富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第57回

7.「さいごの戦い」(10)

 牧師 藤掛順一


 タシは次にチリアンを見すえました。しかしその時、「失せろ、怪物よ。そなたにゆるされたえさをもって、おのがすみかにゆくがよい。アスランの名にかけて、アスランの偉大な父、海のかなたの国の皇帝の名にかけて、命ずる!」という力強い声がして、タシは消えうせました。見るとそこには、チリアンの夢に現われた、あの七人の王と女王たちが立っていました。よく見ると、その中の一番若い王と女王はユースチスとジルでした。彼らは、戦いの汗とほこりにまみれてはおらず、美しい姿をしていました。気がつけばチリアン自身もそうでした。
 ジルはチリアンを、一の王ピーターに紹介しました。ピーターは年配の二人をチリアンに紹介します。それは『魔術師のおい』のディゴリー卿とポリー姫でした。その他に、エドマンド王、ルーシィ女王がいました。チリアンは、スーザン女王がいないことに気づき、たずねました。
「わが妹スーザンは、」とピーターは、かんたんに、重々しくこたえました。「もはやナルニアの友ではありません。」
「そうですよ。」とユースチス。「ナルニアの話をしたり、なにかナルニアに関係のあることをしたりしようと思ってスーザンをよんでも、あのひとはただこういうだけです。『あら、なんてすばらしい記憶をおもちなんでしょう。ほんとに、わたしたちが子どものころによく遊んだおかしな遊びごとを、まだおぼえていらっしゃるなんて、おどろきましたわ。』って。」「ああ、スーザンのことね!」とジル。「あのひとはいま、ナイロンとか口紅とか、パーティーとかのほかは興味ないんです。そしていつだって、おとなになることに夢中で、そりゃたいへんでしたわ。」
「おとなになるってね、まったく。」とポリー姫がいいました。「スーザンには、本当におとなになってもらいたいものね。あのひとは、いまの年ぐらいに早くなりたがって、学校に通っているころを台なしにしてしまったし、また、今の年のままでいたくて、これからさきの一生を台なしにしてしまうでしょうよ。あの人の思うことといったら、できるだけ早く、一生のうちのいちばんばかな年ごろになりたがって、できるだけ長くその年ごろにとどまりたいということなのよ。」

 ここに、スーザンはもうナルニアの友ではないということが語られています。彼女は今、いわゆる「年頃の女性」なのです。そして年頃の女性たちが心を奪われる華やかな生活のすっかりとりこになってしまい、ナルニアのことは「子供の頃のおかしな遊び」としか思っていないのです。私たちの世界からナルニアへ行った子供たちは八人でしたが、スーザンだけはナルニアのことを忘れてしまったのです。
 このスーザンについての話には、著者ルイスの、若い女性とその心を奪うファッションや恋愛などに対する否定的な見方が反映しています。ポリーの「一生のうちのいちばんばかな年ごろ」という言葉にそれが最もよく現れています。今で言うミーハーな、流行を追う若い女性の姿をルイスはこのように冷たく見ているのです。そしてこのことは、「ナルニア国ものがたり」に対してある人々が抱く強烈な反発、反感の原因となっています。古臭いオヤジの説教のように感じられるのです。「ナルニア国ものがたり」についてふれているある本の中に、次のような趣旨のことが書かれているのを読んだことがあります。「スーザンが洋服やお化粧に心を向けたからといって、ナルニアから、神の国から締め出されてしまうというのはひどすぎる。ここを読んで以来自分はナルニアを好きになれない」。ルイスのここの書き方からは、このような反発が生まれても仕方が無い面があると思います。
 けれども、このスーザンについての話でルイスが語ろうとしていることの本質は、「古臭い価値観の押し付け」などではないのです。スーザンはもうナルニアの友ではない、ということの意味は、一旦ナルニアを知り、アスランと出会った者であっても、それを忘れてしまうことがあり得るということです。つまりそれは、信仰における挫折、つまずきということです。子供たちがナルニアに連れて来られたのは、私たちの世界では別の名前を持っているアスラン(即ちイエス・キリスト)のことをよりよく知り、こちらの世界でその方と共に生きる者となるためなのだということが、『朝びらき丸東の海へ』の終わりのところで語られていました。スーザンはそのことを見失ってしまったのです。ですから、スーザンは、ファッションなどに心を奪われたためにその罰としてナルニアから追放されたのではありません。彼女自身が、ナルニアのことを、アスランのことを、忘れてしまったのです。それを、「子供の頃のおかしな遊び」で、大人がまともに取り上げるようなものではない、と思ってしまったのです。ナルニアと、アスランと、イエス・キリストと出会っても、結局そのようになってしまうことが起る、ということをルイスはこのスーザンにおいて描いているのです。そしてそれは、ナルニア国ものがたりを読んでいる私たちへのメッセージでもあります。この物語を読んで心温まる思いを持ったとしても、それが結局「子供の本」であり、「子供時代の思い出」に留まってしまうならば、このスーザンに起ったのと同じことが私たちにも起っているのです。
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