富山鹿島町教会

伝道開始136年記念礼拝説教

「この町には、わたしの民が大勢いる」
イザヤ書 41章8〜13節
使徒言行録 18章5〜11節

小堀 康彦牧師

1.136年前に
 私共は今朝、伝道開始136年の記念礼拝を守っております。週報にありますように、今から136年前の1881年(明治14年)8月13日〜15日、金沢教会を設立した米国北長老教会の宣教師トマス・ウィン一行が、旅籠町の山吹屋という家を借りて説教会を開いたのが私共の教会の伝道の始まりです。この富山の地にキリストの福音が初めて伝えられた時でありました。この時まで、富山には一人のキリスト者も居なかったのです。もっとも、正確に言うならば、1867年(慶応3年)に、長崎の隠れキリシタン3000人以上が捕らえられる「浦上四番崩れ」という出来事が起きました。彼らは全国に流されて、加賀藩には500名余りが預りとなり、その内の42名が冨山藩に預りとなりました。1870年(明治3年)のことです。この人たちが、富山の地に来た最初のキリスト者ということになるのかもしれません。この「浦上四番崩れ」は、諸外国からの大変な非難を受けまして、1873年(明治6年)にキリシタン禁制の高札が撤去されることになりました。トマス・ウィンたちが富山で伝道する8年前のことです。つまり、トマス・ウィンが北陸で伝道を開始したのは、キリスト教を信じる者は捕らえられ牢獄に入れられるという禁制が解かれてから、10年と経っていない時期だったのです。ですから、キリスト教=キリシタン=邪教・危ない・近づかないでおこう、そんな空気の中での伝道開始でした。実際、富山に来る途中、トマス・ウィン一行は伏木で伝道のための集会を開いたのですが、石をもて追われ、その集会を中止せざるを得なかったということでした。
 さて、加賀藩に流されてきたキリシタンを監督する役であった家老に、長尾八内:ハチダイ(後に長尾八之門:ハチノモン)という人がおりました。二千石の家老でした。この人は、キリシタンたちが貧苦と屈辱の中にあっても神を信じ、祈りの生活を送るのを目の当たりにして、大いに感ずるところがあったらしいのです。キリシタン禁制の高札が撤去されて、キリシタンたちは長崎に戻りました。大政奉還があり、廃藩置県があり、彼も武士ではなくなりました。長尾八内一家の生活は困窮を極めたそうです。そして、金沢にトマス・ウィンが来ます。すると、彼は金沢における最初の受洗者となり、その息子である長尾巻も次の年に洗礼を受け、伝道者となりました。この長尾巻が、私共の教会の最初の定住伝道者です。
 1881年にトマス・ウィン一行が富山で演説会をした時、長尾巻の他に、林清吉という日本人の伝道者も一緒であったと思われます。彼は敦賀の出身であり、明治学院の神学部で学ぶ学生でありました。トマス・ウィンの通訳兼伝道助手として、トマス・ウィンと一緒に北陸に来たのです。長尾巻と共に富山における最初の伝道に従事した伝道者であり、長尾巻の次に私共の教会の伝道者となりました。彼は後に福井での伝道を行いました。

2.105年前に
 その後、講義所時代を経て、在日プレスビテリアン宣教師社団、これはアメリカの長老教会が日本伝道のために作ったものですが、これから惣曲輪60番地の100坪をもらい受けます。そこに教会堂を建て、その10年後にやっと伝道教会になりました。日本基督冨山伝道教会の誕生です。1912年(明治45年)のことです。この時の牧師が中村慶治牧師です。伝道開始から既に約30年経っていました。この時を私共の教会の教会創立と考えますと、今年で教会創立105年ということになります。
 今朝、私共は1890年に採択された日本基督教会の信仰告白を用いて信仰告白いたします。いつもは日本基督教団信仰告白を用いているわけですが、今日は違う信仰告白をしたということではありません。日本基督教団信仰告白が制定されたのは1954年のことです。しかし、私共は日本基督教団信仰告白が制定されるずっと前からこの地で伝道していました。そして、信仰告白を既に持っていたわけです。そのことを考えるならば、私共の教会が伝道の始めから用いていた「1890年の日本基督教会の信仰の告白」の上に「1954年の日本基督教団信仰告白」は乗っている、重ねられている。そのように理解しています。私共は1890年の信仰告白に言い表された信仰をもって、1954年の日本基督教団信仰告白を告白しているということです。教会の歴史、信仰告白の伝統というものは、前のものを捨てて新しいものに変えるなどということは、あり得ないからです。教会は、キリストの命を受け継いでいるキリストの体です。このキリストの命は、イエス様の十字架・復活によって与えられたものであり、使徒以来今日に至るまで、途切れることなく綿々と続いているのです。このキリストの命のつながり、信仰のつながり、それを示しているのが教会の歴史であり、信仰告白の連続性というものです。キリストの命が二千年の間、断絶することなく私共に繋がってきたように、信仰告白もまた断絶することなく連続し、途切れることなく繋がっているのです。そのことを確認するために、一年に一度だけですが、伝道開始を記念する礼拝において、私共は1890年の信仰の告白を用いているのです。
 旧日本基督教会に属していた日本基督冨山伝道教会ですが、残念ながらその時代に伝道教会から独立教会になることはありませんでした。つまり、ずっと浪花中会の援助を受け続けていたのです。それほどに伝道が困難な地であったということでありましょう。この間、篠原銀蔵牧師、戸田忠厚牧師、中村慶治牧師、亀谷凌雲牧師、浜甚二郎牧師、馬淵康彦牧師、田口政敏牧師の7名の伝道者がこの地で伝道牧会に当たりました。

3.日本基督教団富山総曲輪教会
 そして、1941年(昭和16年)に日本基督教団が成立いたしますと、私共の教会は翌年にこれに加わり「日本基督教団富山総曲輪教会」となりました。そして、1945年(昭和20年)8月2日未明に富山大空襲があり、私共の教会も焼失いたしました。それから二週間後の8月15日に敗戦を迎えます。
空襲ですべてを失った私共の教会は、礼拝する場所もありませんでした。郊外にあったために空襲を免れた富山新庄教会において、富山新庄教会や富山二番町教会の人たちと一緒に礼拝をしたり、次には米軍のかまぼこ形の兵舎を譲り受けた富山二番町教会の人たちと一緒に礼拝を守ったりしました。そして、1952年(昭和27年)7月に教会総会が開かれ、富山二番町教会とは合併しないということが決議されました。私共の教会にとって、後々語りぐさとなる伝説の総会です。出席者は7名、合併賛成3名、反対4名でした。一票違いで、どこまでの自覚があったかは別として、私共の教会はメソジスト教会の伝統にある富山二番町教会と合併することなく、長老派の日本基督教会の伝統を大切にして、別の教会として歩む決断をしたのです。この時代、私共の教会をお世話してくださっていたのが富山新庄教会を開拓伝道していた亀谷凌雲牧師でした。そして、同年8月10日に日本基督教団富山総曲輪教会の伝道再開第一回礼拝が行われました。その礼拝には、二番町教会から移築されたかまぼこ形の会堂に12名が出席しました。これが、私共の教会が焼け跡から伝道を再開したときでした。会堂が空襲で焼失してから実に7年後のことです。確かに、新しい一歩を踏み出しました。しかし、記念すべき最初の礼拝ですら12名の出席です。とても、牧師を招聘して自立出来る状態ではありませんでした。
 会堂が何とか建っても、相変わらず定住牧師はおりませんでした。新庄教会の副牧師であった佐々木威牧師が2年間、その後、石動教会の小林喜成牧師が1年間、礼拝説教を担当してくださいました。小林牧師は、午前の石動教会での礼拝が終わるとすぐに列車で富山に来て、午後1時30分からの私共の礼拝を行ってくださいました。本当にありがたいことでした。

4.鷲山林蔵牧師時代
 そして、1954年(昭和29年)、鷲山林蔵牧師が戦後初めての専任の定住伝道者として赴任してこられました。鷲山牧師は、神学校を卒業されてすぐに来られました。そして、4年半ほど当教会に在任して日本橋教会へ転任され、その後、横浜指路教会に転任されました。鷲山牧師は神学校を卒業されたばかりで当教会に赴任され、どのように教会形成をしていけば良いのか悩まれ、そして、長老教会として教会形成を志すことにされました。小なりといえども、旧日本基督教会以来の教会なのだから当然ではないかと思われる方もおられるかもしれません。しかし、そうではないのです。30余派の教派が合同して成立した日本基督教団です。ですから、旧教派のことについてはあまり語らない、それには触れない。それよりもみんな仲良くやりましょうといった雰囲気が強くあったのです。仲良くするのは当然です。しかし、それだけでは、教会が健全に立っていくことは出来ません。教会としての筋道が大切です。その筋道を明確にするため、鷲山牧師は長老教会として教会形成を志したのです。
 しかし、この鷲山牧師時代の歩みは、開拓伝道と全く同じと言って良い状況でした。経済状態はまことに厳しく、中部教区は1953年(昭和30年)から「教会互助献金運動」というものを始めるのですが、1954年の援助教会は3つ、1955年は5つ、1956年は5つ、1957年は6つでした。その間、この援助を受け続けてきた教会の一つが富山総曲輪教会、私共の教会でした。教区から援助を受けなければ牧師を迎えることが出来ない。それが私共の教会でした。
 私は毎年伝道開始記念礼拝を迎える度に、このことをしっかり心に刻んでおかなければならないと思っています。1881年に伝道を開始してから1912年に伝道教会となるまでの30年間、更に1942年に日本基督教団に加入するまでの30年間、そして日本基督教団に加入した後も1957年まで、実に76年間の間、私共の教会は援助を受け続けてきた教会だったのです。伝道教会になる時には、米国北長老教会から総曲輪に100坪の土地を与えられました。伝道教会時代には浪花中会から伝道者を送ってもらい、経済的援助を受けて伝道し続けてきました。教団になってからは、コンセットハットの会堂(かまぼこ型の会堂)を日本基督教団から譲り受けました。そして、更に中部教区から伝道援助金を受け続けたのです。
 私共の教会が自立するのは、鷲山牧師が日本橋教会へ転任されて、山倉芳治牧師が着任されます1958年になってからです。山倉牧師の時から、私共の教会はやっと自立した教会としての歩みを始めたのです。あれから、まだ59年です。私共は、伝道開始記念礼拝の度毎に、私共の教会が援助を受け続けてきたことをしっかり心に刻まなければならないのです。それは、出エジプト記22章20節に「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」とあり、出エジプト記 23章9節「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」とありますように、イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から解放されたことを心に刻むことによって、奴隷たちを圧迫したり、虐げたりしないように神様に命じられたのと同じです。私共は、援助を受け続けたことを心に刻むことによって、現在、援助を必要としている教会を支える教会でなければならないからです。私共の教会の最初の76年間の歴史を忘れてはなりません。

5.山倉芳治牧師時代
 鷲山牧師の後に赴任してこられたのが、山倉芳治牧師でした。山倉牧師については、古くからの信徒方は良く知っておられるでしょう。山倉牧師は1958年(昭和33年)に赴任され、1967年(昭和42年)までの9年間、この富山の地で伝道牧会に励まれました。鷲山牧師時代に、現住陪餐会員数は23名から46名になりました。そして、山倉牧師の時代に現住陪餐会員は100名になり、礼拝出席者数は50名になりました。この間約100名の者たちが受洗しました。現在の私共の現住陪餐会員の中で、この時代に洗礼を受けた人が20名います。名前が変わられた方もいます。50年前ですから、みんな若かったのです。
 山倉牧師時代に、特筆すべきことが二つあります。一つは1960年に献堂された会堂建築です。建築費用約320万円のうち、185万円が米国長老教会からいただいた100坪の土地の一部の売却によるもの、100万円が日本基督教団からの援助によるものでした。教会員はみんな若く、自分たちの献金だけで会堂を建てることは出来ませんでした。実に、必要な資金の1割しか自分たちの献金で賄うことが出来なかったのです。このときのことを、山倉牧師は、新しい会堂が建ったことを喜びつつも、土地の一部を売却したことについて「この事は今、如何に弁明してみても教会の長い歴史の中に一つのシミを残すでしょう。…このシミを消す方法は教会が正しく成長し、新しい教会を幾つも生み出すと云う事であります。」と月報の中で記しています。山倉牧師以降の牧師たちは皆、この山倉牧師の言葉を重く受け止めてきました。教会は、三つを生み出して一人前の教会となると言われます。第一に受洗者、第二に伝道者、第三に教会。私共の教会は、まだ教会を生み出していません。
 もう一つは、長老の按手です。山倉牧師は、鷲山牧師の長老教会として教会形成をし伝道していくという姿勢をしっかり受け継がれました。その為に長老研修会も行いました。そして、1965年8月8日に金沢教会から星川長老を迎えて、長老按手が行われました。それまでも長老任職式は行われていましたが、長老按手はされていませんでした。この時に長老按手を受けたのは、石田峻一・大野嘉四郎・石川実・釜土敏雄・林渓子・中山幸子の6名でした。ここにおいて、いよいよ、長老教会の伝統に立つということを自覚的に受け止めて歩む教会として建てられていくことになりました。
 山倉牧師は、当教会から和歌山教会に転任され、彼の地において、北陸連合長老会の結成から少し遅れて1989年に和歌山連合長老会を結成されるのに尽力なさいました。
 山倉牧師の後、赴任されたのが大久保照牧師です。今日は、大久保牧師の時代まではお話しする時間はありません。この時代については、私より皆さんの方が良く知っておられるでしょう。

6.神様の救いの意思の現れとしての136年間
 今日は、トマス・ウィンから始まって山倉芳治牧師まで、86年間の歩みをざっと見てまいりました。この後、大久保牧師17年、藤掛牧師19年半、私が13年で計50年、それで136年となるわけです。初めの86年間に山倉牧師をふくめ、11名の伝道者がこの地での伝道に励みました。私までで14人となります。この136年の間、伝道がなかなか進まない時代もありました。次々と受洗者が与えられた時代もありました。専任の定住伝道者がいない時代がありました。伝道者が短い期間で交代してしまう時代もありました。しかし、どのような時代であっても、主の日になると一つ所に集まり、礼拝を捧げました。主の日の度毎に神の言葉が告げられ、その言葉と共に私共の教会は歩んできました。教会なのですから、当たり前といえば当たり前です。しかし、136年前、この地で主の日の度毎に礼拝が守られ続けるということを、当たり前のこととして受け止めることが出来た人がいたでしょうか。実は、当たり前と思ってしまう私共の感覚の方が、きちんと事柄を受け止めていないのではないかと思います。私共がこのように主の日の度毎に礼拝を捧げている。136年間この地で神の言葉が告げられ続けてきた。これは、当たり前のことではないのです。神様の恵みの御業、何としてもこの富山の地に住む人々を救わんとする神様の御意志の現れ以外の何物でもないのです。

7.この町には、わたしの民が大勢いる
 私共は今朝、使徒言行録18章における、パウロがコリントの地で伝道したときの御言葉を受けました。パウロがこの地の伝道を為す中で与えられた御言葉、9〜10節「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』」この御言葉は、136年の間、この地で伝道したすべての伝道者たちが、そして礼拝を守り続けたキリスト者たちが聞き続けた御言葉でもありました。私共も今朝、この言葉を自分たちに告げられた神様の約束の言葉として聞くのです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」そう、神様は私共に告げておられるのです。そして、「この町には、わたしの民が大勢いる」と約束してくださっています。「大勢」とはどのくらいなのか。具体的には分かりません。大切なことは、神様が既に備えてくださっているということです。
 私共は、この既に神様が備えてくださっている神の民を探し求め、出会っていくだけなのです。教会に来始めた頃、私共は皆「自分で教会に来た。」と思っておりました。しかし、実は神様の大きな救いの御計画の中で招かれたということを、やがて知ることになります。神様によって既に選ばれ、備えられていた者であったことを知るのです。私共が捕らえられ、招かれたように、大勢の者が神様の救いに与る者として、この富山の地にも備えられています。そのことを私共は、信仰の眼差しをもって見るのです。神様が備えてくださっている大勢の民は、肉眼では見えません。しかし、信仰の眼差しをもって見るならば、私共はそれを見ることになります。そして、今朝ここに集っている私共は、その大勢の神の民の一部なのです。私共がここにいること。そして、136年間この教会が建ち続けていること。それが、この神様の約束が真実であることのしるしなのです。この神様の約束の言葉と共に、この一週も又、神様が備えてくださっている大勢の神の民と出会っていく歩みを為してまいりたいと思います。 

[2017年8月6日]

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