富山鹿島町教会

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「ナルニア国物語」について 第62回

7.「さいごの戦い」(15)

 牧師 藤掛順一


 カロールメン国に生まれ、タシの神を誠実に信じ、求めてきたエメースは、実はアスランの民、アスランの子だった、アスランに対するよこしまな信心(原文はserviceつまり奉仕、あるいは礼拝)はなく、タシに対するよこしまならぬ信心はない、というルイスの考え方は、聖書の教え、キリスト教の信仰においてどこが問題なのでしょうか。
 第一に、この考え方は、アスラン(キリスト)は善の神、タシは悪の神(悪魔)という善悪二元論になっています。この世は、あるいは人間の心は、善の神と悪の神との戦いの場である、ということです。こういう考え方はわかりやすいですが、しかし聖書の信仰ではありません。聖書の神は、この世の全てをお造りになり、支配し、掌っておられる方です。そういう意味では、善のみでなく悪も神のご支配の下にあるのです。聖書にも「悪魔(サタン)」が出てきますが、それは「悪の神」ではありません。人間をまことの神に背かせ、引き離そうと誘惑する者です。そのサタンの働きも、主なる神のみ手の下にあるのです。だから、この世の様々な苦しみや不条理を「悪魔の仕業」として片付けてしまうことはできません。そこにも神のご支配があると信じるのです。それは簡単なことではありません。そこに生じる葛藤から、「ヨブ記」が生まれたのです。善悪二元論ならヨブ記は必要ないのです。
 第二に、アスラン(キリスト)は善の神、タシは悪の神とすることによって、アスラン(キリスト)は、この世を歩んだ具体的な存在ではなくなり、「善」という概念、理念へと抽象化されてしまいます。つまり、アスランとか、イエス・キリストとかの具体的な存在を信じなくても、「善の力」を信じ、「愛は勝つ、正義は必ず勝つ」という信念を持って生きればよい、ということになるのです。「宗教の違いは昇る道の違いで、頂上は同じだ」という考えはこのように神を「善、愛、正義…」などの概念に抽象化することと表裏一体をなしています。しかし聖書が教えているのは、そのような抽象概念としての神ではありません。イエス・キリストという具体的な一人の人間となり、肉体をもってこの世を歩み、私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれ、肉体をもって復活された方こそまことの神なのです。神を信じるとはこのキリストを信じることで、「善の力」を信じることではありません。ルイスも、「ライオンと魔女」において、人間の罪の赦しのために身代わりとなって死ぬ具体的存在としてのアスランを描いたわけですが、この「さいごの戦い」に来てそれと矛盾することを語っているのです。
 ルイス自身は、「ライオンと魔女」からもわかるように、具体的な存在としてのイエス・キリストを信じているのであって、決して「善の力」という抽象的なものを信じているわけではないでしょう。また、善悪二元論の傾向があるとはいえ、決して善の神と悪の神を対等の存在としているわけではありません。それはこの「さいごの戦い」において、タシの神はもう登場せず、最終的にどうなってしまったのかわからない、ということからもわかります。タシの神はアスランと並び立つような存在ではないのです。このようにルイス自身の信仰は基本的に聖書に基づくものです。そのことを前提として考えるならば、ここにはルイスの「キリスト教の優位性」についての素朴な思いが見えてきます。彼にとって、アスラン(キリスト)こそまことの神であり、他の神は偽りの神であることは自明の前提なのです。そのことを前提とした上で、偽りの神を誠実に信じている異教徒も、実は無意識の内にキリストに仕えているのだ、と言っているのです。このことが、第三の問題点です。キリスト教こそ真実の宗教で、他の宗教は偽りの神を信じている、しかし偽りの神でも誠実に信じている人は、無意識の内にキリストに仕えていると言えるのだ、というのは、キリスト教の傲慢です。カロールメン国はヨーロッパから見た「トルコ」のイメージで描かれています。つまり彼らの宗教はイスラム教です。タシの神はアラーの神ということになります。そのように見るならここにはキリスト教からイスラム教への差別、蔑視があると言えます。ルイスは、キリスト教国であるイギリスにおいて、キリスト教こそ真理であるという素朴なそして実は傲慢な前提に立って、異教徒エメースもアスランの民だったのだと書いているのです。この前提なしにこれを読むならば、先ほど述べたようにこれは善悪二元論となり、神を「善」という概念に抽象化することになるのです。このような問題点は、日本のような、「キリスト教の優位性」などどこにも見られはしない異教の社会においてキリスト者として生きている私たちだからこそ敏感に感じられることなのかもしれません。
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