富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第25回

4.「銀のいす」(5)

 牧師 藤掛順一


 巨人の館の客になってしまった今、あの昔の都あとの上の文字「ワガ下ヲミヨ」を実行することは非常に困難になりました。彼らは、ドアのノブに手をかけることすらできないのです。つまり、自由に出入りできない捕われの身と同じなのでした。なんとか外に出るためには、館の中を自由に歩きまわれるようにしなければなりません。そのために彼らは、巨人たちのご機嫌をとり、明日の晩に行われる秋祭りを楽しみにはしゃぎまわっているように見せることにしました。そのために最もめざましい働きをしたのはジルでした。彼女は巨人たちに甘えてみせ、巨人の料理女と親しくなりました。そして午後のひと時、調理場の戸が開け放しになっていることをつきとめました。三人は料理女が昼寝をするのをじりじりとしながら待っていました。
 調理場のテーブルの上に、料理の本が開かれていました。何げなくそれを見ていたジルは、とんでもないことを発見しました。そこには「ニンゲン このすがたのよい小さな二本足の動物は、むかしから、こまやかな味を珍重されている。秋祭りに出すものというならわしがあり、魚と大きな肉料理のあいだに用意する。」とあったのです。あの緑の衣の女が、彼らをハルファンの秋祭りに送ったのは、巨人たちの餌食にするためだったのです。
 料理女が眠ったのを確かめて、三人は外に出て、昔の都あとへと向かいました。けれどもそこに、狩りに行っていた巨人の王たちが帰ってきました。彼らは必死に走り、逃げました。巨人たちとその犬の群れが追ってきました。三人は、都あとの階段のところにあいていた小さな穴にもぐりこみ、犬が入ってこれないように石で口を塞ぎました。そして真っ暗な洞穴の奥へと進みました。すると突然足もとがくずれ、三人は小石と岩くずの斜面をどこまでもすべり落ちていきました。
 ようやく底に着いた彼らを待っていたのは、「地下人」の群れでした。「その人たちは、ほんの三十センチほどの小さな地霊のような者から、人間よりも大きな堂々とした者まで、あらゆる大きさにわたっています。…けれども、ある点では全員がとても似ていました。百人中のどの顔も、悲しくてたまらないという表情をしています。この人たちがあんまり悲しそうでしたから、はじめてちらりと見た時から、ジルはこの人たちをこわがる気もちをなくしてしまって、かえってなんとか元気づけてやりたいくらいに感じたものです。」
 三人は彼らに連れられて、いくつものほら穴を通り、舟に乗せられて地下の国の都へと連れていかれました。地下の国の女王が彼らの処分を決めるというのです。「ああ、いったいどうなるのかしら?」とジルがのぞみを失ったようにいいました。「さあポール、そんなにがっくりしてはなりませんね。」と沼人がいいました。「一つだけ心にとどめておくべきことがありますよ。あたしらは、正しい道にもどっているのです。ほら、ほろびた都のあとの下へいくことになっていたとおり、ちゃんとその下にきていますのさ。あたしらは、ふたたびあの教えにしたがっているところでさ。」
 とうとう彼らは、地下の国の城に着きました。地下人たちが、女王は不在なので、彼らを牢に入れておこうと話していた時、人間の、若い男の声がしました。「殿下」と呼ばれているその人は、彼らが地上の者たちであると知り、三人を自分の部屋に招き入れました。三人を見た彼は、あなたがたには会ったことがある、と言います。旅の途中で、緑の衣の女と共にいた、全身に鎧をつけた騎士が彼だったのです。あの緑の衣の女が、地下の国の女王だったのです。ユースチスは、そうであるならば、あの人は自分たちを巨人に食べさせるためにハルファンに送ったのだと責めると、彼は、「わが姫」の言うことは全てよい心からのことだ、と言い張るのでした。その様子には、どこか尋常でないものが感じられました。ユースチスが、我々は滅びた都のあとの「ワガ下ヲミヨ」という文字に導かれてこの地下へ降りてきたと言うと、彼は、その文字は、昔の巨人族の大王が自分の墓の上に「ワレ今ヤ地下ニアリテ、王位ナケレド、生キシトキハ、ミヨ、地上ハスベテワガ下ニ」と彫らせたものの一部だ、だからあなたがたの目的とこの文字とは関係がない、と言いました。このことばは、スクラブとジルの背中にひや水をあびせたようなものでした。つまり、あの文字がまるっきり三人の求めているものと関係がないこと、三人ともただの偶然にひきまわされたことにすぎないように思われたからです。「あの人のことばは、気にしなさんな。」と泥足にがえもん。「偶然なんかじゃありませんさ。あたしらの導き手は、アスランです。巨人王があの文字を彫らせた時に、あのかたはそこにおられて、その時すでに、そこから出てくることになるあらゆる出来事、こんどのこともまぜて、全部を知っていたのですとも。」
単なる偶然か、それとも主の導きか、「信仰」が問われるのはまさにそこなのです。
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