があります。私共は自分の力、自分の能力だけで生きているのではありません。神様がすべてを備え、生かしてくださっている。そして、この相手を与えてくださり、結婚した。自分たちが好きになったから結婚する、それだけでは結婚は成り立たないのです。神様が与えてくださったのです。私も結婚して、妻から本当に多くのことを教えられました。私は、「分かる」ということは、理屈が通る、論理的に分かるということだと思っていました。しかし、それは私共が「分かる」ということの一面でしかないのですね。それを私は結婚して初めて知りました。妻は「分かる」ということは、理屈ではない。納得する、腑に落ちる、そういうことだと言うわけです。私の「分かる」は一時間もあれば十分です。ところが、妻は同じことを半年、一年かけて「分かる」わけです。どちらが本当に分かったのか、明らかでしょう。結婚することによって、私は実にたくさんのことを教えていただきました。
 子どもも同じです。神様が与えてくださったのです。ですから、自分の思い通りにはなりません。子どもはやがて巣立っていきます。親が敷いたレールの上を進んで行くわけではない。子どもには子どもの人生がある。尊敬をもって、その歩みを受け止めていかなければならないのでしょう。

6.愛の十戒:希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい
 次に、六番目の「希望をもって喜び」、七番目の「苦難を耐え忍び」、八番目の「たゆまず祈りなさい」を見ましょう。
 愛の交わりを形作っていく上で「苦難を耐え忍ぶ」のだと言われています。人生、色んなことがあるのです。いいことばかりではありません。それを、力を合わせて耐え忍んでいく。それが偽りのない愛の有り様なのです。愛の交わりさえあれば、私共は苦難に負けることはありません。乗り越えていくことが出来るのです。その営みの中で、愛の交わりはいよいよ強くされていくのです。
 何故、耐え忍ぶことが出来るかといえば、これが永遠に続く苦難ではないことを知っているからです。イエス様と離れないならば必ず良き道が開かれていくことを、私共は知っています。だから、力を合わせて堪え忍ぶことが出来るのです。その歩みの中で、お互いの愛はいよいよ深められていき、主にある希望というものがいよいよ輝いていきます。そして、その希望を失わなず耐え忍ぶことが出来るように、私共は「祈ること」を教えられているのです。互いに祈り合う。これが本当に大切です。互いに祈り合うということさえあれば、私共の愛は破れることはないのです。「いつまで続くぬかるみぞ。」と言いたくなるような時も人生にはあるのです。しかし、そこでも私共には祈りが与えられている。この祈りが、愛の交わりの中で為され続けるならば、互いに祈るということが為されるならば、私共は心を神様に向け続けることが出来ますし、そうすれば必ず、希望も耐え忍ぶ力も与えられます。そして、愛の交わりはいよいよ豊かに、深く、確かなものにされていくのです。

7.喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい
 最後に15節の言葉を見て終わります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」これが偽りなき愛に生きる者の姿です。喜ぶ者を羨むのではないのです。「人の不幸は蜜の味」ではないのです。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く。ここには、自分の子だけ、自分の家族だけ良ければいい、という歪んだ愛を突き抜けた、偽りなき愛に生きる者の姿、神の愛に生かされ、神の愛に生きる者の姿があります。私共はこのような愛に生きる者として召されているのです。そして、キリストの教会とは、そのような愛を世に示すために建てられているのです。心の壁を取り除き、心を開いて、互いにこの愛に生きる交わりを形作り、神様の愛を証しする者として歩んでまいりたい。そう心から願うのです。

[2017年7月23日]

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