富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第65回

7.「さいごの戦い」(18)

 牧師 藤掛順一


 いよいよ、「さいごの戦い」の、そして「ナルニア国物語」全体のしめくくりにさしかかってきました。「さらにおくへ、さらにたかく」進んでいった一同はついにアスランと対面したのです。アスランは、人間たちに向かってこう言いました。
「あなたがたは、わたしがしあわせになってもらいたいと思っているのに、しあわせな顔つきでないようだな。」
 ルーシィがいいました。「わたしたちは、送りかえされるのを、おそれているんです。アスラン。あなたは、今までもう何度もわたしたちを、わたしたちの世界へ帰しておしまいになりましたもの。」
「それをおそれる必要はない。」とアスラン。「いったい、気がつかなかったかね?」  人間たちの心臓がどきんとうち、強いのぞみがもえあがりました。
「じっさいに、鉄道事故があったのだ。」とアスランがやさしくいいました。「あなたがたのおとうさんおかあさんも、あなたがたみんなも、-影の国で使うことばでいえば-死んだのだよ。学校はおわった。休みがはじまったのだ。夢はさめた。こちらは、もう朝だ。」
 こう、そのかたが話すにつれて、そのかたは、もうライオンのようには見えなくなりました。
 ここに、以前(第五一回)指摘した問いへの答えがあります。「ナルニアの七人の友」は、皆、鉄道事故で死んだのです。ユースチスとジルが「魔法の指輪」を使わずにナルニアへ来たのは、その事故死と同時にでした。彼らの乗った列車が皆の待つ駅に到着しようとした時に「おそろしい音がして体が揺れた」のは事故だったのです。駅で彼らを待っていた他の五人も、この事故に巻き込まれて死に、それと同時にうまやの内側の「まことのナルニア」へと移されたのです。そして、実はピーターたちの両親もその列車に乗っていたということが語られていました。彼らもこの事故で死んで、「まことのイギリス」へと移されたのです。ルイスが七人と両親がある所で落ち合うという設定を作った理由は、彼らが一度に死ぬというストーリーのためだったのです。
 このことは、「ナルニア国物語」の愛読者たちをとまどわせ、幻滅させ、悲しませてきました。最後に何と残酷な結末をルイスは書いたことか、という思いを与えたのです。確かに、ピーターたちの家族全員が(ナルニアの友でなくなったスーザンを除いて)事故で、そして大変若くして死んでしまうというのは、悲劇的なことです。衝撃的な結末であると言えるでしょう。子供の本を解説、紹介している本の中には、ナルニア国物語を代表的な優れたファンタジーとして紹介しながら、この結末部分、彼らが死んでしまったというところは、ルイスの「最大の失敗」であるとし、このことが、これを読む子供たちに恐怖や失望を与えることを懸念して酷評しているものもあります。
 しかし私はそうは思いません。それは一つには、私自身、小学校の四、五年生ごろにこれを読んだ時、この結末にショックを受けたり恐ろしいと思いはしなかったからです。私はむしろ、死んだ後の世界がこのようであるならば、それはすばらしいことで、決して恐ろしいことではないのだという慰めを感じたのです。大人が訳知り顔で心配するようなことはないと思います。
 そして今、改めてこのことを考えてみる時に、ルイスがここで描こうとしたことがよく分かります。ルイスは、たとえ読者が子供であるとしても、「死」を見つめることが必要だと考えたのだと思います。そして、アスランを、つまりキリストを信じ、共に生きる者にとっては、その死が、決して全ての終わりではないし、恐怖すべき事柄ではないこと、愛に満ちた救い主のもとに迎えられ、永遠の命に生かされていくための一歩なのだということを語ろうとしたのです。死をもそのように神の恵みの下にあることとして見つめつつ生きるところでこそ、人生を本当に喜んで、勇気をもって、自由に生きることができるのではないでしょうか。死のことは、年を取ってから考えればよいという事柄ではないのです。ルイスはそういうメッセージを、子供たちに対して発信しているのだと思います。  このことを別の角度から言えば、ルイスはナルニアという一つの世界の「創造から終末まで」を描きました。「さいごの戦い」は「終末」を描いているわけですが、終末を正しく覚えるためには、自らの人生の終末である死を見つめないわけにはいかないのです。終末を見つめつつ生きるとは、死を見つめつつ生きることでもあります。自らの死を見つめることなしに「終末」を語ることは、「ナントカの大予言」のような興味本位の、無責任な話にしかなりません。ナルニアという一つの世界の「終わり」を語ることは、ナルニアに生きた人々の死を語ることなくしてはあり得ないのです。「さいごの戦い」の結末はそのことを示しています。ルイスはここで、「終末論的に生きる」ことを子供たちに教えているのです。勿論難しい説明は一切無しに、しかし、世の終わりと自らの死を見つめて生きることが、決して恐怖や絶望ではなく、喜びと希望に生きることなのだということを描いているのです。私が子供心に感じ取ったのもそのことだったのだと思います。「子供たちを死なせてしまう結末は残酷だ」という批評は、全く浅薄なものです。「明るく元気に生きる」ことしか考えようとしない物語は、人を本当に明るく元気に生かすことはできないのです。人間は死ぬものだ、という事実を見つめ、しかもその死によっても失われてしまわない神の恵みの力、支配を描く物語こそ、本当の喜びと希望を与え、またそれに支えられて忍耐に生きる力を与えるのです。
 「そのかたは、もうライオンのようには見えなくなりました」。アスランの正体であるイエス・キリストのお姿がここに現れ始めます。しかしルイスはそれ以上は語りません。アスランとは誰であるかは、読者の判断に委ねられています。しかしルイスは明確に、この物語を読む人がイエス・キリストと出会い、そこに、アスランの真実の姿を見出し、ファンタジーの世界ではなく、現実に、イエス・キリストと共に生きる者となること目指して「ナルニア国物語」を書いたのです。(完)
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