富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第61回

7.「さいごの戦い」(14)

 牧師 藤掛順一


 戸口の向こうの世界、即ちナルニアがあった世界が闇に包まれると、アスランは「さあ、おわりとしよう」と言い、ピーターに、戸口を閉めるように命じます。ピーターは戸口を閉め、鍵をかけました。ナルニアがあった世界はこうして終わったのです。するとアスランはくびすを返し、「さあおいで、もっとおくへ、もっと高く」と一同に呼びかけて走り去りました。皆はアスランの後を追って歩き出しました。
 一同が歩いていくと、あのカロールメンの若い将校、エメースがぼんやりと座っているのに出会いました。彼は自分の身に起ったことを次のように語りました。
 彼は先に見たように、タシの神を信じ、タシに会いたい一心で、うまやに入ることを志願したのでした。しかしうまやの中には、カロールメンの兵士が、あらかじめ告げられていた者以外は殺すために待ち構えていました。彼はその兵士を逆に討ち果たし、うまやの外に投げ出しました。そしてタシの姿を求めて歩いていきました。その彼の前に、アスランが現われたのです。彼は、自分はタシに仕えてきた者だから、アスランは自分を殺すだろうと覚悟しました。しかしアスランは彼に、「むすこよ、よくきた」と声をかけたのです。以下、本文を引用します。
「でもわたしは申しました。おお、とのよ。わたしは、あなたのむすこではなく、タシにつかえる者です、と。ライオンはいいました。わが子よ、タシにつかえたことはみな、このわたしにつかえてくれたことと思う、と。すると、わたしは、ちえをもとめ、ものごとのすじ道を求める大きな力にうながされて、おそれをおさえて、かがやかしいかたに、うかがいました。おお、とのよ、それでは、あの毛ザルがいいますように、あなたとタシとは同じでございますか?と。ライオンは、大地がゆれるほどほえて(ライオンのいかりは、わたしにむけられたものではありませんでした)、いいました。それはまちがいだ。タシとわたしは一つではなく、まったく反対だからこそ、タシにつくすほんとの信心は、わたしに通ずるのだ。なぜならわたしとタシとはまったくべつで、善と悪とをわける。わたしに対するよこしまな信心はなく、タシに対するよこしまならぬ信心はないのだから、タシにまことをちかって、そのちかいを守る者があれば、その者が知らないにせよ、その者がまことにちかったあいては、じつはわたしなのだ。またその者にむくいを与えるのも、このわたしだ。またかりにわたしの名において非道なことをする者があれば、その者がアスランの名をいおうとも、その男のつくすあいてはタシであって、そのおこないはタシにさばかれる。」
 さらにアスランは彼にこうも言いました。「愛する者よ、もしあんたの望みが、わたしを求めているのでなかったなら、かくも長く、かくも心をつくして求めつづけることはなかっただろう。なぜならすべての者は、まことをつくして求めるものを見いだすのだから」。

 ここに、著者ルイスの宗教観が最もはっきりと現れています。すべて真心込めて神を信じ、求め、その神への誓いを誠実に果そうとする者は、意識していようといまいと、アスラン=キリストに仕えている者であり、キリストの救いにあずかるのだということです。カロールメン国に生まれ、タシの神を信じ、求めてきたエメースは、実はアスランの民、アスランの子だったのです。逆に、どんなにアスランの名を語ろうとも、本当に信じているのではなく、それを自分のために利用していたヨコシマらは、悪の神タシに仕える者、タシの餌食となる者だったのです。これを私たち日本人の文脈にあてはめるならば、キリスト教であれ仏教であれ神道であれ、それを誠実に信じて生きる者は、皆同じ救いにあずかる、ということになります。必ずしもアスランを、即ちキリストを信じていなくてもよいのです。この考えに共鳴する日本人は多いのです。「宗教の違いは昇る道の違いで、頂上は同じだ」という考えとも結びついて、このアスランの(ルイスの)言葉に共感するのです。しかしこの点において、ルイスの考えは、聖書の、キリスト教の教えから離れ始めています。そのことについて、次回に述べていきたいと思います。
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