富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第33回

5.「馬と少年」(5)

 牧師 藤掛順一


 シャスタは、自分にあてがわれた馬に乗り、どこへ続くのかも知らない道を歩いていきました。もう夜になり、周囲は真っ暗です。すると突然彼は、自分の側に何かがいることに気づきました。その息遣いを聞いたのです。よほど大きな生き物のようです。
「あんたはだれ?」とシャスタは、ささやき声にもならぬほど小さな声でいいました。「あんたに話しかけようとして、ずっと前から待っていたものだ。」とその何かがいいました。その声は、大きくはありませんが、すごく深々とひびきとおりました。…「ぼく、あんたがぜんぜん見えないんだ。」とシャスタはいっしんに目をこらして声の方を見つめて、いいました。それから(もっと恐ろしいことが頭をかすめたので)、シャスタは、悲鳴じみた声をあげて、いいました。「あんたはまさか、死んだものじゃないでしょ?ねえ、お願い。お願いだから、あっちへいってよ。ぼく、あんたに何も悪いことしやしないじゃないの?ああ、ぼくは、この世でいちばんふしあわせな人間なんだ。」するとまた、シャスタは、その何かのあたたかい息づかいを手と顔に感じました。「そら、」と、それはいいました。「これはゆうれいの息ではないぞ。あんたのふしあわせだということをみんなわたしに話してごらん。」
 シャスタは、その息で少し安心しました。そして、どうしてじぶんがほんとうの父や母を知らないか、どんなにきびしく漁師に育てられたかを話しました。それから逃げ出したときの話、ライオンに追いかけられて、とうとう泳いで助かった話をしました。また、タシバーンでおきた危ない出来事のかずかず、お墓ですごした夜のこと、それに砂漠の中から吠えてきた野獣のことなども話しました。さらにまた、砂漠の旅の暑さやのどのかわき、目的地のすぐそばでまたライオンに追いかけられ、アラビスが傷を負ったこと、その上、じぶんがもう長い間、何もたべていないことも話しました。「わたしの考えでは、あんたはふしあわせとはいえないな。」とそのすごい声がいいました。「だって、そんなにたくさんのライオンに出会うなんて、運がわるいと思いませんか?」とシャスタ。「ライオンは一頭しかいなかったのだ。」とその声はいいました。「それはいったいどういうことです?ぼくは最初の晩に少なくとも二ひきいたって話したじゃありませんか。それに…」「一頭いただけだ。ただ、足が早かったのだ。」「どうしてそんなことがわかるんです?」「わたしがそのライオンだったからさ。」シャスタがぽかんと口をあけて、何もいわずにいると、その声はことばをつづけました。「わたしがあんたをアラビスに会わせるようにしたライオンだったのだよ。あんたが死人の家、墓地のあたりにいたときなぐさめたネコもこのわたしだ。あなたが寝ているとき、ジャッカルを追いはらったライオンもわたしだ。あなたがリューン王のところへおくれずに着けるように、馬たちに追われるおそろしさで最後の一キロを駆けとおす新たな力をさずけたライオンも、このわたしだ。それから、これはあんたの知らないことだが、むかし、死にそうな赤ん坊だったあんたを乗せた舟を押して、夜なかに眠れないで浜辺に出ていた男に、あんたをわたすようにしたライオンも、このわたしだったのだよ。」「それじゃ、アラビスにけがをさせたのもあんたですか?」「わたしだ。」「でも、なぜ傷をおわせたんです?」「いいか、」とその声はいいました。「今わたしが話していることは、あの子のことではなくてあんたのことだ。わたしは、その人にはその人だけの話しかしないのだ。」「あんたは、いったいどなたです?」とシャスタはたずねました。「わたしは、わたしだ。」その声は、たいそうふかく低い声でいったので、地面がふるえました。そしてつぎに、「わたしだよ。」とすんだあかるい大声でくりかえしました。そしてさらに、三度めに、「わたしさ。」と、ほとんどききとりにくいほどやわらかく、しかも木の葉をさらさらとならしてまわりじゅうからきこえてくるようにささやくのでした。シャスタは、もうその声が、じぶんをたべてしまうようなものの声でも、ゆうれいの声でもないと知って、安心しました。けれども、今までとちがった、これまで知らなかったおののきが、全身につたわりました。しかも、なにかうれしい気もちでした。

 こうしてシャスタは、アスランと出会ったのです。いや、彼のこれまでの歩みの全てにおいて、アスランが共にいて、彼を守り、導いてくれていたことを知ったのです。アスランの「わたしだ」という言葉は、原語では 'Myself' です。「私自身」とでも訳しましょうか。「あなたはどなたですか」と問われて、「私自身だ」と答えるこのアスランの言葉は、神の山ホレブでみ名を問うたモーセに、「わたしはある」とお答えになった主なる神の言葉を思わせます(出エジプト記第3章13、14節)。私たちは、神を、キリストを、理解し、認識してしまうことはできないのです。神は、主イエス・キリストは、私たちにとらえられてしまうような方ではなく、常に自由な「私自身」であられます。私たちは神をとらえてしまうのではなく、畏れと喜びをもってみ前にひざまづくのです。神が「私自身」、即ち主体であられるところにこそ、私たちの救いがあるのです。またここでアスランが「わたしだ」と三度繰り返して語っているところに、ルイスの「三位一体の神」への信仰告白があると思うのは読み込み過ぎでしょうか。天地の造り主なる父なる神が、地面がふるえるような低い声で、救い主キリストが澄んだ明るい大声で、しばしば風に喩えられる聖霊が、木の葉をさらさらとならしてまわりじゅうから聞こえてくるささやくような声で語りかけておられるように思うのです。
 また、「わたしは、その人にはその人だけの話しかしない」というのも含蓄深い言葉です。私たちは、自分と神様との間の信仰の関係において、しばしば、「あの人はどうなのか」と人のことを気にします。しかし「あの人はああなのに」という思いは、神様が私たちと結ぼうとしておられる真剣な関係を損なうものなのです。神様が、他者に対してどうなさるかは、神様とその人の問題であって、私たちが詮索すべき事柄ではないのです。ヨハネ福音書21章20〜23節がこの土台にあることは明らかです。
       
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