富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第45回

6.「魔術師のおい」(10)

 牧師 藤掛順一


 ディゴリーが、ナルニアに悪を連れ込んでしまったことのつぐないのためにアスランから命じられたことは、西の荒れ野の彼方にある丘の上の果樹園のまん中のリンゴの木の実を取ってくることでした。「果樹園のまん中のリンゴの木の実」というとすぐに思い起こされるのは、創世記2、3章の、エデンの園の中央の「善悪の知識の木の実」です。アダムとエバが神の命令に背いてそれを食べてしまったことが、人間の罪の始まりだったのです。ディゴリーがナルニアに魔女を連れ込み、悪をもたらしてしまったのはそれと同じことでした。その罪をつぐない、ナルニアを悪から守るために「果樹園のまん中のリンゴの木の実」が用いられるのです。何故それがナルニアを守るものとなるのか、それは後で語られますが、そこには深い神学的洞察と言うべきものがあります。
 さてアスランは、荒れ野の果てまで旅をするディゴリーのために、助け手を与えてくれます。ナルニアの王となることになったあの馬車屋の馬イチゴです。アスランはイチゴを、翼を持ち、空を飛ぶことのできる「天馬」にしてくれました。ディゴリーとポリーは、天馬の背に乗って、空を飛んで西の荒れ野へと向かいました。
 翌日、彼らは目指す緑の丘の上の果樹園に着きました。そこは、緑の芝でおおわれた高いつい地にかこまれており、閉ざされた金の門が一つだけありました。その厳しい雰囲気から、アスランに遣わされたディゴリーだけが中に入ることができることは明らかでした。ディゴリーが扉の前に立つと、そこにはこう書かれていました。
「黄金の門より入れ、さなくばはいることなかれ。わが実はひとのためにとれ、さなくばひかえよ。木の実をぬすむもの、つい地をこえるものは、心の欲はみたすとも、つきぬ絶望も見いださん。」
この文章の背後には、明らかに、ヨハネによる福音書第10章1節以下の主イエスのお言葉があります。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者は羊飼いである。…わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(1、2、9、10節)  ディゴリーが扉に手をかけると、それはさっと開かれました。果樹園のまん中の木はすぐにそれとわかりました。そこには銀色のリンゴが豊かに実っていました。彼はそれを一つもぎとりました。それはすばらしい香りを放っていました。彼はその実を食べたい衝動にかられましたが、「ひとのため以外にとってはならない」という言葉を思い起こしてがまんしました。ところがそこには、あの魔女がいたのです。彼女はディゴリーたちの後をつけてきていたのでした。そしてつい地をよじのぼってここに入り、まん中の木の実を食べたのです。逃げ出そうとするディゴリーに彼女は、このリンゴはいのちのリンゴ、若さのリンゴであり、これを食べた自分は不老不死の身になったことを告げました。そして彼に、魔法の指輪を使って自分の世界に帰り、母親にそのリンゴを食べさせてやれと言います。そうすれば母親はすっかり元気になる。おまえの家庭はまた幸せになれる、そしておまえも他の少年たちと同じようになれる…。
「ああ!」ディゴリーはまるで傷を受けたようにあえぎ、頭に手をあてました。今やあれかこれか、この上なくおそろしいえらびとりに迫られていることを知ったのです。「ライオンは、そちがあれのどれいにならねばならぬようなことを、何かそちにしてくれたのか?」と魔女はいいました。「そちがひとたびじぶんの世界にもどってしまえば、あれはそちに何ができよう。いったいそちの母親は、そちがじぶんの苦しみをとりのぞくこともでき、いのちをとりもどすこともでき、父親になげきをかけずにすんだはずだのに、そちがそれをしようとしなかったことを知ったら―そちがどこか見知らぬ世界の野獣のために、じぶんに関係のない用むきで走りまわる方を選んだと知ったら、はたしてなんと思うであろうか?」「ぼくは―ぼくは、あのひとが野獣だとは思わない。」ディゴリーは、からからにかわいたような声でいいました。「あのひとは―ぼくにはわからないけど―」「それなら、あれはもっとたちの悪いものじゃ。」と魔女はいいました。「あれが今までにそちにしたことをみるがよい。あれのおかげでそちがどんなに薄情になったか見るがよい。ライオンは、あれのいうことをきく者をみんなそういう性質にしてしまうのじゃ。残酷無情な子どもよ!そちはじぶんの母親をむざむざ死なせてしまおうというのじゃな―」
 これが「誘惑」というものです。誘惑とは、「快楽への衝動」などではありません。魔女が語っているのは、「おまえは神の(アスランの)奴隷になっているが、それで何かよいことがあるのか、神(アスラン)のもとではおまえは全く不自由で、親のために何かをしてやることすらも出来ないではないか、おまえをそのように縛りつける神(アスラン)から自由になり、自分の思いに従って生きたらよいではないか」ということです。それは、エデンの園で、善悪の知識の木の前で蛇がエバに言ったこと、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創世記3章5節)と全く同じことです。神に従って生きること、即ち信仰は束縛でしかない、そこから自由になり、自分が主人になって生きよ、という誘惑によって、人間は禁断の木の実を食べてしまったのです。ディゴリーはまさにそれと同じ誘惑を受けているのです。しかもその誘惑は自分のためと言うよりも、母親のため、愛する者のためという形をとっています。神に従うことと、家族を愛すること、そのどちらを取るか、というような選択を迫られているのです。それは「この上なくおそろしいえらびとり」です。信仰に生きる時に私たちはこのような選び取りの前に立たされるのです。
    
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