富山鹿島町教会

礼拝説教

「メシアの秘密」
マラキ書 3章19〜24節
マタイによる福音書 17章9〜13節

小堀 康彦牧師

1.弟子たちに教えるために
 マタイによる福音書を共々に読み進めております。この福音書を読み続けていく中で改めて思わされていることがあります。それは、福音書に記されているイエス様の言葉や業は、イエス様と一緒にいて、その言葉を聞き、その業を見た弟子たちのために為されたのだということです。イエス様は群衆に語りかけ、多くの人々の病をいやされました。勿論、それはその言葉を聞いた群衆のために語られ、いやされた人々のために為されたことであったには違いありません。しかし、イエス様のそばには、その言葉を聞き、その業を聞く弟子たちがいつもおりました。その弟子たちに対する教育プログラムとでも言うべき意図がイエス様にはあったのではないかと思うのです。
 イエス様が弟子たちに教え、伝えたかったこととは、三つあったと思います。第一にイエス様とは誰なのか、第二にイエス様に救われるとはどういうことなのか、第三にイエス様に救われた者はどう生きるのか、という三つです。この三つのことを弟子たちに伝えようとされたイエス様は、福音書を読み進めている私共にも同じことを伝えようとしておられます。この福音書を読み進めていく中で、私共はイエス様の弟子たちと同じように、イエス様は誰なのか、イエス様に救われるとはどういうことなのか、イエス様に救われた者はどう生きるのか、この三点について教えられ、学ばせていただいているのです。
 イエス様は十字架の死と復活の出来事によって、自らが誰であるかを明確に示し、その救いに与るとはどういうことなのかを示してくださいました。確かに最後は十字架と復活なのですけれど、いきなり十字架と復活なのではなくて、イエス様の十字架と復活の出来事によって成し遂げられる救い、また、それを成し遂げられるイエス様というお方について、イエス様御自身が言葉と業とをもって弟子たちに示し続けられました。その時は十分に分からなくても、十字架と復活の出来事の後になったなら、「ああ、そういうことだったのか。」と分かる、そういう言葉を語り、そういう御業を為されていた。そう思うのです。

2.人間の想像を超えた神様の救い、神の御子、神の愛
今朝与えられております御言葉は、イエス様が高い山の上でその姿を変えられた「山上の変貌」と呼ばれてきた出来事の後で、イエス様が弟子たちと共に山を下ってこられた時の出来事です。
 先週見ましたように、イエス様は三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られ、目の前でその御姿を変えられました。どのように変えられたかと申しますと2節「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」とあります。これはイエス様の、神の独り子としての栄光の姿です。そして、イエス様はモーセとエリヤと語る姿もお見せになりました。それは、御自身こそ「律法と預言」(旧約聖書)において約束されていた救い主であることをお示しになった出来事でした。しかし、その救いが成就するのは十字架と復活によってです。その時まで、イエス様が誰であるのか、イエス様に救われるとはどういうことなのか、それは隠されている。少し変な言い方ですけれど、わざと隠しているわけではないが、弟子たちにも人々にも分からない。それは、神の独り子が罪人である私共の一切の罪の裁きを引き受けるために同じ人間になられ、十字架に架けられる、この神様の救いの御業が人間の想像をはるかに超えたことだったからです。
人間の想像の範囲内の神の子とは、神様と同じ力と知恵を持ち、神様に逆らう者をその全能の力をもって支配し、裁く方でしょう。また、その救いに与る者は、神様の御心に適う善き事を行う者、即ち善人です。しかし、神様の備えられた救いはそういうものではなかったし、神様が遣わされた神の独り子である救い主はそういうお方ではなかった。罪人である私共のために、私共に代わって十字架の上で神様の裁きを受け、私共の一切の罪を赦してくださるお方でした。しかも、三日目に復活され、罪赦された者たちに永遠の命を与えてくださるお方でした。これは人間の想像をはるかに超えた、神様の救いの御計画です。この救いの御業は、神様の私共に対する想像を超えた愛、度外れた愛の故でした。イエス様は、十字架と復活の出来事によって、弟子たちがそのことを悟ることが出来るように、その時まで一緒に生活をし、教えを語り、御業をお見せになったのです。

3.この現実の世界のただ中へ
 今朝与えられた御言葉において、イエス様は山上の変貌の出来事の後、弟子たちと一緒に山を下ってきます。あの山上の出来事は、イエス様の、神の独り子としての栄光の姿をはっきりと弟子たちに示しました。天の国の窓が開かれ、モーセとエリヤとイエス様が語り合う、それは天の国を垣間見せていただくという経験でした。彼らは驚くべき、あり得ないような体験をしました。聖なる体験とでも言うべき時でした。しかし、弟子たちはずっとそこにとどまることは許されませんでした。山を下らなくてはならない。山の下にある世界は、14節以下に記されておりますけれど、悪霊が力を持ち、人々は苦しめられ、どこに神様の愛が、神様の御支配があるかと言いたくなるような世界です。しかし、そこに行かなければなりません。悲しみと嘆き、悪と不正義、不信仰と絶望、それらが渦巻くこの世界に、イエス様と弟子たちは下っていく。それは、この世界にそれでも神様はおられ、神様は私共を愛しておられる。あなたたちを愛しておられる。そのことを証しするためです。私共が今生かされている場に遣わされているのも同じことです。私共が日々生きている場所は、愛と平和に満ちているところではないかもしれません。私共は様々な課題を持ち、痛みや嘆きを味わっています。しかし、それでも神様はおられ、私共を愛しておられる。そのことを証しする。その為に私共は救われ、生かされ、遣わされているのです。

4.何故、山上の変貌について話すことを禁じられたのか
ただ、この時イエス様は不思議な言葉を弟子たちに告げられました。9節「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた。」弟子たちは山の上で不思議な聖なる体験をしました。弟子たちはこのことをみんなに言いたかったでしょう。しかし、イエス様は「今見たことをだれにも話してはならない。」と弟子たちに言われました。これと同じことは、既に16章20節で「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」と記されています。ペトロがイエス様に対して「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白した直後のことです。何故、イエス様は弟子たちに御自分がメシアであること、神の御子であることを人々に話すことを禁じられたのでしょうか。
 ここでイエス様がお語りになった言葉を丁寧に見てみましょう。17章9節「人の子が死者の中から復活するまで」とあります。イエス様が山上の変貌の出来事を人々に話さないようにと言われたのは、「イエス様が復活されるまで」です。ということは、イエス様が復活された後ならば、このことを人々に話しても良いということです。何故イエス様は御自分が復活されるまでこのことを話すなと言われたのか。そして、どうして復活された後ならば語っても良いと言われたのでしょうか。
 それはこういうことでしょう。イエス様の復活は十字架の死の後の出来事です。十字架の死を抜きにして復活はありません。イエス様の復活は、イエス様がまことの神の御子であることを最も明らかな形で示す出来事ですけれど、それは十字架の死と切り離すことは出来ません。十字架にお架かりになって死んだイエス様が復活されるのです。しかし、この山上の出来事がこの時に弟子たちによって人々に話されたのならば、十字架抜きで神の子としてのイエス様が伝えられることになってしまいます。それは人々の思いを超えた神の子の姿ではありません。人々の思いをそのまま映した神の御子、神の力を持ち、奇跡を為し、そして私の幸せのために働いてくれる神の御子、そこに悔い改めは起きません。いつの時代でも、人は自分の願いを叶えてくれる神を求めます。それは十字架抜きの神の子の姿です。しかし、それでは神様と私共の関係は少しも変わらない。人は自らの罪さえ知らず、自分に都合の良い神様だけを求める。イエス様は、そのようなあり方を変えるために来られたのです。

5.既にエリヤは来た
 このイエス様の言葉に対して、弟子たちはイエス様にこう問います。10節「彼らはイエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」とあります。これは救い主が来られることに対しての、当時の一般的な理解でした。救い主が来られる前にエリヤが来る。これは先ほどお読みしたマラキ書3章23節の預言を根拠にしています。勿論、エリヤそのものが来るわけではありません。エリヤは、マラキ書が書かれるよりずっと前の人です。イエス様の時代からは800年も前の人です。ですから、「エリヤが来る」とは、「エリヤのような力のある預言者が現れる」ということです。もしイエス様が救い主であるならば、エリヤが既に来ていなければなりません。律法学者たちは「エリヤが来ていないのに救い主が来るはずがない。だからイエス様は救い主ではない。」と言っているのを弟子たちは聞いていたのだと思います。律法学者たちが根拠にしているのは聖書の言葉です。権威がありますし、正しくないはずがない。弟子たちは、この律法学者たちの言い分にどう答えていいのか分からなかったのです。イエス様は神の御子、救い主だ。山上の変貌の出来事によって、三人の弟子はこのことをいよいよ確信しました。でも、この律法学者たちの言い分に何と答えたら良いのか分かりませんでした。
 それに対して、イエス様はこう答えられました。11〜12節「イエスはお答えになった。『確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」つまり、イエス様は「エリヤは既に来た。」と告げられたのです。どこに来たのか。イエス様は、一体誰がエリヤだと言われたのか。この時弟子たちは、イエス様が、洗礼者ヨハネのことをエリヤだと言われたのだと悟りました。
 洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と宣べ伝え、ヨルダン川で多くの人々に洗礼を施した人です。イエス様も彼から洗礼を受けました。それで、洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと呼ばれています。多くの人々が洗礼者ヨハネのもとに来て洗礼を受けましたが、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の指導者たちは、ヨハネを預言者として受け入れませんでした。ヨハネは彼らにも悔い改めることを求めたからです。つまり、自分たちの宗教的権威を傷付けられたと思ったのです。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデによって捕らえられて、娘の踊りの褒美に首をはねられてしまいました。律法学者や祭司長、大祭司たちが洗礼者ヨハネに直接手を下したわけではありません。手を下したのは領主ヘロデです。しかし、神様から遣わされた者であっても、人々はその権威を認めず、自分の都合のいいようにあしらった。だったら、救い主が来ようと、同じように自分の都合のいいようにあしらうだろう。わたしが苦しみを受け、殺されると予告しているのは、そういうことなのだ。そうイエス様は言われたのです。

6.私の常識を打ち破る方
イエス様を神の子、救い主として受け入れ、信じる。そのためには、神様についての私の考え、救いについての私の考え、それが変えられることがどうしても必要です。しかし、これがなかなか難しい。イエス様を信じるということは、イエス様によって示された神様を信じるということ、イエス様によって与えられた救いを信じるということ、そして、それに従って生きるということです。しかし、人はその生まれ育った文化や環境や経験によって、自分なりの正義や神様についてのイメージや自分の生き方・価値観というものを持っています。それは、自分の中の常識と言っても良いかもしれません。イエス様の十字架と復活はその常識に反しています。何故神の子が、救い主が人間に殺されるのか。人間に殺されて何が神の子か、ということになる。また、どうして死んだ者が生き返るのか。あり得ない。しかし、この私共の常識を超えた所にイエス様という神の子、救い主がおられるのです。この常識によって洗礼者ヨハネは殺され、イエス様も殺される。しかし、イエス様は復活されることによって、その常識そのものを打ち破り、自らが神の子、救い主であることを証しされる。だから、その時まで黙っているように、とイエス様は言われたのです。更に言えば、この時は弟子たち自身、この山上の変貌の出来事をイエス様の十字架の死と結び付けて理解することが出来ないでいたからです。

7.私の神、私の主
 十字架抜きでイエス様が神の子だと知っても、それは本当にイエス様を知ることにはなりません。それは神様がどれほど私共を愛しておられるかを知らないからです。神様は天と地のすべてを造られた。それを知っただけでは、まだ神を知ったとは言えません。神様は、愛する独り子を十字架に架けてまで私を愛し、私の罪を赦し、私との間に父と子の関係を持とうとされている方だ。このことが分からなければ、神様は「私の神」にはならないからです。十字架抜きの神様、十字架抜きの救い主は、私の神様・私の救い主になりません。しかし、神様が「私の神」となる時、私は、神様を知っているだけではなくて神様を愛する者となる。そして、この方と共に、この方の御心に適う者として生きていこうと志す者になる。それが新しい私の誕生です。神の子・神の僕としての私です。この地上の命では終わらない、永遠の命の希望に生きる私です。私の願いよりも、御心が成ることを第一とする私です。その新しい私と共に生きることを求めて、神様はイエス様という神の独り子を救い主としてお遣わしになったのです。
 人は洗礼者ヨハネを認めず、イエス様を認めず、好きなようにあしらい、殺してしまいました。しかし、私共の思いをはるかに超えた父なる神様は、神様の御心を踏みにじる私共のために御子を十字架につけて殺すという、最も罪深い罪の業をもって私共の救いの御業を成就されたのです。何という知恵、何という愛。そして、イエス様を三日目に復活させられて、永遠の命への道を開いてくださいました。何という力、何と大いなる方。それが私共の神様です。イエス様は十字架に架けられて死ぬことを知りながら、御自分を十字架に架ける者たちを愛し、救おうとされ、十字架への道を歩まれました。それが私共の救い主、まことの神の御子、イエス・キリストです。
 二千年前にイエス様は人間としてマリアから生まれ、十字架に架けられて死に、三日目に復活されました。そして今、私の神・私の主・私の救い主として私共と共におられます。主の日の度に私共をここに召し集めて、御言葉を与え、語りかけ、道を示し続けてくださいます。今、私の神様を、そして私の救い主であるイエス様を、共々にほめたたえたいと思います。

[2019年7月14日]

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