富山鹿島町教会

イースター記念礼拝説教

「主は復活された」
詩編 16編5〜11節
マタイによる福音書 28章1〜10節

小堀 康彦牧師

1.イースターを迎えて
 イエス様は復活されました。主はほむべきかな。ハレルヤ。
 私共は今朝、イエス様の御復活を喜び祝う、イースターの記念礼拝を捧げています。イエス様は金曜日に十字架の上で本当に死んで、そして日曜日に本当に復活されました。その出来事によってキリスト教は生まれました。もしイエス様が十字架の上で死んだまま復活されなかったならば、弟子たちは散り散りになり、何年かすれば「そう言えば、そんな人もいたな。」という程度で、時の流れの中で忘れ去られ、歴史の舞台から消えていったでしょう。キリストの教会も生まれなければ、新約聖書も生まれず、私共がこのように主の日の度に礼拝を捧げることも、神様の救いに与り、神様に向かって「父よ」と呼んで祈ることもなかったでしょう。実に、イエス様が復活されたが故に、正確に言えば、イエス様が復活させられたが故に、弟子たちは、イエス様が誰であり、イエス様によって与えられた救いとは何であるか、そのことをはっきり知らされたのです。
 今私は「正確に言えば、復活させられた」と申しました。それは、日本語に翻訳する際に「復活した」と訳されている言葉は、ギリシャ語の原文では受身形の「復活させられた」となっているからです。これは大切なことです。イエス様は神の御子であるが故に、その絶大な力によって死を打ち破って復活されたのではなく、天地を造られた全能の父なる神様の御力によって復活させられたのです。だから私共も、全能の父なる神様の御力によって復活させていただくことが出来るのです。イエス様が自らの力によって復活されたのならば、私共が復活するとどうして言えるでしょうか。私共の中に復活する力などありません。私共の中にそんな力があるはずもない。しかし、全能の父なる神様にはその力がある。私共は、父なる神様の憐れみと御力によって復活の恵みに与る者としていただいた。それが救われたということです。

2.死んでも終わらない
 死んだら終わり。それはいつの時代でも当たり前のことです。誰もがそう思っている。死んだら終わりですから、「どうせ死ぬ」という言葉は私共から、生きる力も勇気も希望も奪ってしまいます。この「どうせ死ぬ」という言葉は、最も力ある闇の言葉、悪魔のささやきです。この言葉の前には、人間はただ沈黙し、聞こえないふりをするしかない。正しく生きることも、善く生きることも、美しく生きることも、この言葉は一切を無意味にしてしまいます。しかし、イエス様は復活されました。死では終わらない命があることを証しされ、その命へと私共を招いてくださいました。そのことによって私共は、「どうせ死ぬ。」という悪魔のささやき、呪いの言葉に対して、「いや、たとえ死んでも生きる。」そうはっきり言い返すことが出来る者とされました。確かに私共は肉体の死から逃れることは出来ません。しかし、それで終わりではない。復活の命がある。イエス様が復活させられたように、私共もやがて復活させていただく。だから、「どうせ死ぬ。」「死んだら終わり。」ではなくて、私共に復活の命を与えてくださる全能の神様の御前に正しく生きる、善く生きる、そのことが大切なのだということを知らされました。「どうせ死ぬ。」ではなくて、「たとえ死んでも生きる。」のです。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一15章54b〜55節で、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と告げた通りです。

3.イエス様の復活が私の復活となる
 どうして、イエス様の復活が私の復活となるのか。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一15章20節で、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」と言います。初穂というのは、その年、最初に収穫されたもののことです。イエス様が初穂であるということは、その後に続く多くの者がいるということです。それが私共です。洗礼によってイエス様と一つにされた者のことです。実に、私共は復活されたイエス様と同じように、やがて復活する者とされているのです。
 また、イエス様御自身、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12章24節)と言われました。イエス様の十字架の死は私共すべての罪の裁きであり、それ故、私共は既に罪の裁きを受けた者と見なしていただいた。そのことによって、神様を父と呼ぶ者となり、永遠に生き給う神様との交わりに入れていただき、永遠の命を与えられる者とされました。イエス様を信じる者が、イエス様の復活の命に与る者とされる。それが「多くの実を結ぶ」ということです。
 確かに、私共の肉体は死ななければなりません。しかし、それで終わりではない。私共はそのことをイエス様の御復活によって示されました。そして、キリストの教会は、イエス様が復活された日曜日を主の日と呼び、礼拝の日としました。主の日の度毎に、イエス様が復活されたことを記念し、イエス様を我が主・我が神と拝み、自らもまた復活の命に与る者として生きる者となりました。それは、肉体の死を超えた希望を持つ者とされた、その希望を持ってその日を待ち望みながらこの地上の歩みを為す者とされたということです。
 今年の冬は例年になく雪が多かった。「また降るの?!」という感じで、本当に嫌になりました。ちょうどレントの日々と重なり、春を待つという思いとイースターを待つ思いが重なりました。雪の中で春を待つように、私共はこの地上の歩みにおいて、やがて与えられる復活の命を待ち望む。イエス様が再び来られるのを待ち望む。終末を待ち望む。今年の冬は改めて「待ち望む」「希望を持って待つ」ということを学ばせていただきました。

4.復活の朝
 さて、金曜日にイエス様は十字架にお架かりになりました。金曜日の日没から安息日が始まります。イエス様は十字架の上で午後三時に息を引き取られました。日没まで三時間くらいしかなかったでしょう。アリマタヤ出身のヨセフが、イエス様の遺体を渡してくれるようピラトに願い出て、許可をもらい、遺体を十字架から降ろし、亜麻布に包み、墓に納めました。慌ただしい作業であったに違いありません。墓の入り口は大きな石でふさがれました。当時のユダヤの墓は岩に掘った横穴です。その入り口が石でふさがれたのを、イエス様の十字架を遠くで見守っていたマグダラのマリアともう一人のマリアが見ていました。
 安息日の土曜日が終わり、日曜日の明け方、今日ですと五時半頃でしょうか、マグダラのマリアともう一人のマリアが、イエス様の遺体が納められた墓に行きました。2〜3節「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」大きな地震と共にイエス様の墓の入り口をふさいでいた石が転がります。そして、その石の上に天使が座ったのです。この地震はイエス様が復活された時に起きたということではないでしょう。石を転がすためのものだったと思います。そして、この墓の石が転がされたのは、復活されたイエス様が墓から出てくるためではありません。復活されたイエス様にとって、墓のふたをしていた石など何の意味もありません。この石が転がされたのは、婦人たちが墓の中を見ることが出来るようにするためでした。
 天使は婦人たちに告げます。5〜6節「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」婦人たちは天使に「遺体のあった場所を見なさい。」と言われて、墓の中を見たでしょう。すると、墓は空でした。婦人たちには、何が起きたのか分からなかった。天使は確かに「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」と言いました。その言葉を婦人たちは確かに聞きました。しかし、この出来事は言葉で聞いただけでは、何が起きたのか、本当のところ少しも分からなかったと思います。イエス様は十字架に架けられる前に三度、弟子たちに御自分が十字架に架けられて殺されること、そして三日目に復活することを予告しておられました。婦人たちも弟子たちも言葉では聞いていました。しかし、それがどういうことなのか、少しも分かっていなかったし、信じてもいなかった。婦人たちは、イエス様の十字架と復活の予告を信じてイエス様の墓に来ていたわけではありませんでした。愛する者を亡くした者の自然な心の動き。墓に行けば、遺体のある所に行けば、何かまだその人と自分がつながっているような、そんな思いを抱いて墓に行ったのでしょう。しかし、そこで彼女たちは、墓をふさいでいた大きな石が転がるのを見、天使を見、墓が空になっているのを見た。そして、天使の言葉を聞いた。何もかもが、自分の頭の中で処理出来る分をはるかに超えることばかりでした。一体何が起きたのか分からないまま、婦人たちはただただ恐れた。しかし同時に、その恐れを突き抜けてやって来る光を感じたのではないでしょうか。それが8節にある「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」ということだったのではないかと思います。
 天使は、続けて7節でこう告げます。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちに、弟子たちに伝えよと言った。イエス様が復活されたこと、そしてガリラヤでイエス様に会える、そのことを弟子たちに伝えよと告げたのです。

5.復活のイエス様を礼拝する
 天使は婦人たちに、「見よ」「聞け」「伝えよ」と言いました。婦人たちは確かに見ました。墓の石が転がったこと。天使。空の墓。そして、聞きました。イエス様が復活されたこと。イエス様がガリラヤへ行かれ、そこでお目にかかれること。そして、それらを弟子たちに伝えよと言われた。ここで婦人たちに告げられたことは、実にその後のキリストの教会の歩み、キリスト者の歩みを示しています。見て、聞いて、伝える。
 この天使の言ったことは大切なことであり、私共の為すべき事を示しています。しかし、これだけでは十分ではありませんでした。決定的なことが欠けています。これだけでは、キリストの教会は建たなかったでしょう。これだけだったら、弟子たちが全世界に出て行き、キリストの福音を伝え続けるということにはならなかった。決定的なことが欠けているからです。決定的なこと。それは、復活されたイエス様とこの婦人たちが本当に出会うということです。その出来事が無ければ、婦人たちの証言は、語っている本人が良く分かっていないのですから、伝わるはずもありません。
 婦人たちはよく分からないなりに、天使に命じられたとおり弟子たちに伝えるために走りました。9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」走る婦人たちの前に復活されたイエス様が立たれたのです。これは決定的な出来事でした。天使も空の墓も、この出来事の傍証でしかありません。婦人たちは復活されたイエス様に出会ったのです。そして、復活されたイエス様の前に「ひれ伏し」ました。この「ひれ伏した」という言葉は、神様として礼拝したということです。
 婦人たちはイエス様の業を見、イエス様の言葉を聞き、イエス様を愛し、イエス様をメシアとして信じ、イエス様に従ってきた人たちです。イエス様のおそば近くで日々を過ごしていた人たちです。しかし、イエス様が復活されるまで、イエス様を神様として拝むことはありませんでした。しかし、復活のイエス様に出会った彼女たちは、イエス様を神様として拝んだ。礼拝したのです。これが、キリスト教の最初の礼拝です。私共の主の日の礼拝の始まりは、ここにあります。

6.復活されたイエス様の「おはよう」
 復活されたイエス様は、婦人たちに「おはよう」と言われました。私は、この「おはよう」という訳になかなか馴染めませんでした。軽すぎるのではないかと思っていました。しかし、だんだんこれで良いのかなと思うようになってきました。口語訳では「平安あれ」でした。元のギリシャ語では「喜べ」という意味の「カイレテ」という言葉です。これは日常の挨拶として用いられていた言葉です。しかし、イエス様はギリシャ語を話していたわけではありませんから、きっとこの時にイエス様が言われたのは、ヘブル語の「シャローム」だったと思います。これは元々は「平安があるように」という言葉ですが、朝昼晩いつでも使われる挨拶の言葉です。口語訳はこのシャロームと考えて「平安あれ」と訳したのでしょう。シャロームにしてもカイレテにしても挨拶の言葉なので、この時は朝でしたから「おはよう」と訳したのでしょう。
 「おはよう」という訳は確かに軽いです。でも、イエス様の御復活の出来事はこの軽さと通じるものがある。そう感じるようになってきました。十字架は重いです。私の罪の裁きですから、軽くなりようがない。しかし、復活はその罪を赦すことによって与えられる命です。喜びです。平安です。天使もイエス様も、婦人たちに最初に何と言ったか。「恐れるな。」です。復活は恐れることではないのです。もちろん、聖なる神様の御業ですから、聖なる畏れを除くことは出来ません。しかし、イエス様の御復活は、罪の赦し、永遠の命、復活の命の宣言です。皆さん、自分が赦される時、重く暗い顔で「赦す。」と言われたらどう感じるでしょう。この人は本当に自分を赦しているのかなと思うでしょう。本当に赦してくれているのなら、明るく軽く「大丈夫。赦すよ。」と言われた方がいいじゃないですか。復活されたイエス様の婦人たちとの出会いは、赦す者の突き抜けた軽さ、明るさがあったはずだと思うのです。
 イエス様は、天使が言ったのと同じことを婦人たちに告げました。10節「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」イエス様は何のためにガリラヤで弟子たちに会うのでしょう。それは弟子たちを再び召し出し、福音を告げる者として遣わすためです。御自分を捨てて逃げた弟子たちを完全に赦し、復活した御自分と共に新しく生きる者とするためです。だから、「おはよう」でいいかなと思い始めました。
 そして、私共が「おはよう」と挨拶する時、この時のイエス様の心持ちを思い起こさなければならないのだとも思うのです。朝、誰かと会う時、私共は「おはよう」と挨拶する。以前に会った時、或いは昨日、その人との間で何かあったかもしれない。腹の立つこともあったかもしれない。でも、「おはよう」と挨拶する時、私共は復活されたイエス様がなさった挨拶を思い起こし、イエス様の赦しの心と一つにされて、「おはよう」と告げる。私共の日常の挨拶が、復活のイエス様の挨拶に飲み込まれ、一つとされる。それは素敵なことだと思います。

7.結び
 復活のイエス様は、二千年前に一度復活して、それで終わりではなかった。復活されたイエス様は四十日にわたって弟子たちにその姿を現し、聖書を説き明かし、天に昇られました。そして、そこから聖霊を注ぎ、聖霊として弟子たちといつでもどこでも一緒にいてくださるお方となりました。復活のイエス様は、今も私共と共にいてくださいます。そのことを弟子たちは礼拝の中で、分けてもただ今から与る聖餐において、しっかりと受け止めて来たのです。復活のイエス様が聖霊としてここに臨み、我が体を食べよ、我が血を飲めと、自らの命を、復活の命を私共に差し出してくださる。私共はこの方の命に与り、「たとえ死んでも生きる」者として、この地上の歩みを為していくのです。

[2018年4月1日]

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