富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第5回

1.「ライオンと魔女」(4)

 牧師 藤掛順一



 さて、ここで話はエドマンドの方に戻ります。そりが使えなくなった魔女は、エドマンドを縛って歩かせ、石舞台へと向かっていました。その途中で、魔女の家来の小人が「もう追いかけても無駄です。今ごろ彼らは石舞台についているにちがいありません」と言うと、魔女は「ケア・パラベルの四つの王座が、三人だけでどうしてふさがるか?予言がまことになるはずがない」と答えます。エドマンドを渡さなければ、四つの王座は満たされないのです。そこで小人は、エドマンドを「取り引きのため、生かしておくほうがよろしいかもしれませぬな」と言います。1966年に出た日本語訳の初版においては、その次の魔女の言葉に、重大な誤訳がありました。原文はこうなっています。
‘Yes! And have him rescued,’ said the Witch scornfully.
これを初版は「『そうとも!そして、みすみすあいつらにこの小わっぱを助けださせてなるものか』と魔女が、さげすむようにいいました。」と訳していました。ところが、次に小人は「では、ただちにしなければならぬことにとりかかる方がよいと存じます」と言い、彼らが準備を始めたのは、エドマンドを木の幹にくくりつけ、ナイフで彼を殺そうとすることでした。「生かしておいた方がよい」と言い、「そうとも」と同意したはずの彼らが、どうしてエドマンドをここで殺そうとするのか、疑問でした。しかしこれは誤訳だったのです。現在売り出されている改訂版ではこうなっています。「『なるほど!そして、みすみすあいつらにこの小わっぱを助けださせようというのだな』と魔女が、さげすむようにいいました。」つまり、このYes!は、「その通り」という意味ではなくて、皮肉の意味だったのです。魔女は、エドマンドを取引の材料にするつもりなのではなく、ここで殺そうと思っているのです。
 この誤訳は、ここに語られていることの本質にかかわる重要な問題です。それは、魔女にとってエドマンドがどのような存在であるか、ということにかかわっています。私たちは普通、エドマンドは魔女の「人質」だと考えます。だから、生かしておいて取引の材料にする方がよいと思うのです。そういう感覚があったために、さすがの瀬田貞二先生も最初このように訳してしまったのでしょう。しかし、魔女はエドマンドを人質とは思っていないのです。魔女の唯一の願いは、エドマンドを、そして他の三人の子供たちをも殺すことです。そうすれば、ケア・パラベルの四つの王座の伝説は成就せず、魔女の支配が続くのです。
 ところで、先程の続きですが、「では、ただちにしなければならぬことにとりかかるほうがよいとぞんじます」と小人が言うと、魔女は「石舞台の上でそれをしたかったな。あそこは、それにふさわしいところじゃ。むかしからそういうことがされてきたところじゃ」と言いました。これはどういうことなのでしょう。石舞台の上でなされてきた「そういうこと」とはいったい何なのでしょうか。
 魔女と小人がエドマンドを殺す準備をしているところに、モーグリムの手下の後を追ってきたアスランの救出隊が到着し、エドマンドは無事助け出されました。魔女と小人は魔法で姿を変えて逃れました。アスランのもとに連れられていったエドマンドは、他の子供たちにこれまでのことを謝り、四人は仲直りしました。私たちの感覚によれば、これで、人質救出作戦成功、事件は解決です。ところがそこに、魔女の使いが現れます。魔女がアスランとの会見を申し込んできたのです。魔女はアスランのところに来ると「ここには裏切り者がおるな、アスラン」と言いました。「裏切り者」とはエドマンドのことです。アスランは「だが、あの子の罪は、あなたにむけておかしたものではない」と言います。これも大事な会話です。エドマンドは裏切り者だと魔女は言いますが、それは、魔女を裏切ってアスラン側に寝返ったということではないのです。エドマンドはもともと四人の兄弟の一人であり、アスランの側の者なのです。それが、魔女の誘惑、あの魔法のプリンによって、また兄弟たちへの恨みの思いによって魔女の側についた、それが彼の裏切りなのです。もともとアスランの、つまり神の側にあったはずの人間が、神を裏切って悪魔の側についてしまう、それが人間の罪です。つまり「裏切り者」とは、「罪人(つみびと)」ということなのです。
「あの子の罪はあなたにむけておかしたものではない」と言うアスランに対して、魔女はこう語ります。
 「では、もとの魔法をおわすれか?」と魔女。「忘れてしまったようだな。」とアスランが重々しくこたえました。「そのもとの魔法のことを話してください。」「話せと?」魔女の声は、にわかにかん高くはりあがりました。「われらがそばに立っているこの石舞台の上に書かれていることをか?知らず山の火の石の上に、やりの穂ほどもふかく文字にして書きつけたことをか?海のかなたの国の大帝のもつ王笏の上にきざみつけたことをか?いや、すくなくとも、このナルニアがそもそもできる時にあたって、あの大帝がくだした魔法は、ごぞんじのはずじゃ。裏切り者はことごとく、おきてにしたがってわらわの当然のえじきとなり、裏切りがあるたびに、わらわが、それに死をあたえる権利のあることは、ごぞんじのはずじゃ」
 これが「世のはじめからの、もとの魔法」です。この場合の「魔法」という言葉の意味は、何か不思議なことをする力ではなくて、世界の基本的秩序、この世界の全ての者が従わなければならない掟ということです。その掟によれば、裏切り者、即ち罪人は魔女のものとなり、魔女はその命を奪う権利があるのです。自分を裏切った者だけではなくて、誰に対してなされたものであっても、およそ裏切りの罪が行われるならば、その命は魔女のものとなるのです。これは、「罪が支払う報酬は死です」(ローマの信徒への手紙第6章23節)ということです。罪人は悪魔の餌食となって死ななければならない、ということが、この「もとの魔法」に定められているのです。そしてそれは、エドマンドの身柄がアスランのもとに奪回されても、変わることはないのです。裏切り者(罪人)であるエドマンドの命は、この「世のはじめからのもとの魔法」によって、(聖書の言葉で言えば「律法」によって)、魔女のものなのです。その権利によって魔女は、エドマンドを引き渡すように要求します。「力づくでとってみろ」という声に対して魔女は、「ばかものめ。そちどもの主人が、ただ力づくで、わらわの正しい権利をうばうことができると思うか?そちどもの主人は、むかしからのおきてがさだめたように、わらわが罪人の血をうけもたなかったなら、ナルニアはくつがえり、火と水のうちにほろびることを、よくごぞんじじゃ」と言います。それに対してアスランは「それは、まったくほんとうのことだ。わたしには、まちがいだといえぬ」と言ったのです。
 魔女がエドマンドを殺そうとしたことには、実はこのような深い意味があったのです。つまりそれは、「今殺してしまった方が得策だ」というような問題ではないのです。罪人に死を与えることは、魔女の正当な権利なのです。石舞台にはその「もとの魔法、掟」が記されています。石舞台の上でなされてきた「そういうこと」とは、罪人が罪の罰として殺される、ということだったのです。それゆえに、魔女にとってエドマンドは取引のための「人質」ではないのです。当然死を与えることのできる「いけにえ」なのです。このことは、「罪が支払う報酬は死」という聖書の教えの理解なしにはなかなかとらえられないことです。そのために、あのような誤訳が生じたのです。
 果してエドマンドは魔女の手から救われることができるのでしょうか。     
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