富山鹿島町教会

礼拝説教

「十戒 〜信仰が守られる道〜」
出エジプト記 20章8〜11節
申命記 5章12〜15節
マタイによる福音書 12章1〜8節

小堀 康彦牧師

1.招きの言葉・導きの言葉・愛の言葉としての十戒
 先週の主の日、私共はクリスマス記念礼拝を守りました。まだクリスマスの余韻の中を歩んでいる私共です。しかし、今日は12月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けてまいります。11月の最後の主の日の続きとなりますが、11月の最後の主の日は十戒の第二、第三の戒でした。今日はその続きで、第四の戒から御言葉を受けます。
 「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」です。この第四の戒を説き明かすにあたって、説教題を「信仰が守られる道」としました。十戒から御言葉を受ける中で何度も申し上げてまいりましたが、私共は十戒を、恵みの言葉、神様の救いへの招きの言葉、神様との親しい交わりの中に留まり続けるための導きの言葉として受け取ります。これは、今朝の第四の戒を受け取る場合も同じです。この戒を、自分を縛り付ける戒としてではなくて、私共の信仰が守られるようにと神様が私共に与えてくださった恵みの言葉、愛の言葉として受け取るということです。

2.「休め」と戒め
 「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」との戒は、要するに七日に一度「休め」という戒です。これはとても面白い戒です。私共が戒として考える場合、「休め」という戒は思い付かないでしょう。「働け」というのなら分かります。もっと働け、休まずに働け、そう言うなら分かりますけれど、神様は「休め」と命じられるのです。しかも、七日毎に一日丸々です。何とも不思議な戒めではないでしょうか。
 私共は七日で一巡りのカレンダーに従って生活しておりますけれど、この七日で一巡りの暦は、明治時代に外国との付合いが始まって、政府がこれからこの暦を用いると決めて使うようになったものです。それまでは、月の上旬、中旬、下旬という言葉に残っておりますように、一ヶ月30日を10日毎に三つに分けていました。そして、休みと言えば盆と正月しかありませんでした。それがいきなり七日で一巡りとなり、日曜日は休みになった。私共は当たり前だと思っていますけれど、これも初めはなかなか大変だったようです。「日曜日を休みにするなんて勿体ない。無駄だ。」と言う人の方が圧倒的に多かったのです。特に、使用人を使っている人にとってはそうでした。「何で七日に一日もの休みをやらなければならないのか。そんなことは怠け者の考えることだ。」そんな風潮だったのです。最近、「ブラック企業」などという言葉がありますけれど、そもそも日本の文化の中には「休む」ことを大切に考える伝統がないのだろうと思います。しかし、七日で一巡りのカレンダーは、日曜日が休みの日ということが前提になっています。それは、この第四の戒がルーツになっているわけです。「休む」ことは神様の御命令ですから、とても大切なことなのです。

3.安息日を守る二つの理由
 では、どうして神様は七日に一度休むように命じられたのか。理由は二つあります。一つは、出エジプト記20章11節にあります、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」ということです。神様は六日間で天地を造り、私共を造ってくださった。そして、七日目に休まれた。だから、そのことを覚えて私共も休むのだと言うのです。ですから、「休む」とは、ただボーッとすることが目的ではなくて、神様の創造の御業を覚えてこれに感謝するために休むということになります。こちらの理由が第一の理由と言って良いと思います。そうでないと、何故七日に一日ずつなのかが分かりません。そもそも、どうして七日で一巡りなのか。太陰暦にしても太陽暦にしても、自然を元にした暦ならば一ヶ月は30日で、上旬・中旬・下旬のように10日を一巡りにする方が自然ですし、扱いやすいでしょう。7という数字は実に扱いにくい数字です。皆さんも小学生の時にかけ算の九九を覚える時に覚えづらかったのは7の段ではなかったでしょうか。何倍しても切れの良い数字にならない。それが7という数字です。神様が七日を一巡りにしたのは、実にこの暦というもの、時間というものを支配しているのは、太陽でも月でもない。自然ではなくてわたしだということを示しているのだろうと思います。
 そして、もう一つの理由は、申命記5章15節「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」とあります。イスラエルはエジプトの国で奴隷であった。その時は休みなんてないわけです。しかし、神様によってそのエジプトから救い出されて、自由な者となった。そのことを覚えるために、七日に一日を安息日として守らなければならないというのです。神様の救いの御業によって今の自分がある。そのことを覚えるための日だということです。ですから安息日は、自分だけではなくて、「息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」となるわけです。
 つまり、安息日は、神様がすべてを造り、私共を造り支配してくださっていること、そして私共を救って神様のものとしてくださった、そのことを覚えるための日として守るよう命じられたということなのです。神様の創造の恵みと、神様の救いの恵みを覚えるために安息日を守るわけです。ということは、安息日は仕事をしないわけですが、何もしないのかと言えば、そうではありません。神様の創造の御業と救いの御業を覚えるわけですから、神様を礼拝するのです。礼拝を守る日、礼拝を捧げる日、それが安息日なのです。

4.神様のものとしての日曜日
さて、安息日は、神様が六日間で世界を造って七日目に休まれたわけですから、週の最後の日、つまり土曜日となります。しかし、私共は日曜日に礼拝しています。それは、安息日の一つの目的が、出エジプトの出来事という神様の救いの御業を覚えるためでありましたが、私共にとっての救いの御業は、イエス様の十字架と復活です。ですから、イエス様が復活され、私共を一切の罪の裁きから解き放ち、永遠の命の希望に生きる者としてくださった週の初めの日、日曜日を神様を礼拝する日としたわけです。
 私共は、日曜日が休みでちょうどいいから、この日に礼拝しているのではないのです。そうではなくて、日曜日は礼拝する日だから休みとなっているのです。これはキリスト教だからです。ユダヤ教では安息日は今も土曜日ですし、イスラム教では金曜日です。
 いずれにせよ、安息日というのは、今私があるのは神様のお陰だということを覚える、そして神様を礼拝する、そのためにその日は仕事をしない、そういう日だということです。
 それにしても、一週間に一日丸々神様の恵みを覚えるために仕事をしないというのは、やっぱり勿体ないのではないか。その分色々なことが出来るのではないか。そう思われる人がいるかもしれません。そうなのです。自分の都合で言えば、一週間に丸々一日神様のために捧げるというのは勿体ない、そんな思いが私共の中にはあるのだと思います。この「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」という戒で、「聖とせよ」というのは、神様のものとして取り分けよということです。安息日は、私のものではなくて、神様のものなのだということなのです。
 私共は、時間というものを自分のものだと思っています。しかし、この安息日の戒は、私共の時間は神様のものだということを覚えるためのものなのです。七日で一巡りの暦は、この時間の支配者が神様であることを示していると申しましたけれど、実に私の時間、私の命、私の体、私の富、それらはすべて神様によって与えられたものなのです。そして、そのことを覚え、感謝する。それが安息日を守るということの意味なのです。
 七日に一度、丸々一日、神様のためだけに用いる。自分の時間ではなくて、神様の時間とする。それは大変なことです。勿体ないとすぐに思う。それは、私の人生、私の時間は私のものだと思っているからでしょう。その思いは本当に根深いのです。神様との愛の交わりに生きるより、自分の欲を満たすために生きたいのです。神様はそのような私共のあり様をよくよく御存知ですから、私共が神様に造られ、神様に救われた恵みの中に留まることが出来るようにと、この戒を与えられたのです。
 十戒の第一の戒において、神様は、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」と言われました。神様だけを神様とする。しかし、私共はすぐに自分を神様にしてしまう。自分が主人になってしまう。そして、自分の欲に引きずられていってしまうのでしょう。神様が私の主人であるということをすぐに忘れてしまう。だから、そのことを私共が決して忘れないようにと、安息日の戒を与えてくださったのです。
 神様が私共の主であられる。私の命も、私の時間も、私の能力も、すべては神様が与えてくださったもの。そのことを、自分の心に、自分の体に、自分の生活に刻んでいく。それが安息日の戒なのです。主の日の礼拝を守ることが習慣になっている人が多いと思います。それはとても大切な習慣です。良い習慣を抜きに、良き信仰生活は形成されないでしょう。この安息日の戒を軽んじれば、私共はすぐに自分の人生の主人を自分にしてしまうのです。私共が神様との親しい交わりに生きるための戒、まさに私共の信仰が守られる道としての戒が、この安息日の戒なのです。

5.神様の憐れみの安息日
 イエス様の時代、この安息日を守るためにたくさんの規定が定められておりました。「いかなる仕事もしてはならない。」とありますので、この「いかなる仕事」とは何を指すのか、それを具体的に列挙していきました。○○をしてはいけないという禁止条項を作ったわけです。その数は、大きな項目として39あり、その中にそれぞれ6つずつ規定がありましたので、全部で234の禁止条項がありました。これを守ることが安息日を守ることであると理解されていたわけです。この安息日の規定をめぐって、イエス様とファリサイ派の人々の間で幾つもの対立が起きました。先程お読みしましたマタイによる福音書12章1〜8節にありますのも、その一つです。
 安息日にイエス様と弟子たちが麦畑を通った時、弟子が麦の穂を摘んで食べたのです。ファリサイ派の人々がこれを見て咎めました。これは、他人の畑の麦を取ったらダメだという話ではないのです。弟子たちが麦の穂を摘んだ。これは収穫だ。さらに、麦の穂を揉んで食べたわけですが、これは脱穀の仕事だ。つまり「安息日規定に反する」と咎めたのです。イエス様は、そのような安息日の戒の理解の仕方は違う、そう言われました。ファリサイ派の人々は、安息日の戒を守るということをがんじがらめの戒として受け取っていたわけですが、イエス様は、そうではない、神様はこの安息日の戒によって憐れみを示されたのだ、男も女も牛もろばも奴隷もみんな神様の恵みに生かされている。そのことを覚えて感謝を捧げ、休む。それが安息日の意味なのに、どうして自分を縛り、人を縛るようなこととして受け取るのか。そう言われたわけです。
 これはとても大切なことです。私共もファリサイ派の人々のように、安息日の戒をそのようなものとして受け取りかねないからです。キリスト教会には「聖日厳守」という言葉があります。主の日の礼拝を厳守するというのです。厳守ですから、厳しく守るのです。確かに、主の日の礼拝を守ることは大切です。ここに私共の信仰が守られる道があることも確かです。しかし、そうしない人を裁く、あれはダメなキリスト者だ、そのような思いが生まれるとすれば、それは違うと言わなければならないのだと思います。今の時代、様々な理由で主の日の礼拝を守れない状況があります。そのような人に対して、何とか主の日の礼拝が守れるように励まし、祈り、支えていく。それが、主の日を神様の憐れみの日として守るように命じられている私共の有り様なのでしょう。
 戒めは確かに戒めです。だけれども、私共はこれを神様の愛の言葉として聞く。その時、この戒によって、家畜や奴隷までもが休むようにと命じられた神様の憐れみの心に触れるのです。この戒は人を裁くためのものではなくて、神様との愛の交わりへと私共を招き、その恵みの中に留まるようにと促す戒なのです。

6.ゴルフと私とどっちが大切なの
 少し例えは悪いかもしれませんけれど、私は、この「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」という戒は、ゴルフ好きで、休みというとゴルフにばかり行ってしまう旦那さんに向かって、奥さんが「あなた。ゴルフと私とどっちが大切なの。」と言うのに似ていると思うのです。神様が私共に向かって「仕事とわたしとどっちが大切なの。あたしと一緒に休みなさいよ。」そう言っておられるのだと思うのです。神様がそこまで言ってくださって、私共との交わりを大切にしようとしてくださっている。まことにありがたいことだと思います。
 仕事は大切です。でも、安息日にはそれをやめる。休む。そして、神様との交わりに生きる。そのことを抜きにしてしまいますと、私共は何のために仕事をしているか分からなくなってしまう。仕事が目的になってしまう。私共が生かされ、私共が仕事をするのは、神様の栄光のためです。そのことが完全に忘れられてしまうことになってしまいます。そして、忙しさの中で、働くことの喜びさえも失っていってしまうのでしょう。私共が神様に愛され、生かされている者として生き生きと生きることが出来るように、神様は「休め」と命じられたのです。安息日という言葉は、元々「止める」という意味から来ています。仕事を止める。そして、心を神様に向ける。それが本当の安息なのだと、神様は教えてくださっているのです。

7.大いなる安息に向けて
 この安息の日に私共は礼拝を守るわけですが、このことはやがて与えられる大いなる安息に向かって私共が生きていることを明示します。終末における神様の救いの完成の時、私共は完全な安息を与えられ、代々の聖徒共に、天使と共に神様を礼拝します。そのことを指し示しています。私共が主の日に礼拝に集うのは、この大いなる安息を目指す者として、神様の許で休むためです。
 どうでしょうか。主の日の礼拝に集って、私共は休んでいるでしょうか。日曜日に教会に来ると、色々な奉仕があって、いつもの日より忙しくて、とても休むどころではない。そう思っている人もいるかもしれません。確かに、私共が礼拝を守るためには、奉仕する人が必要です。しかし、その奉仕は、神様との交わりという大いなる安息の中で為されなければならないものです。その一点が忘れられてしまいますと、奉仕もまた、仕事になってしまう。それは違うのだろうと思います。
 ある長老が以前私にこう言ったことがあります。「私は礼拝が好きなのです。説教を聞くのが何より好きなのです。」この長老も主の日には色々な奉仕をされていた方です。しかし、「礼拝が好きだ」「説教を聞くのが好きだ」この言葉の中に、この長老が神様との交わりという大いなる安息の中で主の日を守っていることが分かり、とても嬉しく思いました。牧師にとって、主の日は朝から晩まで忙しい。しかし、私も主の日の礼拝が好きなのです。説教が好きなのです。ここに、私の本当の居場所がある。そう思います。私も大いなる安息の中で、主の日の御用に仕えてまいりたいと思います。 

[2017年12月31日]

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